女性初のフィ-ルズ賞学者マリアム・ミルザハニ

マリアム・ミルザハニ(Maryam Mirzakhani)は双曲面上の測地線に関する優れた研究をした女性のイラン人数学者です。マリアムは1977年5月3日テヘランで生まれました。小さい頃は読書が好きで、将来は小説家になりたいと思っていました。

   1991年、彼女が小学校を卒業するころ、イラン・イラク戦争が終結し、やる気のある学生に対するチャンスが開かれました。彼女は試験を受け、テヘランのファルザネガン中学校に合格しました。そこで生涯の友人となるロヤ・ベヘシュティーに出会います。中学1年生の時は、数学の成績は良くありませんでした。天才は自分の才能に気づいているとは限らないようです。中学2年のときに熱心な先生に出会って、マリアムは数学に自信をもつようになります。

   マリアムはファルザネガン女子高等学校に進学し、ロヤと国内のプログラミング大会に参加します。熱心な校長先生の計らいで、マリアムは1994年(香港)と1995年(トロント)の国際数学オリンピックに出場します。マリアムはそこで金メダルを獲得し、「イランの天才少女」と呼ばれました。数学オリンピックは優れた数学者の登竜門になっています。マリアムはイランのシャリフ工科大で学士号を取得し、ハーバード大学のマクマレン教授の下で幾何学を学び、双曲線幾何学の美しさに魅了され、研究に没頭します。

双曲面上の測地線定理の発見
 2004年にマリアムは、双曲面上の測地線に関する重要な定理を発見し、博士学位を取得します。測地線とは2点間の最短距離を結ぶ線のことです。その定理とは、コンパクトな双曲面X上の長さLのシンプルで閉じた測地線の数は、Lの6g-6乗に比例する
   #simple loops=C(X)・L^(6g-6)
というものです。ここでgは双曲面Xの穴(ハンドル)の数です。ド-ナツの場合g=1、2穴ド-ナツの場合g=2となります。シンプルな測地線とは自分自身と交わらない測地線のことです。またマリアムは、シンプルで閉じた測地線で切断したときに、双曲面を2分する確率は1/7であることを見出しました。彼女の発見は、弦理論に関連するエドワード・ウィッテンの公式を位相幾何学的に証明する手法を与えました。

オリラ-標数との関係
オイラ-標数とは多面体の位相不変量であり、
     Euler標数=V(頂点数)-E(辺数)+F(面数)
で定義されます。例えば三角形の場合、3-3+1=1となります。マリアムの公式で気になるのは指数部分6g-6=-3(2-2g)です。実は2-2gはトーラスのEuler標数です。
       種数gのト-ラスのEuler標数= 2-2g
g=0の多面体面(球面と同相)はEuler標数=2>0なので凸面体、g=1のド-ナツ面はEuler標数=0なので平坦面、g=2の2穴トーラス面はEuler標数=-2<0なので双曲面となります。2穴ト-ラスのオイラ-標数を求めるには、元の図形の8角形を考えます。8角形を連続的に変形し2穴ト-ラスにすると、頂点は1個に集約され、8辺のうち4個の辺は同一視されたので、辺は4個になり、面は1個のままです。連続的な変形でオイラ-標数は変わらないので、2穴ト-ラスのEuler標数は
   Euler標数=1(頂点)-4(辺)+1(面)=-2
と考えられます。

ビリア-ド問題
 2006年、ミルザハニは同僚のエスキンとビリア-ド問題に着手しました。ビリア-ド問題とは多角形のビリヤード台の境界で完全反射する光線の通過領域を調べる問題です。例えば5角形内の光線の軌跡を考えます。反射境界において、向こう側へひっくり返された5角形を隣接させると、反射光の軌跡は境界を横切って直進していくように見えます。5角形内の光線の軌跡は多数の隣接した五角形を横切る直線として理解できます。


例えば隣接する2つの五角形は八角形になります。同一視した辺を向きに注意して、図形をゴム膜のように引き延ばしてつなぎ合わせると8角形は2穴トーラスになります。つまりビリア-ド内の光線の軌跡は、多数の穴が開いたト-ラスの測地線となっているのです。任意の角度で放射された光線が元の位置と角度に戻ってくるとしたら、その軌跡はシンプルな閉じた測地線となっているはずです。このようにビリア-ド問題はマリアムが研究していた双曲面上の測地線問題とつながっていたのです。ビリア-ド問題は統計力学のエルゴ-ド問題に関わります。鏡張りの部屋における警備員の視線を解明する問題にも応用されています。

