キサゴ-タミ-のお話し

誰でも一度くらいはキサゴ-タミ-の法話を聴いたことがあるでしょう。昔のインドでは家に実の生る芥子(ケシ)の木が植わっているような家は比較的裕福で数世代続いている家でした。キサゴータミーは釈尊が芥子の粒から子供を生き返らせる薬を作ってくれると思っていたのでしょう。

 裕福な家の若い娘であったキサゴ-タミ-は、息子が幼くして死んだので気が狂い、冷たい骸を抱いて巷に出、子供の病を治すものはいないかと尋ね廻った。この狂った女をどうすることもできず、町の人々はただ哀れげに見送るだけであったが、釈尊の信者がこれを見かねて、その女に祇園精舎の釈尊のもとに行くように勧めた。
 彼女は早速、釈尊のもとに子供を抱いて行った。釈尊は静かにその様子を見て「女よ。この子の病を治すには芥子の実がいる。街に出て四、五粒もらってくるがよい。しかしその芥子の実は、まだ一度も死者のでない家からもらってこなければならない」と言われた。

 狂った母は、町に出て芥子の実を求めた。芥子の実は得やすかったけれども、死人の出ない家はどこにも求めることはできなかった。ついに求める芥子の実を得ることができず、仏のもとに戻ってきた。彼女は釈尊の静かな姿に接し、初めて釈尊のことばの意味を悟り、夢から覚めたように気がつき、我が子の冷たい骸を墓所に置き、釈尊のもとに帰ってきて弟子となった。(仏教聖典 第四章・煩悩、第三節・現実の人生より)

この法話には仏陀の教えである苦・集・滅・道の四聖諦が説かれています。

・人は酷く悩み苦しむことがある。(苦)
・苦しみの原因は無常なる現実を受け入れられないことにある。(集)
・無常なる現実を受け入れることで、苦しみはなくなる。(滅)
・無常なる現実は自分の努力で知らなくてはならない。(道)

世界は無知な人間の行為による現象ですから、どんな理不尽なことも起こり得ます。私たちは理不尽な行為に怒り悲しみを感じます。怒りや悲しみは思考によって引き起こされます。しかし自分の思考に囚われていると、理不尽な現実を受け入れることができません。そのために悩み苦しみは強くなってしまいます。キサゴ-タミ-は釈尊のおかげで、自分勝手な思考への囚われに気づき、子どもの死というありのままの現実を受け入れることで、心の落ち着きを取り戻しました。

この法話には
・私だけでなくすべての人が苦しみながら生きている。
・人は悩み苦しみを仏縁として、人生を生きなおすことができる。
という慈悲喜捨に通じる教えも含まれています。

 瞑想では呼吸の入出や腹の膨縮などの心身に生じる現象をありのままに感じ念じます。初心者が瞑想すると、心身を感じることを忘れてしまい、心配事に関する様々な思考に耽ってしまいます。これは思考に囚われた状態です。思考に気づいたら、思考を止めて観察に戻ります。忍耐強い集中と観察によって、思考に囚われない清らかな心を育てます。
 呼吸の観察は面白みのない退屈な作業ですが、退屈だというのは思考によって生じる判断です。一つ一つの呼吸は、同じものは一つもなく、初めての体験なのです。思考がなければ、呼吸の観察は退屈なものではなくなります。退屈だからやりたくないと思うのは思考に囚われた状態なのです。思考が無くなれば、ありのままの呼吸現象だけが残ります。

仏教では苦しみをどう解決するのでしょうか?

仏陀は弟子たちに心を鍛え清らかにすることで悩み苦しみを超越する生き方を教えました。四諦の2番目の集諦(じったい)とは、怒り苦しみには原因があるという真理です。苦しみの原因を考えてみましょう。どうして怒りが生まれるのでしょうか?それは、私たちが苦しみを善悪で裁いてしまうからです。私たちは「これは悪いことだ」と判断するから、怒るのです。私たちは思考によって、「これは良い」、「これは悪い」と裁いています。つまり怒りの苦しみの原因は執着(固定観念)に起因する反応的な思考なのです。この世はどんなことも起こり得るのです。「これは悪いことだ」「これはあってはならない」という反応的な思考判断は、どんなに正しく見えても、事実ではなく意見であり、酷ければ思い込みに過ぎません。

 3番目の滅諦とは、執着がなくなれば、怒り苦しみが消滅するという真理です。どうすれば執着はなくなるのでしょうか?それは瞑想つまりありのままの観察が執着を無くさせると説かれています。例えば「自分は苦しんでいる」と自分の心のあり様をありのままに観察して、善悪の思考判断に囚われなくなれば、怒りの感情は沸きません。大脳による観察がないときには、古い脳の感情的な反応に刺激されて、善悪の思考判断が生じて、怒りが生じます。思考は生じた怒りを正当化し、事態を悪化させます。余程の緊急事態でなければ、怒って当然ということはありません。私たちは大抵、些細なことに腹を立てているのです。怒りに任せた無理な行為が新たな苦しみを引き起こします。

