皆さん、こんばんは。三期生の角野雅芳です。これから「世界商品により形成された近代世界」の後半の発表をします。まずは前回の内容を振り返りながら後半を展望します。
・歴史を変えた世界商品は銀と香辛料
前回は近世のヨーロッパ諸国が希求した世界商品は銀と香辛料だったという話をしました。また大航海を可能にした帆船と羅針盤や高度計を用いた航海技術を紹介しました。
銀は通貨の原料となり、交易を活発にし、資本の蓄積を促します。例えば紀元前500年前に、銀を産出した古代ギリシャはペルシャを凌ぐ大国になりました。16世紀にスペインは新大陸を発見しました。スペインは、南米のボリビアでポトシ銀山を発見し、莫大な富を得ました。コルテスはアステカ文明を滅ぼし、ピサロはインカ帝国を滅ぼし、スペインに多量の金銀をもたらしました。イタリアのジェノバ商人たちは地中海貿易で得た資本を元手に、スペインやポルトガルに融資し、莫大な資本を蓄積していきました。巨大資本は遠洋航海を実現するのに必要なものでした。
香辛料は、高級商品であり、遠洋交易を活発にしました。当時の一般人にとって香辛料は大変高価なものであり、生活必需品ではありませんでした。胡椒はインドから海路でイスラム人に、アラビアから陸路でベネチア人の手に渡り、ポルトガルに来るころには大変高価になっていました。16世紀のヨーロッパはオスマン帝国に圧迫され、地中海貿易が自由にできなくなっていました。もし外洋に出て海路のみで胡椒を輸入できれば、大きな利益になる状況でした。ポルトガルはインド航路を開拓し、武力で香辛料貿易を独占します。遠洋航海はヨーロッパ人の視野を地球規模に広げ、航海技術は様々な科学技術を発達させました。
1517年にドイツのマルチン・ルタ-がプロテスタント革命を引き起こします。プロテスタントのカルバン派は商業も神の意志に叶うと考え、利子を肯定しました。宗教革命を契機にカトリックの宗教的権威を批判する合理的考えが生まれ、啓蒙的な哲学や科学が発達しました。1600年にプロテスタントの国々であるオランダ、イギリスが東インド会社を作り、香辛料貿易に参加します。こうして銀貨の増加と科学的航海術は香辛料の世界貿易を活発化させ、ヨーロッパに資本を蓄積していきました。
1650年ごろイギリスではコ-ヒ-ハウスが急増します。そこで初めて人々が身分を超えて自由に討議するパブリックスペ-スが生まれました。政治家、船商人、科学者、保険屋、軍人、報道者などが集まる様々なコ-ヒ-ハウスが発達しました。近代文明を支える銀行や保険会社や民主主義政治やジャーナリズムがコーヒ-ハウスで誕生したのです。イギリス人は中国から茶を、カリブ海の島から砂糖を輸入して紅茶を飲むようになります。宗教改革は真面目なカフェイン文化を育み、カフェイン文化は産業革命や工場労働に適合し、近代市民文化を形成してゆきました。
それでは大航海時代に話を戻します。海路で胡椒を輸入できれば、大きな利益になる可能性は大いにありました。しかし当時の知識ではインドに行ける航路があるかどうか分かりませんでした。それどころか地球が球体であることも一般には知られていない時代です。また帆船での長距離航海には莫大な費用と深刻な病気の危険性がありました。
・どうして当時のヨーロッパ人は命をかけて航海に出られたのでしょうか?
それは商人の金儲けの欲望と消費者の東洋への憧れが強かったからと説明するしかありません。キリスト教の布教は、目的というよりは、利益をあげるための手段でした。しかしながら現代人の感覚では、大航海は無謀であり人的損失があまりにも大きく利益に見合うものではありません。搾取された植民地の原住民や売買された奴隷らは本当に酷い目に遭いました。しかしながら香辛料貿易に従事していた船員や兵士たちの多くは罪人や奴隷や下層階級の人々でした。当時は、船員や原住民の人命や人件費が軽視されていたので、香辛料貿易の損失は、中継地の建設と破損した船の修理費程度であり、人的損害は深刻な問題にならなかったのです。
さてポルトガルは15世紀初頭から既に1000km離れた温暖なマディラ諸島でアフリカの黒人奴隷を使った砂糖キビ栽培をしていました。ポルトガルにはアフリカ付近の外洋航海の経験は既にありました。ポルトガル人のバスコ・ダ・ガマは胡椒を求めてアフリカ喜望峰を廻る航路を発見し、インドのカリカッタに到着しました。
当時は、東インドにパスタ-ジョン牧師が率いるキリスト教国があるとの噂がありました。ガマは東洋のキリスト教国と組んでイスラム教徒を撃退したいと考えていましたが、実際にはそのような国はありませんでした。インドのイスラム商人はガマが差し出した粗末な交易品を見て笑いました。ガマは敵視しているイスラム商人に蔑まされて、大変悔しい思いをしました。当時、内陸のムガル帝国の権力は港町に殆ど及んでいませんでした。ガマはインドの商人たちが艦隊や銃を持たずに軽い税金を払い自由に商取引をしていることを知ります。
ガマの報告を受けたポルトガルは大砲を積んだ艦隊を東南アジアやインドに送ります。そして武力を行使して港町を占領して貿易を行い、莫大な利益を上げました。もちろん小国ポルトガルがインド航路の探索に費用を捻出できたのは、地中海貿易で資本を蓄積したイタリア都市国家の支援があったからでした。
しかし80年後、ポルトガルは没落し、スペインに併合されます。スペインは、ジェノバ商人に対するポルトガルの借金を肩代わりしたからです。カトリックの王族が、ジェノバの高利子の融資を受け続けた理由は、彼らは金銭管理に関心がなかったからでした。商業の発展により、時代がカトリック国家からプロテスタント国家に移ったことは必然的なことでした。プロテスタント国家であるオランダ、イギリス、フランスはそれぞれ東インド会社を設立し、東方貿易を巡る熾烈な覇権争いを繰り広げました。東インド会社は国家により独占貿易を認められた民間企業です。大航海時代以前の覇権国家は中国とインドでした。辺境のヨ-ロッパ諸国は東インド会社を設立し、東方貿易を独占支配することで世界の覇権を握ったのです。
・各国のインド航路の違い
東インドとは、インドの東側ではなく、インドを含む東アジア全体のことです。西インドとは、インドの西側ではなく、南北アメリカ大陸のことを指します。 各国のインド航路は少し違っていました。ポルトガルは、東アフリカの港町に中継地点を設け、ケニアのマリンディからカリカットに向けてインド洋を航海しました。英仏は、アフリカ南端のケープとマダガスカル沖の小島を中継地点として、インドに向かいました。オランダ船は喜望峰から南インド海流に乗ってオ-ストラリア西岸まで行き、西オ-ストラリア海流に乗って、ジャワに行きました。イスラム教徒はインドからアラビア半島端のアデンを通る経路で香辛料を運んでいました。
・季節風の影響を受けるインド航路
左は夏、右は冬のインド洋の気圧配置と風向を示しています。季節によってジェット気流が蛇行するために、熱帯収束帯の位置が変化します。風は低気圧である熱帯収束帯ITCZ(Intertropical Convergence Zone)に流れ込みます。春から夏にかけて、チベット高原に低気圧が生じます。4月から5月にケニアのマリンディを出発すると、南西の季節風に乗ってインドに行くことができます。10月~1月にインドを出発すると北東季節風に乗ってマリンディに到着できます。
欧州各国は同じ時期にインドで香辛料を買うので、買い値が上がります。また同じ時期に帰港するので、売値が下がります。貿易上手なオランダは香辛料を安値で買うために季節風の影響を受けにくいオ-ストラリア航路を選びました。
上の写真は喜望峰です。南アフリカはヨーロッパの雰囲気ただよう市街地とエメラルドブルーの海を目当てに、世界中から多くの旅行者が訪れる人気の観光スポットになっています。
・ポルトガルは武力行使でインドの港町を征服
ポルトガル人はレコンキスタ運動でオスマン帝国等のイスラム人を敵視していました。バスコ・ダ・ガマは、3隻の帆船で喜望峰を廻るインド航路を発見して、富豪になりました。
東アフリカの港では、ガマは沖合に停泊して、イスラム住民を銃で脅して水を奪ったと言われています。行きは5月にケニアのマリンディを発ったので追い風で順調にインドに到着した。しかし帰りは8月にインドを発ったため、マリンディ到着に3カ月要し、壊血病で30人もの人が死にました。
ガマは二回目の航海では20隻の大艦隊で出かけ、インドの港町を砲撃し、沖合で掠奪行為を繰り返しました。ガマはインド洋でメッカ巡礼にいく大型船を略奪し、女子供が乗る乗客300人の船に火をつけて、傍で眺めていました。1503年に14隻の船が1500トンものスパイスを積んでリスボンに戻り、ガマは大富豪になりました。内陸のインド帝国は海岸の商業都市には関心が薄く、ポルトガルの支配を許しました。教科書は英雄の野蛮で非情な行いには触れないことが多いので、日本人が知らないことはたくさんあります。
1500年にガブリエル(ポルトガル)は、インドに行く途中で流されて、幸運なことにブラジルを発見します。たまたま漂着地に染料となるブラジルの木が生えていたことから、その土地はブラジルと命名されました。ブラジルは砂糖キビ生産の中心地となり、ポルトガルを潤すことになります。
ポルトガルはアラビア半島先端の港町アデン(紅海の入口)を支配できませんでした。インドの香辛料がアデンからアレクサンドリア経由でベネチア商人の手に渡りました。そうなるとポルトガルは、香辛料を独占できず、他のヨ-ロッパ勢力の掠奪に会い、没落していきます。
・インド総督アルブケルケの4拠点政策
1506年にポルトガル王マヌエル1世がアルブケルケ(ポ)を第二代インド総督に任命します。アルブケルケ(1453年 – 1515年)は、ホルムズ、ゴア、マラッカ、アデンの4拠点を次々と制覇し、ポルトガルの軍神と称えられました。
1521年にマゼラン艦隊が「モルッカ諸島がスペイン領であること」を確認しに来訪します。スペインとポルトガルは香辛料諸島の領有権を巡って争います。1525年にカール5世(ス)とジョアン3世(ポ)はなんとお互いの妹と結婚することで、両国の紛争を終結させます。1529年にスペインはサラゴサ条約を締結し、ポルトガルにモルッカ諸島を譲渡しました。1565年に息子のフェリペ2世(ス)はフィリピンの植民に成功しました。フィリピンはポルトガル領にありましたが、カール5世の思惑通り、ポルトガルはスペインがフィリピンを領有することに反対しませんでした。おかげでスペインはマニラで銀と交換に中国の絹織物や陶磁器を手に入れることができました。
・モルッカ諸島とバンダ諸島の位置
モルッカ諸島は、ボルネオとニュ-ギニアの間にあるヘルマヘラ島の西方に並ぶ5つの小さな島々です。バンダ諸島はモルッカ諸島の南に位置する4つの島です。モルッカ諸島の名前は有名ですが、モルッカ諸島の島々の正確な位置を指し示せる人は殆どいないでしょう。
バンダ諸島はとても小さな島々です。ナイラ島にはベルジカ要塞(1611年建設)があり、今では観光地になっています。要塞は香辛料を貯蔵しておく場所です。香辛料を守るために要塞にはたくさんの大砲が設置されています。要塞の形はア米国国防省と同じ5角形です。