輝かしい経歴と早すぎる死
2008年にマリアムは31歳の若さでスタンフォード大学の教授になりました。夫のヤン・ヴォンドラークはMIT出身のコンピュ-タ理論の研究者です。彼女には三才になる娘アナヒタがいます。2014年にマリアムは37歳のとき女性で初めてフィールズ賞を受賞しました。授賞理由は、リーマン面とそのモジュライ空間の力学と幾何学に関する顕著な業績です。特にウィッテンの公式を証明したことが、高く評価されました。授賞時の様子を見るとマリアムはとても小柄な人だと分かります。
この時マリアムはすでに乳がんを発症していました。残念なことに癌が脊髄に転移し、2017年7月15日にマリアムは40歳という若さで亡くなりました。若くして亡くなったので、一般の人たちは彼女のことを殆ど知りません。

ミルザハニの言葉
ミルザハニの研究は、微分幾何学、複素解析、力学系など数学の多くの分野に影響を与えました。「わたしは、各分野の境界に人が引いた想像上の線を横断するのが好きなのです。研究においては、楽観的であること、異なる物事を結びつけることが重要です」

リ-ゼ・マイトナ-

リ-ゼ・マイトナ-は1878年にオーストリアのウィ-ンのユダヤ系の家庭に生まれました。父フィリップは弁護士、母ヘートヴィヒは専業主婦でした。リ-ゼは男児3人、女児5人という大家族の三女でした。リーゼは1892年に高等小学校を卒業し、1899年までフランス語の教師をしていました。1897年、文学・科学分野に限って、女性の大学入学が認められました。ギムナジウムに入っていないリーゼは、この2年間で8年間分の学習を行い、1901年に23歳でウィーン大学の入学試験に合格しました。

1902年にウィーン大学に赴任したボルツマンの講義は学生に非常に人気があり、リーゼも欠かさず出席していました。1906年にリーゼは博士号を取得します。しかし敬愛していたボルツマンはその年に死亡します。マリ・キュリーに助手として雇ってくれるよう願ったのですが、断られてしまいました。

1907年にベルリンにやってきたリーゼは同年代のオット-・ハーンと出会いました。リーゼは地下の木工作業所のみで実験を行い、研究所内には姿を見せないという条件で、二人の共同研究が認められました。1912年にリーゼはヴィルヘルム研究所でプランクの助手として働くようになりました。ハーンは、長年の研究仲間でしたが、美術専攻の女子学生と結婚してしまいます。

第一次世界大戦がはじまり、リーゼは手紙でハーンと連絡を取りながらベルリンで研究を続けていました。1915年、リ-ゼはオーストリア軍のX線技師および看護婦として志願し、ポーランドの戦地で負傷者の治療にあたります。リーゼとマリはX線看護師として敵対する戦場で働いていたのです。

その後、リ-ゼは以前からの放射性物質の研究を続け、1918年、新元素プロトアクチニウムを発見しました。それによってカイザー・ヴィルヘルム研究所の研究者として十分な給与を得ることができるようになり、1922年にベルリン大学の教授となりました。

 1934年、リーゼは、ハーンに再び共同研究を持ちかけ、超ウラン原子の研究を始めました。しかし1938年、オーストリアはドイツに併合され、リーゼはスエ-デンに亡命します。短期旅行を装いスーツケ-ス一つで飛び出し、なんとかオランダとデンマ-クに脱出しました。リーゼは異国の地ですべてを失ってしまいます。
ストックホルムで、ハーンから「ウランの原子核に中性子を照射しても核が大きくならず、しかもウランより小さいバリウムが確認された」という手紙の相談を受け取ったリーゼは、ボーアの原子核の液滴モデルに基づいて
 235U + n → 92Kr + 141Ba +3n (nは中性子)
という核分裂反応が生じたことに気づきました。リ-ゼは甥のフリッシュと連名で核分裂現象を初めて発表しました。その際、質量欠損は陽子の1/4.7程度あり、E=mc^2の公式から、核分裂でウラン原子1個当たり200MeVのエネルギが放出されることを示しました。

甥のフリッシュはマンハッタン計画に加わりましたが、リ-ゼは原爆製造には加わりませんでした。100万キロワット級の原発では1日にウラン3kgを消費しています。これは広島型原子爆弾3個分のウラン量に相当します。

1944年ハーンは核分裂反応に関して、ノーベル化学賞を受賞しますが、リーゼ・マイトナーは受賞者から外されました。リーゼは1968年に90歳で生涯を終えました。1997年にドイツの研究チ-ムが109番元素をマイトネリウムと命名しました。
リーゼ・マイトナーは