 同様に「これは嘘だ」と判断すれば、疑いの心が大きくなり、「私は劣っている」と判断すれば、劣等感が生じます。「これは良い」「これは美味しい」と判断すれば、もっと欲しいという欲望が大きくなってしまいます。「これは素晴らしい」と判断すれば、理想に執着することになります。肯定も否定も価値判断を伴う思考は固定観念となり、執着を生じさせてしまうのです。だから仏教徒は自分の考えを本気にしません。

 仏陀の瞑想は有念無想の訓練です。例え思考が生じたとしても。直ちに「価値判断をした」「善悪を裁いた」「正誤を考えた」と気づき、客観的にありのままの心を念じることができれば、思考が断たれ、執着が生じません。食事をしていても、急いで食べて「これは美味しい」と価値判断せずに、よく味わって「味がする」とだけ念じます。仏陀は、いかなる苦しみに出会っても、肯定も否定もせずに思考を超越し、ありのままの心身の変化に気づき、念じることで無用な苦しみを避け、心を安定かつ清浄に保つ瞑想法を完成させたのです。

 最後の道諦は、八正道の実践が苦の永遠の消滅に至る道であるという真理です。八正道は正見、正思惟、正語、正行、正業、正精進、正念、正定の8つです。正見というのは、心身は無常かつ無我なる生滅現象であるという仏陀の見解です。「我」「我所有」は最も執着を断ちがたい思考習慣です。仏陀は、無我の真理を知り、一切が現象であり、執着すべきものが無くなったとき、もう無用な苦しみに会うことはないと説かれました。

この世は不条理なことだけでなく、理不尽なことも起きるようにできています。しかしこの世を呪い、他人を憎んで生きることは、自分や家族を不幸にします。自分が幸福に生きるためには、すべての人の幸福を願って生きていくしかありません。自分だけでなく多くの人が理不尽な不幸に耐えて生きていることを知り、理不尽な出来事に感謝して瞑想を実践し、自分の弱い心を鍛え、清浄に保つ努力をするしかありません。よい仲間を持ち、正しい努力ができれば、それで幸福なのです。

仏教は苦しみをどう考えるのでしょうか?

仏陀の教えは四聖諦と八正道という教えにまとめられています。四聖諦の一番目は苦諦です。これは一切皆苦、すなわちすべての生命にとって生きることは苦しみであるという真理です。苦諦は人生には生老病死などの避けられない苦しみがあることだと理解されています。しかし苦諦とは、こうした人生の節目で出会う苦しみだけでなく、私たちの行動の全てが苦しみによって引き起こされている事実を意味しています。苦諦は、自分ではなかなか気づきにくい真理なので、少し具体的に説明をしましょう。

 私たちの行動にはどんな苦しみがあるでしょうか?例えば呼吸はどうでしょうか?息を吐くと苦しくなるので、息を吸います。息を吸い続けると苦しくなるので息を吐きます。呼吸は苦しみから苦しみへの繰り返しであることが分かります。

 飲食はどうでしょうか?腹が空けば苦しいので食べますが、食べ過ぎると苦しくなります。喉が渇けば苦しいので水を飲みますが、飲み続けると苦しくなります。下痢も苦しみですが、便秘も苦しみです。睡眠はどうでしょうか?眠くなると起きているのが苦しくなるので寝ますが、いつまでも寝ていることも苦しいのです。立ち続けていると苦しいので座りますが、座り続けていると苦しいので立ちます。走り続けることも、じっと動かないことも苦しいのです。退屈すると苦しいのでテレビをつけますが、テレビを見続けていると苦しくなります。勉強するのは苦しみだし、勉強しないのも苦しみです。結婚するのも苦しみだし、離婚するのも苦しみです。遊園地で遊んでいる時にも、ジェットコ-スタ-に並ぶ苦しみや乗る苦しみ、お金を払う苦しみはあるのです。瞑想者は自分がずっと苦しみに苛まれていることに気づいていきます。


私たちは慣れてしまって気づきませんが、私たちの全ての行動は苦しみから苦しみへの運動なのです。もし苦しみがなければ、私たちは行動できなくなってしまいます。こうした苦しみは、全ての生命に現れる、生きるために必要な苦しみです。言い換えれば、こうした苦しみは全ての生命体の生きる力になっています。生きるのに必要な苦しみには思考はありません。

 私たちはこうした小さな苦しみに絶えずチクチクと苛まれているので、大きな苦しみに出会ったときに、それをありのままに受けとめられず、「どうして無実の私にこんな悪いことが生じてしまったのだ」と怒りを爆発させてしまいます。そして怒りがさらなる苦しみを招くのです。

心理学は苦しみをどう考えるのでしょうか?