・スパイス諸島は世界の注目の中心地
モルッカ諸島はテルアナ、ティドレ、モティ、マキアン、バカンの5島(火山性土)からなります。モルッカ諸島はクロ-ブの世界唯一の自生地でした。クロ-ブは花の蕾を乾燥した香りの強い香辛料です。香辛料貿易は4000年以上の歴史を有します。スパイスは初めての世界商品です。紀元前1720年にバビロニア帝国(現シリア)のテルカ遺跡の陶器に付着したてクロ-ブが報告されています。つまりクロ-ブは1万km離れた距離を交易で移動したことになります。
中国人がアンボン港に来てスパイスを購入して、インドで売り、イスラム商人がインドアからシリアに運び、ベネチア人がヨーロッパにスパイスをもたらしました。香辛料貿易はイスラム教よりずっと古いのです。だからイスラム教徒が香辛料を広げたというよりは、香辛料貿易がイスラム教を広げたといった方がいいでしょう。
バンダ諸島はナツメグの世界唯一の自生地でした。ナツメグはニクズクという常緑樹の種子でプラウ・アイ島とルン島の2島に自生しています。ニクズクの実の中の種を覆う紅い仮種皮はメース(mace)と呼ばれる香辛料です、ナツメグは種の中の直径2.5cmの仁(じん)を摩り下ろして得られます。バンダ諸島はイギリスの植民地でした。オランダはマンハッタン島と交換に英国王ジェ-ムズ1世からバンダ諸島を得ました。
17世紀にオランダはインドネシア人にインド産のアヘンを売って胡椒を得ていました。胡椒はまさに世界の通貨として通用しました。イザベル女王(ポ)の結婚持参金は胡椒でした。
オランダのY.P.ク-ン総督(蘭)は、イギリスと手を結ぼうとしたバンダ諸島のロンタ-ル(Lonthoir)島の先住民13,000人を殺害しました。日本人傭兵を使って英国との交易を望んだ40人を晒し首に処したと言われています。日本では平戸に貿易を制限され大人しくしていたオランダ人は、スパイス諸島では恐ろしい暴君でした。
有名な香辛料にバニラ豆があります。トマス・ジェファーソンはバニラアイスのレシピを米国にはじめて紹介した人です。バニラ豆は香辛料諸島では採れません。バニラ豆はメキシコ湾岸のベラクルス地域に自生していました。バニラ豆は2.5万種のランの中で唯一の農産物です。スペインはバニラを独占していましたが、1822年にフランス人がバニラの差し穂をマダガスカル沖のレユニオン島に持ち込み、エドモン法の発見により50年後にメキシコの生産量を追い越しました。
・オランダも香辛料を求めインド航路を開拓
オランダは低湿地で農業に適さないので、漁業と海運業が発達しました。ポルトガル王室は胡椒販売の拠点を北ドイツのハンブルグに定めました。主な販売先はメディチ家、ハプスブルグ家、南ドイツのフッガ-家とウェルザ-家です。オランダ商人は胡椒の売買ができず不満でした。
1588年にイギリスがスペインの無敵艦隊を撃破します。イギリスの私掠船が大西洋上で胡椒を積んだポルトガル船を襲撃する事件が多発します。その結果、1592年に胡椒の価格が高騰します。オランダ商人は東アジア貿易を決断します。
1595年4月に10万ギルダの銀貨を積んだオランダ船隊4隻(大砲100門)が、ジャワ島の港町バンテンに向けて出航しました。ケープタウンに寄港し、15カ月後にバンテンに到着します。1597年8月にオランダ船隊3隻が帰還しましたが。240人から87人に減少していました。実に乗組員の2/3が死亡したことになります。 それでもオランダ国王は喜び、船隊を次々に送ります。1599年7月にヤコブ・ファン・ネックの船隊(4隻)はインドからアムステルダムに帰還しました。ネックが持ち帰った東方の品々は、400%もの利益率をもたらしました。5年間にオランダは15船隊(65隻)を東アジアに派遣しました。ポルトガルは23隻でした。
1602年3月にオランダ東インド会社(VOC)が設立されました。VOCはアムステルダム周辺の5会社とゼーランド周辺の6会社が合併して出資した民間会社です。オランダ政府は21年間の独占契約と更新料150万ギルダ(=15万ポンド=360億円)を決定しました。当時の1ポンドは24万円、1ペンスは千円程度です。VOCは46条の権利として要塞設置権、総督任命権、兵士雇用権、条約締結権、貨幣鋳造権などの国家権力を譲渡されていました。収奪した品々を保管するために堅固な要塞が必要でした。オランダVOCの資金は、642万ギルダ(1540億円)で、イギリスEICの12倍もの資本がありました。VOCの配当金は平均利率20%、株は元値の4倍以上の額で取引されました。
1603年12月にオランダVOC船隊12隻が、ポルトガルが支配するアフリカのモザンビ-クとインドのゴア港を攻撃しました。オランダはポルトガルと同様に武力で交易を支配しようとしたのです。VOCのアムステルダム本社の画像です。
・不良人材に借金をさせて船乗りを確保
オランダ東インド会社の貿易船の乗組員の構成は、船乗り60%(外人35%)、兵士30%(外人65%)、船職人9%、上級商人と聖職者1%でした。船乗りと兵士は妻帯厳禁、上級商人は妻帯可能でした。
インドへの船旅は危険でした。記録によると100年間で往路は97.6万人、帰路は36.6万人が移動しましたが、61万人が船上か現地で死亡しました。船上の死亡率は8~15%と高かったようです。乗組員の2/3は帰って来られませんでしたが、罪人や下層階級の人命は軽視されていました。船長は彼らを騙して水夫や兵士にしました。優秀な水夫は軍隊に取られるので、残りの不良人材を雇用しました。
1)居酒屋、賭博場、売春宿に誘い騙して多大な借金をさせ借金証書を取る。
2)航海中は週に3回(1食200g)羊肉と豚肉が食べられると伝え誘惑する。
3)出航前まで地下室に監禁し、スープ一杯の食事で弱らせる。
帰路は交易品を大量に積むために、水夫や兵士の数を減らしました。女性の乗務員は100年間で200人しかいなかったそうです。停泊地では1カ月弱停泊し、水と食料を補給し、船を修理しました。水は1日3リットル。イギリス船ではテムズ川の不味い水を飲んでいました。水は船の前方、火薬は後方に積まれました。船底には陶器や穀物や金属を置いて船を安定させ、食肉の周りを胡椒で埋めました。防湿のために絹、綿、茶、スパイス、コ-ヒ-の周囲に陶器、銅銭、染料木を置きました。船上は高く浮きが見えず、魚釣りは難しかったかもしれません。
病気はマラリア、壊血病(scurvy)、脚気(beriberi)が多かったです。赤痢(dysentery)、腺チフス(typhus)などの病気にかかることもありました。チフスやペストはネズミやヒトの蚤を媒介して感染します。リンパ腺が腫れるので腺チフスと言います。
・イギリス東インド会社はインドの統治機関へ変貌
イギリスは気候が冷涼で、農産物の価格が高く、生活費がかかるため、人件費が高い特徴があります。イギリスの毛織物、刀剣、宝飾品、時計、象牙、珊瑚などの特産物は、高価でインドではあまり売れませんでした。
1600年12月にイギリス東インド会社(EIC)が設立されます。EICはロンドン商人が設立した民間会社で、英国政府が15年間の独占貿易を認可しました。1601年3月にEICの船隊(4隻、110門)がスマトラとジャワに向けて出航します。マラッカ海峡でポルトガル船を掠奪し、2年半後に帰還しました。10年間の東インド貿易の平均利益率は155%でした。
1608年にムガル帝国のジャハンギ-ル皇帝がEICに北西インドのス-ラト港町での貿易を許可します。1611年にインドの南東部のマスリパトナムにイギリスEICの商館を設立しました。1622年にEICはサファビ-朝のアッバ-ス1世の要請でホルムズ島(ポ)の攻略に成功し、ペルシャ全土での自由貿易権を得ます。ペルシャは砂漠の国で木材がなく船が作れませんでした。岸から8km離れたホルムズ島に軍隊を派遣できなかったのです。イギリスは現地の権力者から良い待遇を受けるようになりました。1639年にEICは地元領主の招きでマドラスに拠点をもちます。EICは関税を免除され、税収の半分をもらう権利を得ます。1757年にベンガル地方でおきたプラッシ-の戦いで、EICが仏印連合を破ります。EICはインド太守に代わり徴税を行い、いち貿易会社からインドの植民地統治機関へと変貌していきました。
・フランス東インド会社は出遅れたが国家支援を受けた
フランスのパリは内陸都市で、セ-ヌ川には大型船は入れませんでした。フランスは長距離航海を支えられる商業資本が特定の港町に蓄積されませんでした。
1664年にフランス東インド会社が設立されます。財務大臣コルベ-ルがルイ14世に進言し、王族、貴族、官僚が1200万リーヴルの資本を拠出しました。国務評定官が会社を経営しました。1667年にフランソワ・カロン(元平戸のオランダ商館長)がベンガル商館を建設し、木綿(キャラコ)・胡椒などをフランスに輸入しています。1673年にフランス東インド会社はベンガル地方のシャンデルナゴルに商館を建設します。また中継基地としてインド洋上のモーリシャス諸島とレユニオン島を領有しました。1674年にコロマンデル地方(インドの南東海岸)のポンディシェリに要塞を建設します。しかしあまり利益は出ませんでした。
1719年にジョン・ロ-が東インド会社を民営化します。株は銀行家や外国人が所有し、株主の代表が会社の経営に参加するようになりました。財務、航海、艤装の専門家などが取締役となり、ポンディシェリ総督と共に運営しました。株の半分が一般開放され、ルイ15世は1/5を保有していました。
1720年にはブルターニュの海岸にロリアン(Lorient)港を建設しました。4000人もの労働者が雇用され、ロリアンの造船所には船の建造に必要な専門技術者、職人が集められました。これらの政策によってフランス東インド会社の収益が上がっていきます。交易品は英国の石炭、錫、鉛、アイルランドの塩漬肉とチ-ズ、スペインの銀貨などでした。
<フランスの貿易モデル> 仏→東インドの綿織物→西アフリカの奴隷 → 西インド諸島の砂糖 →仏
・ヨ-ロッパの東インド貿易の船舶数
下の図にヨーロッパの東インド貿易の船舶数の変遷を示します。データは10年間の船舶数を表わしています。1500年~1600年のデータはポルトガルが外洋に出した平均船舶数を表しています。1600年以降ポルトガルは徐々に船舶数が減少します。1720年~1730年にオランダの船舶数は最大382隻となります。東方貿易はオランダが一番勢力があったことが分かります。オランダ、イギリス、フランスは、東インド会社を設立後、東方貿易に関わる船舶数が増大します。フランスは17320年にロリアン港を建設以後、交易が活発になります。1790年以降、東インド会社の船舶数は急激に減少します。
・世界商品が近代グロ-バル経済を形成した理由
これまで近代のグロ-バル経済を形成する契機になった香辛料貿易がどのように進展してきたかを詳しくお話してきました。香辛料が日常品になった後は、砂糖や茶が高収益な世界商品となって、グロ-バル経済を発展させていきます。そこで私は、次の3つの仮説を考えました。
仮説Ⅰ 豊かな生活は好奇心が満たされる生活である。
仮説Ⅱ 好奇心を満たす商品は高収益の世界商品になり得る。