「人生は楽でなくてもよいのです。もしそれが空っぽでないのならば」

という言葉を残しています。

マリ・キュリ-

本日11月7日は、マリ・キュリ-(仏)とリ-ゼ・マイトナ-(墺)という二人の物理学者の誕生日です。マイトナ-は、核分裂の発見者で、ドイツのキュリ-夫人とも呼ばれています。

マリ・キュリ-は1867年、ポ-ランドのワルシャワで生まれました。生誕時の名前はマリア・サロメア・スクロドフスカといいます。父ブワディスカはペテルブルク大学の物理学者、母ブロニスワバは女学校の校長先生でした。マリは5人兄弟の末っ子で、4歳の時には9歳の姉の本を朗読でき、記憶力も抜群でした。マリが6歳の時、父のせいで住居を失い、父親は移り住んだ家で小さな寄宿学校を開いていました。その後、姉ゾフィアがチフスで、母は結核で他界し、10歳のマリは鬱状態になっています。

マリは16歳でギムナジウムを優秀な成績で卒業しましたが、女性には進学の道は開かれていなかったので、住み込みの家庭教師をして過ごしました。24歳のときマリはパリのソルボンヌ大学に進学し、そこで夫となるピエ-ル・キュリ-と出会います。スラブ系の美しい顔立ちに明るいブロンド、グレーの瞳のマリは学内でも人目を引いていました。

苦学して2年で学士をとり、粗末な実験室で研究を続けました。マリは夫が考案した電離計測器でウランから出る放射線量が光や温度などの外的要因に影響を受けないことを見出しました。10年後、1903年6月36歳のとき、マリは理学博士の学位を得、その年の12月に、アンリ・ベクレルの放射現象の発見に関わった業績で、マリはノ-ベル物理学賞を受賞しました。

3年後に夫が事故死したため、マリは、夫の後任として、パリ大学初の女性教授に就任しました。1911年にマリはラジウムとポロニウムの発見に関して、ノ-ベル化学賞を受賞します。10トンもの岩石から0.1gにも満たない塩化ラジウムを取りだす作業は大変なものです。

第一次世界大戦では、マリは、レントゲン設備を病院に設置し、X線照射車両を開発して活躍します。X線源用のラドンガスを詰める危険な作業もしました。マリ自身も、技術者指導と平行して、この1台に乗り込んで各地を回っています。そのために自らも解剖学を勉強し、自動車の運転免許を取得し、自動車整備法も習得したと言われています。

マリは、本人は認めていませんでしたが放射線障害により67歳で死去します。彼女の実験室はパリのキュリー博物館として、そのままの姿で保存されています。実験室は放射能で汚染されていて、近年まで見学できませんでした。ラジウム精製法の特許を取得しなかった理由を問われて、マリは

「人生最大の報酬とは、知的活動そのものである」

と答えています。

母乳で育てた方がいい理由

生後3か月までの赤ちゃんの胃には胃酸がないので、牛乳などを与えると、胃の中で牛乳が腐敗してしまいます。母乳には、7%の乳糖の他に、白血球や免疫グロブリンが含まれているので、細菌が増殖しません。乳頭はグルコ-スとガラクト-スが結合した2糖類で、徐々に分解してグルコ-スを放出します。小腸の防衛システムが出来上がるのも6か月かかるので、生後6か月は母乳で育てた方が、アレルギー疾患にかかりにくい子どもになると言われています。アレルギー疾患の子どもが増えているのは、乳児期の育て方にも原因がありそうです。

 

草食動物の脳はどうして大きくならないのか?

草食度物は球根(芋)や茎や葉を食べるので、グルコ-スが脳に供給されていると思うかもしれません。例えばウシなどの反芻動物は、細菌の力を利用して、前胃(ル-メン)の中で砕いた食物繊維やデンプンを酪酸やプロピオン酸に分解し、ルーメン壁から吸収することによって、エネルギの80%を得ています。酪酸はケトン体の前駆体であり、脳はケトン体をエネルギにすることができます。ケトン体とはヒドロキシ酪酸や、アセト酪酸などのことです。

ウシは、タンパク質を分解してできる尿素を唾液にまぜて、ル-メンに戻して細菌の窒素源にしています。増殖した細菌は4番目の胃で消化され、牛はエネルギとアミノ酸などの栄養を得ることができます。つまり草食動物は殆どデンプンをブドウ糖に分解していないので、草食動物の脳には危険なグルコ-スがあまり供給されていないのです。ウシも呼吸をするので、酸素を運搬する赤血球を養うために、ヒトの臍帯血の血糖値(35mg/100dL)程度のブドウ糖が必要です。しかしウシの血糖値は~50mg/100dL程度であり、ヒトの血糖値100 mg/100dLより低い値になっています。このように草食動物の脳には過剰なグルコ-スが来ないので、脳が大きくならなかったと考えられます。

ヒトの大脳はどうして大きいのか?