 心理学は人間の行動を理解して悩み苦しみを解決するための学問です。心理学では、人間の悩み苦しみは対人関係に起因すると考えます。なぜなら私たちの理想は、家族などの共同体に自分の居場所があることだからです。例えば私たちが死を恐れるのは、自分が親しい人々と永遠に別れたくないと考えるからです。私たちは、理想の居場所を作れないと思い込む劣等感や、理想の居場所を守ろうとする優越感に惑わされ、苦しみます。このように人間の悩み苦しみには劣等感や優越感が関わっています。劣等感は個人的な苦しみ、優越感は対人的な苦しみを生じさせます。

 劣等感とは、現実の自分が理想の自分より劣っているという思いです。劣等感の克服には、自己受容すなわち理想の自分に執着せず、現実のありのままの自分を受け入れることが必要です。自分の現実も理想も自分が意味づけた概念なので、肯定的な表現に変えることができます。現実の自分にも他者に役立つ長所があることなどに注目します。自分が安心していられる居場所を得るためには、他者は信頼できる仲間であり、私は仲間の役に立つ能力があると感じられることが重要です。自分は特別でなくても共同体に所属できると信じる勇気も必要です。
 劣等コンプレックスとは、自分の劣等感を口実にして人生の課題の解決を避けることです。それによって苦しみから抜け出せなくなります。苦しみは課題を避けるために支払う代償であるとも言えます。例えば、引きこもりで苦しむことは登校を避けるための代償だと考えられます。

 対人的には、人間の悩み苦しみには優越感が関わっています。優越感とは、自分が他者より優れているという思いです。優越コンプレックスとは、自分の優越感により他者を支配することです。自分を実際以上に優れた人物であると見せること、相手に見下されないようにすること、自分の弱さを誇示して特別扱いさせることなどは、すべて優越コンプレックスです。人間は誕生時に無力なので優越コンプレックスを使って成長します。だから子供には共同体の一員として貢献する幸福な生き方に感謝を示し、勇気づけなければなりません。育児が適切でないと虚栄心の強い大人になってしまいます。結局、優越コンプレックスは社会的な差別や支配を生じさせ、私たちに苦しみを与えます。

マイナス感情との決別

・人間はなぜ悩み苦しむのでしょうか?
 人間には動物的な古い脳と理性的な大脳があります。古い脳は、基本的に内臓の管理をしていますが、快不快の信号を大脳に送り、危険な環境で大脳が適切な行動を学習する手助けもしています。凡人は理性的な大脳の力が弱く、快不快に支配されて行動しています。凡人の大脳は、古い脳から絶えず生存欲を刺激された結果、「私は生きていたい」「私は死にたくない」という生存欲が強くなっています。個人的な見解は生存欲から生じるので、凡人は自分の見解に執着するのです。私たちは自分の見解の目的を達成するために貪瞋痴のマイナス感情を発生させて行為します。マイナス感情に基づく行為は必ず対立的な人間関係を作り出すので、私たちは悩み苦しむのです。生存欲は理性的ではないので、凡人の大脳はいつも疲れており、学習能力が低下しています。凡人は「私は生きていたい」「私は死にたくない」と願う気持ちに深刻な問題があるとは一生気づきません。

・仏陀の勧めた瞑想とはどんな修行法でしょうか?
 仏陀は心を強く清らかに保てば、人間は生存欲を滅し、苦しみを克服できることに気づきました。その方法とは瞑想です。仏陀が勧めた瞑想とは、思考を止めた状態で心身に生じるありのままの現象を観察し続ける方法です。現代風に言えば、瞑想とは大脳に質の高い観察デ-タを連続的に入力する行為です。心身に生じた一つの感覚に注目し、何の感覚かを認識することで質の高い観察デ-タになります。思考を止めるのは、生存欲に起因している思考によって凡人の心は誘惑に弱く汚れているからです。

 凡人は、私の心身が存在するから、「私」が存在すると錯覚しています。瞑想者は「私」は言葉だけの存在で、観察できないことを悟ります。例えばこの身体は、いわば「私の体」であり、「私」ではありません。この精神は、いわば「私の心」であり、「私」ではありません。この身体が生きている現象や、この心が死にたくないと願っている現象は存在します。この身体やこの心は現象なので執着できません。だから苦しみを起こしません。一方「私」あるいは「私の体」や「私の心」は現象として存在していません。現象として存在していない概念や見解には執着できます。だから苦しみを起こします。

 苦しみから解放されるには、マイナス感情と決別しなければなりません。そのためには自己の価値判断や見解に対する感情的な執着を捨てなければなりません。これは大変な勇気が要ることです。凡人は自分一人が苦労してマイナス感情と決別しようとは思いません。仏陀は弟子たちに仲間と一緒に助け合って成し遂げなさいと指導しました。