仮説Ⅲ 高収益の世界商品がグロ-バル経済を形成発展させる。
当時は人的損害を極めて低く評価したので、無謀な香辛料貿易が黒字になり得ました。航海技術や貿易・中継拠点が発達し、高収益の世界商品が現れました。それによって投資が増大するためにグロ-バル経済は形成されました。またより収益の高い商品の開発によってグロ-バル経済は発展していきました。その結果、現代では生活必需品もグロ-バルに流通するようになったと考えられます。逆に国家体制はグロ-バル経済で収益を揚げられるように変化していきました。しかしながらグロ-バル化によって、貧困や経済格差、金融崩壊、健康被害、環境破壊などの様々な問題が引き起こされています。
宗教は歴史に大きな影響を与えました。異なる宗教や異なる宗教解釈によって国が対立したり、独立するために、絶えず戦争が起こりました。王室は戦費を捻出するために東インド会社に権限を与え、投資をしてきました。しかし宗教を布教する宣教師よりも、はるかに多くの商人が東インドに行き、活躍しました。
人間はよりお金を儲けるために経済を発展させてきました。だから歴史の原動力はお金儲けだと言う人がいます。しかしその考えは一面的です。なぜなら高価な香辛料を買う消費者がいるからこそ、香辛料を売ってお金を儲けたい商人が生まれるからです。グロ-バル経済の誕生には商人と消費者の両方が必要です。どちらが先であるかを考えると、世界商品を求める消費者の欲望の方が先だと思われます。従って私は「グロ-バル世界を形成した歴史の原動力は、人々の好奇心を満たす世界商品である」と結論して良いのではないかと思います。
・胡椒や香辛料が求められた本当の理由
従来説では、胡椒は食肉の保存、保存の悪い食肉の味付けのために用いられていたとされています。ところが、『食の歴史』第二巻28章P641を執筆したJ.L.フランドラン氏によると
1.肉と魚の保存は塩、酢、植物油で行われていた。
2.肉は現在よりももっと新鮮な内に食べられていた。
3.貴族は保存肉や腐りかけた肉を食べなかった。
4.塩漬け肉はマスタ-ド味をつけて食べられていた。
ということです。どうやら胡椒は食肉の保存や臭い消しのために用いられていたのではなかったようです。当時、胡椒や香辛料は医薬品で、薬膳料理に不可欠だったと考えられます。メイスは水腫や胃腸痛、ナツメッグは船酔いと不眠症、クロ-ブは吐き気や歯痛止め、シナモンは消化、精力増強と受胎、胡椒は男性機能の向上に効果があると信じられていました。
・欧州貴族は香辛料が健康に必要だと信じていた
15~16世紀のヨ-ロッパの医学は時代遅れの四体液説に基づいていました。四体液説(Humorism)とは、人間の身体には「血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁」の4種類の体液(humor)があり、その調和によって身体と精神の健康が保たれるとする考え方です。この医療法は古代ギリシャのヒポクラテス(BC480年)が唱えましたが、現代では疑似医療とされています。
180年頃ローマ帝国時代のギリシア人医学者ガレノスは四体液説に基づいて500種類以上のハーブを「熱、冷、乾、湿」の性質に分類・体系化し、イスラム医学に継承しました。
11世紀コンスタンティヌス・アフリカヌス修道士がガレノスの著書を西欧医学の正典としたためヨ-ロッパでは医学の進歩が大幅に遅れました。1570年にスペイン王フィリップ2世はスパイス調査のため医師団をメキシコへ派遣しています。スパイスは医薬であると考えられていたからでしょう。
四体液説によると、肉魚は湿っているので、乾いたスパイスを食べて体液のバランスを保つ必要があると考えられました。調香師は、50種以上の複雑なスパイス処方を行い、貴族の健康管理をしていました。貴族は性欲亢進効果を期待していたようです。
・香辛料の香りは人間の記憶に強く残る
鼻の奥にある嗅細胞は2.4cm2に500万個ほど並んでいます。嗅細胞の先端には、数本の嗅線毛があり、毛の表面に300種類以上の匂い分子の受容体があります。匂い成分が受容体に付着すると電気信号を発し、脳に伝えられます。
嗅覚以外の感覚(視覚、聴覚、味覚、触覚)は脳の中で理性的に認識されます。感覚情報が論理的に認識され、その後に快・不快の感情が生じて記憶されます。
嗅覚情報は、直接、脳内の感情や記憶を司る大脳辺縁系に届きます。論理的に認識する過程を経ずに、直接、快・不快の感情と結びつき、長く記憶に残ります。
赤ちゃんは生まれた直後、母親の乳輪腺が出す匂いを頼りに乳房を見つけます。臭覚は、腐敗した食物を検知するなど命の危険を察知できるように設計されるために、鮮明な印象を残し記憶や感情を引き出す力が特別に強いと考えられます。
・香辛料の価格が低下した理由
それはフランス人が東インドから香辛料の苗木を盗んで栽培したからだと言われています。1770年にピエ-ル・ポワブル(1719-1786)という片腕のフランス人宣教師が、ナツメグ1000本とクロ-ブ300本をフランス島(現Mauritius)に移植栽培し、6年後に収穫に成功しました。1776年にポアブルは仏領マダガスカルとザンジバル島(現タンザニア)でクロ-ブの栽培を開始しました。香辛料が日用品に降格し、オランダの覇権が崩れる要因となります。
1841年にインド洋のレユニオン島で当時12歳の黒人少年のエドモン・アルビウス(1829-1880)がバニラ豆の人工授粉に成功しました。現在バニラ香のバニリンは針葉樹パルプ廃液のリグニンから製造可能になっています。バニリンは芳香族フェノ-ルにアルデヒド基とメトキシ基が付加した構造になっています。
7.キリスト教宣教師による日本征服計略
これまで銀と香辛料貿易の話しをしてきました。大航海時代の日本は戦国時代と江戸時代にありました。日本は鎖国をしており、ヨーロッパ人との交流は極めて限定的であると教えられてきました。しかし実際はヨーロッパ人が日本に与えた影響は極めて大きく、日本人もヨ-ロッパの植民地戦争に参加していた実態が明らかになってきました。
・なぜ信長はキリスト教の布教を許したか?
1)信長はキリスト教勢力を利用し仏教勢力(石山本願寺)を排除したかった。
2)信長はポルトガル人宣教師から鉄砲の鉛玉(タイ産)を得ていた。
3)信長は鉄砲技術で天下統一を果たそうとした。
グネッキ・オルガンティ-ノ宣教師(ポルトガル)はキリシタン大名の軍事力で日本を征服しようとしました。彼は石山戦においてキリシタン大名高山右近に信長を支援するように命令します。グネッキは信長をキリシタンにしようとしたのですが、信長は「我神にならん」と言って撥ね付けられてしまいます。明智光秀が足利義明の命に従い、信長を本能寺で暗殺します。
・日本の鉄砲技術は世界一
日本は1543年の鉄砲伝来から2年で鉄砲の複製に成功します。俗説では八板金兵衛は娘の若狭をオランダ人に嫁がせて、銃底を塞ぐ技術を教えてもらったそうです。当時の日本には銃の底を塞ぐネジの技術がなかったのです。ネジは鉄砲だけに用いられ、明治になるまで広がりませんでした。
日本は刀鍛冶の技術を応用し、鍛造で鉄の不純物を減らし、銃身強度を高めました。それによって日本産の銃は甲冑を打ち抜く破壊力を得ました。堺で分業による鉄砲の大量生産(30万丁)を行いました。当時世界の1/3の鉄砲は日本にあったと言われています。専門職人がそれぞれ火蓋、銃身、銃床を作りました。鉄砲は一丁30万円程度で売られるようになりました。鉄砲や大砲は日本の統一を加速しました。日本の武士は勇敢であり、日本は世界屈指の軍事大国でした。日本は強力な統一政権があったために、分断されずに列強の植民地支配を免れることができました。江戸時代には、武士は傭兵として植民地戦争に参加していました。オランダは日本製の銅製大砲を用いドイツ三十年戦争に勝利しました。
・南蛮人を利用した内戦、大阪の陣
1614年に大坂冬の陣は大阪城を守る豊臣家10万兵(傭兵)と徳川家20万兵の戦いです。徳川軍は大阪城からの鉄砲射撃で打ちのめされて撤退します。鉄砲は守りに威力を発揮します。大砲は責めの兵器です。徳川家康は英国よりブロンズ製のカルバリン(Culverin)砲4門とオランダからより大きいカノン砲12門を購入しました。カルバリン砲は中口径の前装式大砲で、14kgの砲弾を最大6.3km飛ばすことができました。豊臣軍は大阪城に昼夜大砲を撃ち込まれて疲労困憊します。大坂城の本丸に砲弾が直撃し、淀の目の前で侍女が死亡し、降参します。和平交渉では、外堀が埋められ、二の丸、三の丸が撤去されます。
豊臣秀頼にはスペイン人のロドリコ・デ・ビベロ総督が付きます。スペインの目的は布教と領地でした。日本をキリスト教国家にして、中国を攻撃させようとしたのです。ビベロ総督は鉱山技師を派遣する代わりに採掘した銀の50%を要求しました。またオランダ人の国外追放とキリスト教会の設置を要求しました。しかし大阪の陣で敗退します。
徳川家康にはオランダ東インド会社のジャック・スペックス商館長が付きます。オランダは布教よりも利益が目的でした。オランダはスペインから独立するための資金として日本の銀を安価に入手しようとしたのです。佐渡の銀山の埋蔵量は2300トン(高純度)で年間産出量100トンでした。これは世界の銀の産出量の1/3に相当していました。スペックスは銀と交換に家康にブロンズ製の大砲を売りました。城までの距離は500mで、大砲の有効射程距離は1800mでした。家康はオランダの支援と大砲で大阪城の攻撃に成功しました。それを可能にしたのは佐渡の豊富な銀だったのです。
・17世紀のオランダの東アジアでの貿易
17世紀のオランダが東アジアで行っていた交易は興味深いものです。オランダは日本の長崎で棹銅と鮫皮を交換し、南東インドのコロマンデル地域で棹銅を綿織物に交換し、東南アジア各地で綿織物を胡椒や香辛料、染料、鮫皮(エイ)と交換していました。18世紀にはジャワの砂糖を日本へ運んでいました。オランダは日本で銀と生糸を交換し、台湾で日本の銀を中国の生糸と絹織物、陶磁器と交換していました。オランダ本国に綿織物、染料、胡椒、香辛料、銀、絹織物、陶磁器を持ち帰っていました。
鮫皮は濡れても滑らないので刀の柄に用いられていました。オランダ人は鮫皮をタンスの装飾に用いるように提言していました。オランダ人は日本の銅や銀が欲しかったのです。日本人は砂糖や生糸を欲しがりましたが、香辛料は欲しがりませんでした。
1637年にオランダ東インド会社(蘭VOC)の70%利益を平戸商館での交易が占めていました。だからオランダは日本の言うことに従っていました。1640年に平戸の蘭VOCの石造倉庫の取り壊し命令が下されました。建物に刻まれた建築年「1640年」がキリスト教と関係しているという理由でした。翌年カロン商館長は平戸から長崎へ移転させられます。商館長はやってられない気持ちだったと思います。
1662年にオランダは鄭成功に台湾を取られ、中国貿易が停止します。徳川幕府が金銀の持ち出しを禁じます。インド綿がヨーロッパで人気がでて高価になり、東南アジアで売れなくなりました。オランダは胡椒を銀で買うしかなくなります。
・なぜ九州大名はキリスト教を信仰したのか?
九州の大名は、年貢米や参勤交代で財政が逼迫しており、南蛮貿易で領国の経営を安定させたかったから、南蛮人の信用を得るために、キリシタンになったと思われます。また領国内をキリスト教で統一できれば、支配を強化できる思惑もありました。有名なキリシタン大名には、長崎港をポルトガルに献上した大村純忠、黒田官兵衛、蒲生氏郷、黒田長政、小西行長、細川ガラシャ(光秀の娘)などがいます。1580年にポルトガル人宣教師はキリシタン大名を利用し、九州を支配下に置きます。10万人のキリシタン兵力と大砲技術は幕府の脅威でした。
・秀吉のキリシタン政策
1587年に秀吉はバテレン追放令を発令し「20日以内に帰国せよ」と命じます。ポルトガル商人は数百人の日本人を那覇で奴隷として売っていました。オランダ商人は布教しないから、長崎で滞在を許されました。1592年に秀吉は朝鮮出兵(74万人)を行い、キリシタン大名を最前線で戦わせ、勢力を減少させました。このとき明は朝鮮に援軍を送りました。秀吉は、海禁政策をとる明に軍事的な圧力をかけ、中国沿岸から東南アジアにかける海域の中継貿易の主導権を握ろうとしたのです。秀吉はフィリピンに送られる大量の金銀を狙っていましたが、1598年秀吉とフェリペ2世は逝去し、日本とスペインの戦争は回避されました。
8.砂糖キビ栽培と奴隷貿易
・17世紀に英国は三角貿易で富を蓄積
毛織物は暑いインドでは不要です。ヨ-ロッパにはインドや中国が欲しがるような商品はありませんでした。ヨーロッパの商人は、アフリカで銃器や綿織物やガラス玉などを黒人奴隷と交換し、黒人奴隷を西インド諸島などのカリブ海の植民地まで運搬・売却し、砂糖や綿花やたばこなどをヨーロッパに持ち帰る三角貿易を行っていました。イギリスはアフリカで綿織物の需要が高いことに目を付け、綿工業はイギリス産業革命の基盤となりました。イギリスは三角貿易で蓄積された資本で工業国になりました。
カリブ海の植民地では、砂糖キビが栽培され、砂糖キビを絞って砂糖を得ていました。搾りかすの糖蜜(廃糖蜜)も本国に送って、廃糖蜜をアルコ-ル発酵させ、蒸留してラム酒を生産していました。ラム酒はアフリカ大陸で黒人奴隷と交換されました。黒人奴隷をカリブ海の植民地に送り、砂糖キビの栽培と砂糖生産をさせていました。砂糖とラム酒がイギリスの三角貿易を支えました。
・奴隷貿易を支えた安価なラム酒
1627年に英国人入植者がカリブ海のバルバドス島で砂糖キビ栽培を開始しました。20年後に首都のブリッジタウンは砂糖貿易の中心地となり、入植者は大富豪になりました。そこではじめて砂糖生産で生じる廃糖蜜を発酵・蒸留させた安価なラム酒が製造されました。砂糖キビの学名はサッカラムといいます。サッカは甘い、ラムは茎を表します。ラム酒のアルコ-ル濃度は60%以上もありました。アルコ-ル濃度が高い方が船で運びやすくなります。廃物を利用してラム酒は安価に製造され、三角貿易の販売経路を利用して安価に輸送されました。
「ホワイトラム」は活性炭によりろ過された無色透明のラム酒です。サトウキビや糖蜜の味がそのまま味わえ、カクテルに使われます。「ゴールドラム」は樽で熟成したもので薄い褐色をしており、お菓子の香りづけに使われます。「ダークラム」は内面を焦がした樽で3年以上貯蔵して、濃い褐色のもので、風味が強いのが特徴です。
ラム酒は
1)黒人奴隷と交換する通貨の働きをした。
2)奴隷を統制し、苦しみを紛らわす。
のに用いられました。アフリカの奴隷商人はラム酒を最も欲しがりました。
1655年に英国海軍は海兵にビ-ルの代わりにラム酒を支給しました。フランスは自国のブランディ産業を保護するために、植民地でのラム酒生産を禁止します。英国の酒造業者は仏植民地から糖蜜を輸入し、ラム酒を安価に製造しました。こうして英国の酒造業者は仏の砂糖植民地を利したので、英国の砂糖業者は打撃を受けました。そのため1733年にロンドンで糖蜜法が制定されます。政府は輸入糖蜜1ガロンに6ペンスを課税しました。するとラム酒の密輸が横行しましたが、イギリス政府は取り締まれませんでした。このように法の権威が失われたことは、アメリカが独立する原因となりました。
イギリス政府は1765年に印紙法、1767年にタウンゼント法、1773年に茶法を成立させ、アメリカ植民地から税金を取りたてました。それに反抗して1775年にアメリカ独立戦争が起こり、1781年にアメリカがイギリスから独立します。ベトナム戦争でコカコ-ラが兵士の飲み物となったのと同様に、独立戦時中にはラム酒(革命の香)がアメリカ兵の飲み物となりました。
1795年にエドワ-ド・バーノン提督がラム酒に砂糖とライムを加えたカクテルを作り、船員に飲ませました。これによってイギリス海軍は壊血病を防ぐことができるようになりました。フランス海軍はワインを蒸留したブランデ-を飲んでいたので、壊血病になりました。1805年にフランスとスペインの連合国はトラファルガ-海戦でイギリスに敗れます。ラム酒は大国の運命も変えてしまったのです。
・産業革命が各国の東インド会社を廃止させた
イギリスでは、船員や軍人や奴隷などの肉体労働者はラム酒やウイスキ-などの蒸留酒を飲み、工場労働者や知的労働者はコ-ヒ-や茶などのカフェイン飲料を飲みました。コーヒ-はコーヒ-ハウス独自の市民文化を育み、紅茶は産業革命時代の工場労働者を支えました。それによって科学が発達し、工場経営や工場労働ができる近代文化が発達しました。茶はインドと中国の半植民地化、アメリカ植民地の独立を引き起こしました。
産業革命前は、船で香辛料を独占的に買い付けて、自国に持ち帰って販売していました。東インド会社は香辛料貿易を独占する代わりに収益の20%を政府に収めていました。これらは国が貿易で確実に利益を得るためのものでした。また独占貿易により香辛料の購入価格の上昇を防止しました。しかし香辛料の栽培が多くの植民地で可能になると、スパイス貿易は不要になります。また香辛料が大量生産されると価格が低下して日用品となり、大きな利益が得られなくなりました。
産業革命後は、独占貿易が自由貿易に変化します。機械による大量生産が可能になり、綿織物などの大量の商品を様々な国に自由に売った方が利益が得られるようになったからです。政府は大量生産物の販売で利益を上げた全ての企業から税収を得られるようにしました。
・ポルトガルは15世紀に砂糖キビ栽培開始
1419年にマデイラ諸島が発見され、ポルトガルの植民地となります。すぐに黒人奴隷による砂糖キビ栽培が行われました。ポルトガルは、コロンブスが西インド諸島を発見する73年前に、黒人奴隷による砂糖生産を行っていました。本国から1000kmも離れていたので、殆どのポルトガル人は沖合の小島で奴隷労働が行われていたことを知りませんでした。
1999年にマデイラ島の美しい照葉樹林は世界遺産に登録されました。首都はフンシャルで、人口は14万人です。標高1,862mのルイボ山があります。クリスティアーノ・ロナウド選手はフンシャルの出身です。1479年、コロンブスはマデイラの娘と結婚してマディラに住んでいました。マデイラ・ワインは高アルコ-ル度数の高級ワインとして有名です。
・砂糖きびの栽培地の変遷
0)砂糖キビは東南アジア原産。前500年インドで、8世紀にエジプトで栽培、
製糖された。砂糖は十字軍によって、ヨーロッパに伝えられた。
1)砂糖キビはスペイン領のカリブ海のキュ-バなどの島々で栽培された。
先住民や黒人奴隷をつかって砂糖キビ栽培と製糖を行った。
2)16世紀をつうじて世界の砂糖生産の中心はブラジルだった。
黒人奴隷を獲得できたポルトガルは砂糖プランテーションができた。
ポルトガルから伝来した金平糖やカステラには砂糖が使われている。
3)17世紀に入るとオランダ人によって、砂糖きび栽培はイギリス領
やフランス領のカリブ海の島々に移された。
4)18世紀に入るとイギリスなどでお茶に砂糖を入れるようになり、
砂糖の需要が飛躍的に伸び、砂糖が「世界商品」になった。
英国人は中国の紅茶にカリブ産の砂糖を入れて飲んだ!
5)砂糖入り紅茶がイギリスの都市労働者の朝食に不可欠になった。
・砂糖きびの栽培に必要な条件
砂糖キビ栽培には適度の雨量と温度が必要です。土壌の肥料分が消耗するので移動して栽培しなければなりません。製糖は重労働でした。奴隷による規則正しい集団労働が必要でした。精糖の加熱工程に要する薪を得るため、森林伐採による環境破壊が進みました。砂糖は紅茶に入れて多くの市民に飲まれるようになりました。当時イギリスで一番の金持ちは精糖業者でした。1799年植民地のないプロイセンはビ-ト(砂糖大根)による精糖法を開発します。
・黒人奴隷の輸送方法と価格
植民地での商品作物の栽培と加工を支えたアフリカの黒人奴隷についてお話をします。1452年にローマ教皇ニコラウス5世が、異教徒を永遠の奴隷にする許可を与え、非キリスト教圏の侵略を正当化しました。奴隷貿易は1515年~1865年の350年間継続します。
<アフリカ人が奴隷にされた理由>
・植民地の先住民はヨ-ロッパ人による虐殺と疫病で激減し労働力が不足した。
・ベニン王国等は他部族の黒人を白人に売却し、衣類、ラム酒、武器を購入した
・アフリカ人奴隷は熱帯気候と伝染病に強いと信じられていた。
<黒人奴隷の輸送方法>
・侵略や内戦の捕虜、襲撃や拉致された者を海岸の砦に押し込み、出荷した。
・2週間分の食糧で大西洋を横断。15%~34%は飢えと病気で死んだ。
・1隻当たり250人の奴隷。英国は190隻で年間4.7万人を輸送した(1771年)。
・奴隷の総数は1250万人(毎年5万人の奴隷が250年間供給されたことに相当)
・英国では奴隷積載船の需要が増し、リヴァプールの造船業は急速に成長した。
・アフリカに綿製品を販売して、マンチェスターの綿工業も大いに発展した。
<奴隷の価格>
18世紀当時は1ポンド=10万円でした。1ポンド=20シリング=240ペニーの貨幣制度でした。ある記録では1680年に仕入れ5ポンド(50万円)、販売20ポンド(200万円)ですから、現在でいうと奴隷一人当たり150万円、1隻250人として3.75億円の利益になりました。100年後の1780年では、仕入れ20ポンド(200万円)、販売45ポンド(450万円)ですから、奴隷一人当たり250万円、1隻250人として6.25億円の利益になりました。女奴隷は子供を産むので、金8オンス(240g)で販売されたとあります(1772年)。これは1200万円に相当しますが、現代の生涯賃金は2億円と較べると安いです。奴隷の警ら隊に奴隷を監視させていました。逃亡奴隷は罰を与えられました。女奴隷の子どもは奴隷にされました。奴隷の強姦は日常的なことでした。
・奴隷貿易の利益率は?
奴隷貿易の利益率は60%程度あり、通常の利益率15%を遥かに超えていました。1725年英国のブリストル港を出航した100トンのガレオン船の記録によると、
1)鉄砲、綿織物、鉄の塊、銅の鍋、帽子など1330ポンド分の積み荷をのせ、
西アフリカ海岸まで運び、240人の黒人奴隷と交換した。
2)奴隷をカリブ海沿岸の砂糖農場に運び、1人あたり13.5ポンドで売却した
とあります。従って
・売上高 = 13.5(ポンド/人)×240人= 3240(ポンド)
・粗利益 = 3240-1330 = 1910(ポンド)
・粗利益率= 粗利益/売上高 = 1910÷3240 = 60% >>15%(通常)
となります。18世紀末には、奴隷は1人50ポンドに高騰しました。その理由は
(1)航海での奴隷の死亡率は非常に高かった。
(2)海岸近辺で奴隷を乱獲したため、奴隷の調達コストが上がった。
そのため鉄砲を売って、内陸部から奴隷を調達しました。奴隷を家族単位で所有し、子ども奴隷を産ませました。奴隷を買う必要がなくなるからです。奴隷商人は、解放された黒人の一家を襲い、再び奴隷として売ることもありました。たとえ奴隷であっても、イギリス本国に一歩でも入れば、自由人になれたと言われています。一方イスラム世界にも、スラブ人やゲルマン人の奴隷がいました。しかし奴隷の刑罰は自由人の半分で済みました。7歳未満の奴隷は母親から離して売ることは禁止されていました。
・英国の奴隷船ブル-クス号
奴隷船に積まれた奴隷はガレオン船に丸太のように収納されました。奴隷の男女比は男63%、女37%程度でした。食事はイモ類、ナタマメ、バナナなどを粉状にした家畜の餌でした。35才で商品の価値は半減しました。奴隷船15隻に1隻は反乱がおきました。黒人奴隷に積荷の損害保険をかけ、病死しそうな奴隷は数十名単位で海に投げ込まれました。奴隷要塞間で奴隷の強奪が横行していました。奴隷と船員の船上死亡率は殆ど同じでした。
・奴隷貿易に使われたガレオン船
16世紀の中頃から、スペインではガレオン船という3本~4本マストの大型帆船が使われるようになり、スペインのマニラとメキシコのアカプルコを結ぶガレオン貿易で活躍しました。
・荒廃する西アフリカ諸国
アフリカでは最も儲かる産業が奴隷貿易だったため、伝統的な手工業の発展が廃れてしまいました。住民が連れ去られた後、村落や田畑が荒れ果てました。特に辺境の内陸地方は壊滅し、多くの民族と伝統文化が失われました。売った側と売られた側の民族対立が激しくなり、武力衝突に発展しました。植民地では平和維持のためと称して列強が介入し、支配を強め、キリスト教による完璧な収奪システムを築き上げました。ダホメ-王国では、度重なる奴隷獲得戦争で男性の絶対数が減少し、1.5万人の女性兵士が軍の主力となっていました。彼女らは裸ですが、鉄砲で武装していました。女性兵士は一人当たり50人の奴隷を抱えることが許され、タバコやアルコールが支給されて待遇面は悪くなったようです。1894年にダホメ-王国はフランス軍に敗れて植民地となります。西欧によるアフリカからの奴隷輸出は、ダホメ-のような戦士型小国家を乱立させました。アフリカ原住民は戦争や奴隷狩りから逃れるためにイスラム化していったとも考えられます。
・奴隷が解放された理由
奴隷貿易はイギリスでは1807年、フランスでは1817年、スペインでは1820年に廃止されました。奴隷貿易が廃止された理由は、奴隷が可哀そうだからではなく、奴隷貿易の利益が低下したからです。具体的には
1)奴隷の卸売り価格が上昇した。
2)奴隷が生産する農産物の価格が低下した。
奴隷が解放された理由は、奴隷を解放した方が、資本家が利益を得られるからでした。1769年ワットの蒸気機関が発明され、イギリスで産業革命が起こります。機械化により、やがて生産性が飛躍的に向上しました。しかし商品を買う人がおらず、製品在庫が溜まってしまいました。そこで奴隷を解放して労働者にして、稼いだ金で製品を買わせることにしたのです。
アメリカ南部はイギリスに綿花を輸出していたので、イギリスが標榜する自由貿易を支持していました。北部は工業立国を目指していましたが、ヨーロッパに勝ち目はなかったので、保護貿易を望んでいました。貿易形態の利害の対立からアメリカ南北戦争が始まります。アメリカの工業化のために奴隷は開放されたのです。しかし差別は容易にはなくなりませんでした。
9.コーヒ-ハウスによる市民革命
・絶対王政時代の近代文化
1.科学の大いなる発展
科学的な思考法は、教会の教義を合理的な証明で覆すようになりました。ルネサンス時代は、個人の能力を前面に発揮して活躍する実力社会になりました。1628年にジェームズ1世の侍医ハーヴェ(1578-1657)は血液循環説を提唱します。ハーヴェは心臓は血液のヒータ-ではなくポンプであることを明らかにします。
ボイル(1626-91) 近代科学の父 アイルランド人貴族
ニュ-トン(1642-1727) プリンキピア 万有引力で人は地球から落ちない
リンネ(1707-78) スエ-デン人 植物を統一的に分類した人
ラヴォアジェ(1743-94) 質量保存の法則 税金を横領して研究費に充てる
ジェンナ-(1749-1823) 種痘法を開発 他人に注射するかなり怪しい人
2.近代的世界観の確立
経験主義と合理主義の哲学が発展し、科学的かつ世俗的な近代的世界観が形成されました。
・フランシス・ベ-コン(1561-1626) 「新オルガヌム」 4種類の偏見を紹介
帰納法 観察と実験で得られた個々の事例から、一般的理論を導き出す
・ルネ・デカルト(1596-1650) 「近代哲学の父」 「方法叙説」
演繹法 前提を立て、そこから論理的に結論を導きだす。
人間の理性を認識の基礎にして、世界を論理的に把握する
スピノザ(オランダ人)、ライプニッツ(ドイツ)、パスカル(フランス)
・カンド(1724-1804) ドイツの批判哲学
認識とは、理性が与えた形式で経験を理解すること。理性の限界を考察、批判
・絶対王政を批判する思想
1.市民階級の急成長
・コーヒ-ハウス 店内では各種の新聞や雑誌の閲覧が可能
・サロン(社交場) 貴族・上流階級の女性が主催
・カフェ(フランス) 市民が政治文化を議論
2.新思想の普及
1)自然法(普遍的ル-ル)
・グロティウス(1583-1645) 「近代自然法の父」
三十年戦争の惨禍から国際法の必要性を提案
2)社会契約説
・ホッブズ(1588-1679) 「リバイアサン」(1651)
ル-ルの必要性から絶対王政を養護した。
・ロック(1632-1704) 「統治二論」
政府とは市民の財産や幸福を守るために存在すると主張。
・ルソ-(1712-1778)
人民主権の国家が理想的だ。今のフランスはおかしい。
3)啓蒙思想
・ヴォルテ-ル(1694~1778) 「哲学書簡」 王権神授説を批判
・モンテスキュ-(1689~1755) 「法の精神」 三権分立を主張
・ディドロ、ダランベ-ルら 「百科全書」 世俗的世界観の形成
・コーヒ-ハウスは近代文明の発祥地
アフリカのコーヒ-はアラビアに伝えられ、イスラム教徒は宗教行事の間に居眠りしないためにコーヒ-を飲みました。どこでも宗教行事は眠くなるのですね。元々コーヒ-ハウスはオスマン帝国のイスタンブ-ルで発展しました。当時イスタンブ-ルの街には600件ものコ-ヒ-ハウスがあったと言われています。イスラム教徒はワインなどのアルコ-ル飲料を飲みませんでした。酔ってアッラーの神を忘れることは許されないからです。このイスラム文化が酒浸りのヨ-ロッパ人を正気にしたのです。
1642年にイギリスで清教徒革命がおこり、絶対王政が倒れました。1652年にはロンドンにもコーヒー・ハウスが開店しました。コ-ヒ-の栽培地はイエメンで、ベネチア経由でロンドンに来ました。コ-ヒ-はアルコ-ル飲料に代わる新しいカフェイン飲料でした。カフェイン飲料という世界商品は世界を全く新しい姿に変えたのです。
1660年の王政復古、1666年のロンドン大火を経て、コ-ヒ-ハウスは1000軒以上に増加し、民衆のたまり場となりました。そこではチョコレ-トかコーヒ-1杯でいつまでもいられました。コ-ヒ-ハウスでは身分の区別なく人々が同席して議論をし、情報交換をしました。アダムスミスは国富論をコ-ヒ-ハウス「ブリティッシュ」で書きました。
コ-ヒ-ハウスは同業者が集まるようになり専門化していきました。まさにコ-ヒ-ハウスから王立協会と科学者(科学技術)、新聞社と出版社(ジャーナリズム)、文学(小説)、政党、演説館(民主主義)、株式会社、保険会社、船会社、銀行(金融)、証券会社、採鉱会社などが一斉に生まれたのです。ロンドンは世界金融の中心地となり、植民地戦争への資金を提供しました。カフェインによって市民国家と科学技術を両輪とする近代文明がイギリスで開花したのです。
・カフェから起きたフランス革命
1726年に小説家のフランソワ・ヴォルテ-ルがイギリスに追放されます。彼はニュ-トンとロックの影響を受け、啓蒙思想家となり、他人の人生、健康、自由、平等を尊重する合理的な考え方を啓蒙します。1750年にフランスのカフェは600軒ありました。ロンドンの喫茶店は言論の自由がありましたが、女人禁制でした。パリの喫茶店は誰でも入れましたが、政府の監視下にありました。1772年にヴォルテ-ルらは百科全書28巻を完成させます。宗教界は合理的で世俗的な世界観に反発しました。1789年にカフェ・ド・フォアで、ネッケル罷免に反発して、弁護士カニ-ユ・デムランが革命を宣言します。フランス王室の借金を国民が負担する矛盾が革命を引きおこします。フランス革命はカフェから起きたのです。
<行きつけのカフェの例>
カフェ・パルナス :ルソ-、ディドロ、
カフェ・プロコ-プ :ダランベ-ル、ベンジャミン・フランクリン
カフェ・アングレ :役者
カフェ・アレクサンドル :音楽家
カフェ・デ・ザルム :軍人
カフェ・デ・ザグ-グル :売春宿
・茶は貴重品から日常品に変化
お茶が中国から世界に拡散し、アメリカ独立を促すまでの歴史を以下に簡単に示します。
780年 唐の陸羽が『茶経』で茶の栽培方法と飲み方について紹介する。
茶の塊は通貨として使用された。 茶のタンニン酸には殺菌効果あり
従来中国は米や粟のビ-ルを飲んでいた。モンゴル人は馬乳酒。
1191年 日本の栄西が茶の健康効果を讃えた。
1610年 オランダ船に初めて茶が積まれた。
1635年 サイモン・ポ-リ-医師(独)が「茶を飲むと死期が早まる」と警告。
1641年 オランダ人医師が茶の健康効果に言及。1日10杯以上飲みなさい。
1660年 この時期、茶100gは10万円、コ-ヒ-100gは2万円もした。
1662年 キャサリン王妃がイギリス王室に茶を飲む習慣を導入した。
1699年 茶6トンの輸入量。100年後には1.1万トンに拡大し、価格は下落した。
1717年 ト-マス・トワイニングがコーヒ-ハウスで女性に茶を出す。
1744年 茶5000トン輸入 税収の10%を占める。
1757年 リッチモンドの乞食らが紅茶を飲んでいた。茶は水の次に安い飲み物。
1773年 ボストン茶会事件。
1776年 アメリカ独立宣言
・カフェインの覚醒作用
カフェインの覚醒機構が解明されたのは割と最近のことです。人が覚醒しているのは、脳の結節乳頭核からヒスタミンが大脳全体に拡散されているからです。人が眠くなるのは、アデノシンが脳の腹側外側視索前野を活性化し、結節乳頭核のヒスタミン放出を抑制するからです。カフェインは、アデノシンが腹側外側視索前野を活性化するのを抑制するので、覚醒作用を引き起こすと考えられています。つまりカフェインは、アデノシンの誘眠作用を妨げるので、大脳を覚醒させるということです。
アデノシンはエネルギ通貨であるATP(アデノシン三リン酸)の一部です。ATPは植物にも動物にもあります。動物では筋肉活動により分解されたATPからアデノシンが生産されます。だから運動した後は眠くなるのです。アデノシンはプリン環に糖(リボ-ス)が結合した構造をしています。プリン環を酸化して酸素を2つ付けたのがキサントシン(xanthosine)です。植物はメチル化変換酵素によって、キサントシンから糖を外し、プリン環に3つのメチル基(CH3)を付加させてカフェインを合成しています。カフェインには他の植物を寄せ付けないアレロパシ-作用があります。またカフェインを含んだ蜜を吸ったハチは覚醒して蜜の在処をよく記憶すると言われています。
メチル化したカフェンは大脳脂質を拡散し易くなります。カフェインはアデノシンと類似しているので、神経細胞のアデノシン受容体A2Aを遮蔽します。するとドーパミン受容体D2Aがアデノシンの抑制を受けなくなるので、覚醒が維持されます(2002年)。カフェインは脱メチル化酵素で代謝されて尿酸になり排出されます。ちなみにヒトは尿酸値が極めて高い動物です。尿酸には抗酸化作用があるので、人は長生きするとの学説があります。
カフェインの摂取量は1日400mgが限界です。致死量は2gです。マグカップ1杯250mlのコーヒ-には、80mg程度のカフェインが入っているので、4杯くらいに制限した方がいいです。喫煙者はカフェインの覚醒作用が効きません。
10.イギリスが経済発展した理由
・ペストによる人口減少で毛織物産業が発展
1348年9月に黒死病(ペスト)がイギリスに上陸します。黒海で貿易をしていたジェノバ商人の毛皮の服に付着したノミがペスト菌を媒介したと言われています。翌年にペストはフランスやロシアにも拡散しました。イギリスの毎年の死亡率は3.5%程度でした。ペストのせいでヨ-ロッパの人口の30%~40%が失われました。イギリスでは特に深刻な人手不足が生じ、農民の賃金は2~3倍に上昇しました。農民は農園から逃げると罰せられましたが、お金が溜まれば、都市に逃げるようになりました。1年間逃げ延びれば、自由の身になることができたからです。
1351年には低賃金の農村労働力の確保と物価統制を目的に、労働者規制法が発布されます。これは「60歳以下の無職の者は、領主の元に戻り以前の条件で就労しなければならない」という法令で、従わない者は投獄されました。1377年の人頭税を機として、1381年にはワットタイラ-の農民一揆がおきます。タイラ-らはロンドンを占領し,国王リチャード2世に農奴制廃止などの要求を認めさせましたが、鎮圧されます。
ペスト流行を契機に農業畜産技術が進歩します。人手不足により耕作地が余ったので、地代が安くなり、食料価格や家畜の飼料が安くなりました。余った耕作地にクロ-バやイガマメを撒いて牧草地にして、牛や羊を飼う人が増えました。農地を牧草地にして休ませると小麦の連作障害を防げることが分かってきました。
農業畜産技術の進歩により、イギリスでは羊毛の品質が向上し、梳毛(そもう)織物(worsted fabric)が開発されました。梳毛糸とは羊毛の短い毛を梳 (す) いて除き、2.5cm以上の長い毛のみを並べて紡いだ糸のことです。梳毛糸で織った毛織物は、従来の紡毛糸より表面がなめらかで、薄手でながら緻密で、弾力と張りがあるのが特徴です。梳毛織物はイギリス初の世界商品になりました。
イギリスは金融と貿易産業が活発になっていき、高賃金を求めて都市人口が増加します。自立農民の中には農地を売って、都市に移住する人も出ました。1500年のロンドンの人口は5万人でしたが、200年後には50万人に増加します。ロンドンからの輸出品の74%は毛織物であり、ロンドンの25%の人が輸出産業に従事していました。1500年の時点でイギリスの都市人口は7%、農業人口は74%でしたが、1800年には、イギリスの都市人口は30%に増え、農業人口は35%に減りました。農民は封建君主に搾取されていましたが、都市化によって農村は人手不足となり、農民の待遇は改善されていきました。農奴制は14世紀末から崩れ始め、16世紀末には完全に崩壊しました。
・国家が国民を搾取した南海泡沫事件
イギリスでは株式会社を使って巧妙に王室の借金を国民に負担させます。1711年に大蔵卿ロバート・ハーレーが南海会社を設立します。ハーレ-はイギリス政府の財政危機を救うため、国債の一部を南海会社に引き受けさせ奴隷貿易による利潤でそれを賄おうとしましたが、会社は振いませんでした。1718年に南海会社が発行した富くじが大成功し、投機ブ-ムが起こりました。1719年、巨額の国債引き受けの見返りに、額面等価の南海会社株を発行し、国債保有者の国債を時価等価の株券と交換させました。例えば南海会社は額面200ポンドの国債を額面100ポンドの株(時価200ポンド)と交換します。時価等価の額面200ポンドの株券を時価400ポンドで市民に売って、差額200ポンドの利益を不当に得ていたのです。1720年6月に南海会社の株価が急騰・暴落し、多くの投資家市民が被害を受けました。王立造幣局長官のニュートンは2万ポンド(1億円)の損失を被りました。ニュ-トンは金持ちだから大丈夫だったのでしょう。同月、政府が株式会社を禁止し、会計監査制度が導入されました。イギリスは失敗から学び、ウォルポ-ル首相は、王室ではなく、議会に国債を管理させることにしました。
・ジョン・ロ-のミシッシッピ計画(フランス)
1715年にルイ14世は30億リ-ブルの負債(国家歳入20年分)を残して逝去します。1694年にジョン・ロ-はロンドンで貴族の娘を巡って決闘し、殺人罪で指名手配となり、アムステルダムに逃亡し、銀行家になります。1716年にジョン・ローはルイ16世の経済ブレ-ンになります。彼はフランスの経済不況の原因は通貨不足にあると考え、不換紙幣を発行させます。1718年に王立銀行は1800万リ-ブルの銀行紙幣を発行します。ローは外国為替銀行を説き伏せてネットワークを作り、海外貿易の決済にその紙幣を使えるようにしました。王立銀行の紙幣は納税も可能であるとして、紙幣の信用を高めました。
1719年に王室はミシシッピ会社を設立します。これはフランス領ルイジアナの都市開発用の会社でした。市民投資家は正貨で株券を購入しました。会社は王立銀行の紙幣を正貨で購入し、保有者の国債を株券と交換して、王室の借金を引き受けました。1720年1月に王立銀行は16億リ-ブルの紙幣を発行しました。紙幣は2年で90倍になりました。ミシシッピ会社の株価は10倍に増加し、市民が株を購入しました。しかし1720年5月に王立銀行で取り付け騒ぎが発生し、ミッシシッピ会社の株価は暴落します。市民投資家が大損害を受けてしまいました。ローは財務長官を辞任し、国外逃亡し、9年後にベネチアで死亡しました。ニクソンが金本位制を手放してブレトンウッズ体制が終わるのは1971年です。ジョン・ローはよく言えば250年も時代に先んじていたことになります。
1744年にフランスはイギリスとインドと新大陸を巡って植民地争奪戦を再開します。1763年のパリ条約では、イギリスが勝利し、フランスは戦費を浪費します。イギリスはフランスからカナダとミシシッピ川以東のルイジアナを獲得します。フランスの財政赤字は40億リ-ブルとなり、ブルボン王朝が崩壊します。1775年にはアメリカ独立革命が起こり、1789年にはフランス革命が起こり、急進派が政権を握ります。1793年に急進派政権は債務者ルイ16世と債権者貴族らを処刑して問題を解決します。
・イギリスのウイスキ-が琥珀色になった訳
日本には日本酒、中国には老酒、フランスにはワイン、ドイツにはビール、ロシアにはウォッカ、そしてイギリスにはウィスキーがあります。現在のウイスキーが誕生したのは、1790年代にイギリス政府が、植民地戦争に必要な資金を得るために、ウイスキーの製造に必要な蒸留器の免許に15倍の税を課したことに由来します。スコットランドのウイスキー業者の一部は、山に入り、泥炭で蒸留した密造酒を作るようになりました。シェリーの空き樽に溜めて、少しずつ売ったのです。スコッチ・ウイスキーは、ピートの煙をしみ込ませたモルト(大麦麦芽)を原料にし、樽で熟成して琥珀色になりました。
・イギリスで石炭の価格が低かった理由
中世までのイギリスの一般的な家屋には煙突がなく、背の低い暖炉で薪や木炭を使って炊事をしていました。煙は天井近くの換気窓から逃がしていました。イギリスの石炭は硫黄分が高いため、臭気が強く、煙突が必要でした。石炭は背の高い暖炉でないと効率よく燃焼しませんでした。従来の家屋では石炭が使えなかったのです。
下図に炭田があるミッドランド地方における木炭と石炭の価格推移のグラフを示します。縦軸は同じ熱量を得るのに必要な燃料の価格を示しています。1540年から1640年までイギリスでは石炭は木炭の半額でした。1640年から1700年にかけて、石炭の価格は変わりませんでしたが、木炭の価格は上昇し石炭の7倍になりました。
毛織物産業の成功により、1550年代以降、ロンドンの人口は100年で5万人から20万人に増え、都市圏は広がり、絶えず家屋が新築されるようになりました。ロンドンでは木材の価格が急騰し、石炭の2倍以上になりました。当時のイギリスの林業では、ほぼ15年周期の萌芽更新が行われていましたが、木材の供給が追いつかず、遠方から購入したので価格が上昇したのです。
1666年9月にロンドン大火事件が生じ、1万3200戸の家屋が燃え落ち、教会や市庁舎などの公共建築も多数が崩壊しました。再発防止のため、ロンドンでは木造家屋の建築が禁じられました。木材価格は石炭の3倍以上高くなりました。新築の際には安価な石炭が使える石とレンガと煙突のある家屋が建てられたのです。拡大した石炭の需要に応えて、精力的に炭鉱が開発されたため、19世紀まで石炭の価格は安定していました。
1570年に23万トンだったイギリスの石炭生産量は、1700年には300万トンに、1800年には1500万トンに達しました。2位のベルギ-は200万トンにすぎませんでした。炭鉱のあるミッドランド地域では石炭はもっと安かったので産業革命は炭田付近の田舎町からはじまりました。バーミンガム鉄山とミッドランド炭田を背景に、製鉄工業が発展しました。
・イギリスで産業革命が起こった理由
産業革命には投資が必要です。それには利子を取って投資を行う資本主義が不可欠です。現代では考えられませんが、カトリック教徒やイスラム教徒は利子を取ることを禁じられていました。カトリック教徒は利子を取ると、協会にキリスト教徒として埋葬して貰えなかったのです。しかし利子を認めたプロテスタントの国々の中でどうして最初にイギリスが産業革命に成功したのかは興味深いところです。
イギリスで産業革命が起こった理由をいくつかあげます。その理由としては、宗教的理由、文化的理由、地下資源や科学技術などの理由、金融的理由、経済的理由など様々な理由が考えられます。
<イギリスで産業革命が起こった理由>
1.カフェイン文化の導入(知的議論と工場労働。他の西欧国はアルコ-ル文化)
2.農業に不向きな土地と気候 (農民は高賃金の工場労働者に転職)
3.プロテスタントの労働倫理 (金融活動や工場労働を奨励)
4.世俗的で弱い王権 (宗教的な寛容性、新文化の受容性が大)
5.ジェントリの強い発言権 (労働者の確保、綿織物工場の建設)
6.科学と哲学の伝統 (古典力学、経験哲学、古典派経済学は機械技術を発展)
7.豊富な石炭資源 (反射炉、コークス、パドル法による錬鉄の発明)
8.効率的な運河網 (船による木材や資材の運搬が容易)
9.高炉製鉄による大量の鋳鉄砲生産 (強力な軍事国家)
10.高度な機械式時計の製造技術 (時計技術を綿織機製造に応用)
11.奴隷貿易による資本蓄積 (新興企業への積極的な融資)
12.高い都市労働者の賃金 (農奴制の崩壊による都市労働者の増加)
資本市場の成熟度でいえば、当時のオランダもイギリスに後れを取っていませんでした。しかしイギリスでは人件費が高かったので、織物などの生産労働を機械に置き換えると生産費用を低く抑えることができました。またイギリスでは石炭が安かったので、燃費の悪い蒸気機関でも何とか利益を出すことができました。その結果、イギリスは革新技術に投資しても利益を出せるようになり、産業革命が始まったと考えられます。明治時代に人件費が低い日本が紡績産業の機械化に成功したのは、驚くべきことだと言えるでしょう。
・高炉による製鉄技術
機械やレ-ルや蒸気機関車は鉄でできています。イギリスには炭田と鉄山が隣接していたので、産業を支える製鉄技術が発展しました。1709年にデ-ビ-父子が石炭を乾留してコ-クスを得ます。多孔質のコークスは通気性が良いため、高い燃焼温度が得られる利点があります。コ-クスと鉄鉱石を交互に高炉の中に入れて点火し、送風機で空気を供給すると、コークスから発生したCOで加熱された鉄鉱石が還元されて、鉄が溶けだします。小規模の製鉄技術は紀元前からありましたが、イギリスではコ-クスを用いて大型高炉で大量に鉄を生産する技術が発達しました。
製鉄は酸化鉄から酸素と炭素を除去する技術です。還元剤にはCOを用います。木炭とCO2からCOが生じる反応をブードア(boudouard)反応といいます。温度が上がるほどCO2に対するCOの平衡濃度は高くなり、酸化鉄を還元する力が増加します。鉄鉱石に含まれる石英は、石灰石CaCO3を加えて液体のCaSiO3に変えて除去します。鉄の融点は1500℃位ありますが、鉄の中に4%以上の炭素が含まれていると融点が1000℃程度に下がり、液化しやすくなります。炭素が4%以上含まれている鉄は銑鉄(せんてつ)といいます。銑鉄は冷えると固くて脆くなるので、建材には適しません。炭素濃度を減らすと融点が高くなるので、炭素不純物が低く均一な鉄材を作ることは難しい課題でした。1784年にヘンリ-コ-トはパドル法でコークスを用いて銑鉄から錬鉄(れんてつ)を作ることに成功しました。炭素の含有量を0.1%に減らすと錬鉄が得られます。錬鉄は粘り強く剛性が高いので機械や建材に用いることができます。
日本には鉄鉱石(赤鉄鋼α-Fe2O3)がないので、砂鉄(磁鉄鉱Fe3O4)を用いて、たたら製鉄が行われました。たたらとは炉に空気を送る鞴(ふいご)のことです。磁鉄鉱は安定なので、砂鉄を製錬するのは高い技術が必要でした。
ちなみに鉄の磁性はフェロ磁性ですが、磁鉄鉱やγ-Fe2O3の磁性はフェリ磁性と呼ばれています。鉄鉱石の鉄原子は反強磁性的な配列をしており、原子磁気を相殺するので全体の磁力は小さいです。磁気テ-プやフェライト磁石はフェリ磁性を有しています。
・イギリスの製鉄の歴史
1666年以降イギリスでは、製鉄に木炭を使うと、森林が喪失するので、禁止されました。1709年にアブラハム・デービー父子が石炭を高温乾留してコークスを得ました。コ-クスは野原に石炭を積み上げて粉コークスで覆い、蒸し焼きにして得ました。多孔質コークスにより通気性が改善し、製鉄温度が上昇し、炭素濃度の低い鉄を溶かし易くなりました。
1735年にデービーが高炉にコークスのみを用いて銑鉄(炭素3~4%)を得ました。1766年にクラネージ兄弟が高炉でできた銑鉄を再溶解する反射炉を発明します。反射炉は、石炭の火炎で銑鉄を溶解するため、鉄と炭素が分離できました。1779年にジェームズ・ワットが蒸気機関を改良しました。
1784年英国ヘンリー・コートがパドル法を発明します。反射炉中でコークスにより銑鉄を加熱して、パドルで攪拌しながら空気で銑鉄中の炭素を燃やし、錬鉄を得ました。錬鉄の炭素は0.1%以下です。錬鉄は軟らかく粘りがあり、鍛造が容易な鉄です。イギリスでは錬鉄が建築用構造材や鉄道レール、ボイラー材、造船材など幅広い分野で使用されました。コークスを燃やすためには蒸気機関による送風機が有効でした。パドル法は蒸気機関によって駆動される圧延法と結合し、牧歌的な水車ハンマーを過去のものとしました。パドル法反射炉は1820 年までに 8200 基建造されました。
銑鉄1tの生産に石炭10tを要したので、炭田に近接して製鉄所が設立されました。主要な製鉄業地帯は,バーミンガムを中心とするミッドランド、南ウェールズ、スコットランド南部などでした。1811年にはロンドンにガス街灯がともりました。燃料ガスはコークス生産時に大気中に廃棄していた可燃性ガスを回収して得ました。
・産業革命時代の労働時間(1750年以降)
産業革命時代のイギリスの都市労働者は、1年間に3,500時間以上も働いていました。1日に13時間〜16時間も働かされ、休日は週に1回という状況が一般的でした。現在の日本人の年間労働時間は1,700時間程度ですから、実に当時のイギリスの労働者は2倍も働いていたのです。機械化によって子女の長時間労働が問題になりました。
イギリスの社会改革家ロバート・オウエンは「Eight hours labour, Eight hours recreation, Eight hours rest」のスローガンを掲げ、8時間労働を求めました。そして1847年の工場法改正で、ようやく若年労働者と女性労働者に対する10時間労働の制限が実現しました。1919年の国際労働機関の第1回総会でようやく「1日8時間・週48時間」が国際的労働基準として確立しました。日本では1947年施行の労働基準法で8時間労働が規定されました。
オウエンは空想的社会主義者と評価されていますが、人類愛に燃えた素晴らしい人であったことは間違いないようです。ロバート・オウエンのお墓にはこう書かれています。「ロバート・オウエンは博愛主義を胸に抱いて、厳正な労務管理を心掛け労働条件の改善に取り組み、児童労働の廃止や児童教育の導入を試み、労働紙幣を発行、協同村を建設して公正な経済秩序の樹立を生涯を賭けて目指した。協同組合と労働組合運動の指導者として勇名を馳せイギリス社会主義の歴史に一時代を築いた英雄は、教育の理念と協同の精神を現代に残した」
・イギリスはアヘンを密輸して茶を得た
1780年代イギリス国内で空前の紅茶ブームが起こり、イギリスは清から大量に茶を輸入するようになりました。アメリカ独立戦争により、イギリスは植民地を失います。イギリスの綿製品は清で売れず大幅な貿易赤字を出していました。イギリスは、清に流出した銀を回収しようと三角貿易を開始したのです。
イギリスは植民地のインドで生産したアヘンを密貿易で清へ輸出しました。清はアヘンの代金としてインドへ銀を支払い、インドはその銀でイギリスの綿織物を買わされました。産業革命でインドは1820年から綿織物の輸入国になりました。1838年にはアヘンの量が清の歳出の38%を占めるようになりました。清はお茶で支払うことができなくなり、清の銀が流出しました。これによって清国の物価は2倍に上昇して民衆の生活が苦しくなりました。林則徐らが無交渉で密輸アヘンを没収廃棄したため、イギリスは大損害を被ります。イギリスは清国に交渉を求めましたが、現地の役人は賄賂を貪るだけで上層部には全く連絡しませんでした。それどころか清国軍はイギリス商人や領事のチャールズ・エリオットの引き渡しを要求、処刑することを示唆します。窮地に陥ったエリオットはイギリス母国に艦隊派遣を要請し、1840年にアヘン戦争が勃発します。ユダヤ人のマセソン商会がロビ-活動をしたために、イギリス議会500議席はたった9票差で宣戦布告を決断します。清は戦費調達や賠償金(2.1億両)支払いのために増税したのを契機に、民衆は反発し、太平天国の乱が起こりました。
・世界のGDPシェアの歴史的推移
1840年のアヘン戦争後、中国のGDPは急落しています。
・日本の一人当たりのGDPの推移
・一人当たりのGDPの歴史的推移
国内総生産量(GDP)の推移を見れば、イタリア→オランダ→英国→米国の順に台頭していることが分かります。
・古典経済学の発展
重商主義 コルベ-ル(1619-1683) ルイ14世の財務総監
国家がお金を投資して、輸出産業を育てよ
重農主義 ケネ-(1694-1774)「経済表」
富の源泉は農業生産にあり。政府は経済に関与するな。
古典派経済学
・アダム・スミス(1723-1790)「経済学の父」「諸国民の富」
景気は全て神の見えざる手で自動調節されている。
・リカ-ド(1772-1823) 古典派経済学を確立
・マルサス「人口論」
・産業革命の影響
1.資本主義体制の確立
工場・機械・道具・材料を持っている産業資本家が台頭し、労働者を雇って商品を生産しました。イギリスは「世界の工場」となりましたが、科学技術は後発国に模倣されて、イギリスの貿易赤字は解消しませんでした。金融と奴隷による鉱山開発と商品作物栽培、三角貿易とアヘン貿易による搾取で赤字を補填しました。王室救済のための株や紙幣による詐欺行為で自国民に被害を与えました。
2.問題の発生
1)資本家と労働者の対立
2)都市への人口集中 (働き場所を求めて) 農村の過疎化
マンテェスタ-(綿工業)、バーミンガム(製鉄、機械)、リバプ-ル(外港)
3)労働問題
女性・子供の労働(機械のSWを押すだけ) 男性労働者の給料が安くなる
機械打ちこわし運動 ラダイト運動(1811) 失業した手工業者の暴動が発生
3.各国の産業革命
・ベルギ-産業革命(1830) 繊維、製鉄
・フランス産業革命(1830) 絹織物、資本の蓄積が遅い
・ドイツ産業革命(1840) 重化学工業
・アメリカ産業革命(1830) 労働力不足 南北戦争で奴隷解放
・ロシア産業革命(1861以降) 資金不足 フランス資本を導入(1890)
・日本産業革命(1870以降) 明治政府の殖産興業政策
日清戦争後に綿織物工業、日露戦争後に重工業が発展
11.まとめ
・大航海時代の欧州の経済発展の過程
1)自国にない高価な希少品を欲しがる。 金銀、香辛料、砂糖、茶など
2)ヨーロッパでは内戦が続いていた。 → 鉄砲や鉄器が発達、慢性的財政難
3)地中海貿易で資金を貯めた。 → 金融力の高いジェノバ商人の育成
4)遠洋航海ができる帆船を造る。← オスマン帝国による地中海からの追出し
5)造船技士と航海士を養い雇う。 コンパス、高度計、時計、世界地図の開発
6)海路を開拓し、植民地に港を建設する。 船の維持修理と水の供給をする港
7)船で出かけ他国を侵略して金銀を略奪し、資本を蓄積する。各地の銀山開発
8)軍事力で奴隷を入手して、植民地に運ぶ。 奴隷狩りと奴隷船
9)宗教力で先住民や奴隷に商品作物を栽培させる。東インド会社の植民地経営
10)他国を攻撃して奪う。自国の船や港や植民地を守る。大砲の開発、傭兵雇用
11)植民地から自国に商品作物を運ぶ。 大型ガリオン船の開発
12)自国の労働者に商品作物を加工させて付加価値をつける。 産業革命
13)加工品を自国の労働者に消費させる。 市場開拓、労働者雇用促進
14)加工品を他国に輸出して、資本を蓄積する。インドへの綿織物やアヘン輸出
15)資本を他国に融資して利益を得る。 金融によるグロ-バル経済支配の確立
・数々の幸運な出来事
・王室が宗教内戦で慢性的財政難にあり、常に金銀を欲していた。
・キリスト教の教皇が異民族への残虐な支配を正当化した。手荒な海賊文化。
侵略者や宣教師は異民族からの略奪を平気でできた。極めて低い人権意識。
・北欧人らの森林資源と高い造船技術を利用できた。
・コロンブスは『東方見聞録』を読んで西方航海を志した。
マルコポ-ロが獄中で話したことを獄友が書き留めたのが『東方見聞録』。 マルコポーロは中国で聞いた黄金の国日本に関する噂話を話しただけ。
・新大陸が見つかり、そこに金銀財宝があった。
・アフリカの民族意識が低く、同胞民族を奴隷にして売った。
・天然痘に助けられて、先住民を征服できた。
・宗教革命が起こり、利子徴収を認めるプロテスタントが台頭した。
・オランダ、イギリスは産業振興に励み、政教分離により近代化を成し遂げた。
・コーヒ-ハウスの新興で、科学技術と近代思想が発達した。
・ペストによる人口減少で自立農民が増え、羊毛産業が発達した。
・イスラム帝国は政教一致の多民族国家で、利子徴収を禁じた。
産業資本が育たず、封建領主が既得権益を独占し、民主化を弾圧した。
・グロ-バル経済社会が実現した理由
グロ-バル経済社会は、
(1)物々交換から貨幣経済への経済革命(資本蓄積)
(2)封建社会から市民社会への社会革命(市民革命)
(3)農商産業から商工産業への技術革命(科学革命)
を経て、実現された。
・封建社会は保守的で広域的な交易を制限ようとする。
・宗教社会は利子で利益を得ることを禁じ、産業を阻害する。
・市民社会は自由かつ進歩的で広域的な交易を発展させる。
・実用性、効率性、安全性を追求しても、グロ-バル経済社会に移行しない。
・自国にはない斬新な体験を与える世界商品への欲求が、グロ-バル経済社会の実現に寄与した。
・今のグロ-バル経済社会は過剰消費社会である。
・過剰消費社会が循環型社会に移行するにはどのような革命が必要だろうか?
・対ウイルス社会(=人同士が接触しない社会)は過剰消費を減らすだろうか?
・ボトルネック効果で人類の好奇心が増強
7.4万年、前スマトラ島トバ湖の火山が大噴火(直径100km)し寒冷化しました。地球の気温は5℃低下し、ホモ・エレクトゥスなど全人類の60%が絶滅したと言われています。南アフリカ南端に追い詰められた人類の中で、好奇心のある人たちは、海岸のム-ル貝を食べて生き延びました。そのとき現世人類は数千人になり、ボトルネック効果で子孫の遺伝子の多様性が激減しました。人類は好奇心が強く、食性や社会の変化に適応できる人が多くを占めるようになったと考えられています。
ボトルネック効果の典型例:アメリカ先住民の血液型が殆どO型なのは、氷期にベーリング地峡を横断したごく少数の家族にO型の者が多かったから。
<好奇心>とは、新しい物をもっとよく知りたいと思う感情
・自動楽器が複雑模様を織る織機に進化
850年イスラムの玩具設計者バヌ・ムーサのからくりの書に「ひとりでに鳴る楽器」があります。歯のついた樽が回転すると、レバ-が動き、オルガンのパイプを開閉して自動演奏するというものです。これは人類初のプログラム可能な自動演奏装置でした。この時、初めてハードウエアとソフトウエアが分離したと言われています。その後、オルガンやオーケストリオンを自動演奏させる様々な楽器が開発されました。1745年ジャック・ド・ヴォーカンソン(仏)が紙に穴を空け情報を記録する織機を発明しました。1801年にジョゼフ・マリー・ジャカールがこれを改良し、パンチカードで複雑な模様を織り込むジャカード織機を発明しました。音楽と産業革命は結びついています。
・古代人の気晴らし
生存には必要ありませんが、芸術や遊戯は古くから存在していました。南西ドイツではハゲワシの骨に穴を開けた骨笛が3.5万年前の地層から発掘されています。人工的な音階は祖先に新しい体験を与えたと思われます。1924年には2.5万年前の陶器の人形「チェコのビ-ナス」が発見されました。陶芸は今でも多くの人を魅了しています。モヘンジョダロの遺跡から現代と同じサイコロが見つかっています。テ-ベでは、20スクエアというボ-ドゲ-ムが行われていました。ボードゲームでは、同じル-ルでも、毎回異なる新しい展開を体験できます。斬新な体験はいつの時代でも私たちを探求に駆り立てる原動力となってきたのです。
・歴史の原動力は無知と好奇心
大航海時代の貴族たちは、香辛料には優れた医薬効果があると信じていました。彼らは東洋の神秘を体験させてくれる香辛料に神秘的な好奇心を抱いていました。近世には合理的精神はありませんでした。無知と好奇心によりヨ-ロッパ人は香辛料を求め、東洋の国々に無謀で残虐な遠征をしたのです。銀や香辛料がもたらした富は貿易を活発化し、世界を一つのシステムにしていきました。
歴史には様々の幸運な偶然がありますが、その反応は経済原則に従って必然的に展開していきました。新たな体験を与える世界商品の渇望と供給活動が世界の国々を結び付け、近代世界を形成してきました。そして私たちが何気なく気晴らしに飲む飲み物が世界商品として、未来の世界を形成していくのです。現代では新たな情報という商品が、現実世界だけでなく電脳世界にも広がり、世界の人々を結び付け、これまでにないグロ-バルな社会を形成しています。そしてグロ-バル世界には解決すべき様々な課題が残されています。
みなさまが新しい体験に恵まれることを祈念し、発表を終わります。長時間のご清聴ありがとうございました。
参考文献
以上