焼き芋は大量のグルコ-スを脳に供給したと考えられます。ヒトの脳は大量のグルコ-スからニュ-ロンを守るために、グリア細胞を増やさなければならなかったのです。つまり焼き芋によって、ヒトの大脳は大きくなったと考えられます。

加熱により食物の消化が良くなったので、ヒトの腸の長さも短くなり、体型がスリムになり、歩き方も洗練されてきたでしょう。広域を移動して、果実や獲物を取ることもできるようになったでしょう。グルコ-スは肝臓だけでなく皮下脂肪として蓄えられるようになったので、体毛が減りました。暑い中でも歩けるように、汗腺(エポクリン腺)を発達させたと考えられます。

ヒトの脳は体重の2%の重量しかありませんが、25%のエネルギを消費しています。脳のエネルギ消費量の90%は、グリア細胞ではなく、ニュ-ロンが消費しています。筋肉は絶えず分解されて脂肪として肝臓に蓄えられ、肝臓は絶えず脂肪を分解しグルコ-スを脳に送っています。血糖値を抑制するために大量のインスリンが放出されます。インスリンは成長ホルモンなのでグリア細胞が増殖します。グリア細胞が増殖するとニュ-ロンの接続数や電気伝達速度が増大し、エネルギ消費量が増えます。人間のエネルギの半分は肝臓と脳で消費されています。

今回、ヒトの本質が焼き芋を食べるサルであることを説明しました。驚くべきことではありますが、分かってしまうと当たり前のことかもしれません。森林を焼き尽くし、石油を消費するのは、人間の本性と関わりがあることなのですね。

グルコ-スとデンプンについて

グルコ-スは環状の有機物ですが、1%ほどは鎖状になっており、先端に反応性の高いアルデヒド基(-CHO)を有しています。これがタンパク質のNH2基と容易に反応しシッフ結合するので、タンパク質は糖化により劣化していきます。赤血球は、狭い毛細血管を通るために核やミトコンドリアがないので、栄養源にブドウ糖を必要とします。赤血球の寿命が4か月しかなのには、ブドウ糖がヘモグロビンを劣化させるからです。

胎盤はブドウ糖を遮断しており、子宮内の胎児には、酪酸などのケトン体の形でエネルギが供給されています。胎盤によって胎児の脳はブドウ糖から守られているのです。もちろんニワトリの卵の中にもブドウ糖は含まれていません。

200万年前に人類は、山火事の後、芋の根が食べやすくなっていることに気づいたのでしょう。土に芋を浅く埋めて、木の葉で覆い、その上で焚火をすることで、芋を加熱して食べる方法を思いついたのでしょう。芋は重要な食糧です。現在の狩猟採種生活民といえども、食料の7割がたは芋や木の実などを食べて生活しています。芋はデンプンですが、生のままでは消化がよくありません。加熱することでデンプンがアルファ化し、食べられるようになります。

デンプンはグルコ-スがグルコシド結合で連なった有機物です。デンプンの直鎖部分(アミロ-ス)は、グルコースがα1-4結合で連なったものです。アミロペクチンは分枝があるデンプンで、分岐は直鎖の途中からグルコースのα1-6結合によるものです。もち米はアミロペクチンが多いため、不透明な白色をしています。

天然のデンプンは、βデンプンと呼ばれ、結晶状態にあります。加熱されたデンプンは、αデンプンと呼ばれ、糖鎖間の水素結合が破壊され糖鎖が自由になった状態にあります。α-グルコース分子が直鎖状に重合している部分は、水素結合によりα-グルコース残基6個で約1巻きのラセン構造になっています。また、ラセン構造同士も相互に水素結合を介して平行に並び、結晶構造をとります。

ヒトの脳について

ヒトの脳の発達はサルとは大きく異なっています。チンパンジを含めサルの脳容積は誕生時に75%あり、生後6か月で大人の大きさになります。それに対してヒトの脳容積は誕生時に23%しかなく、3歳で60%、6歳で90%、9歳でやっと大人の大きさになります。ヒトは脳の成長に合わせて、多くのものを学習していけるようになっています。

ヒトのニュ-ロン(神経細胞)は胎児期の5か月間で産生されます。その後は、ニュ-ロンを取り囲むグリア細胞が増殖を続けます。グリア細胞は、脳細胞の90%を占めており、ニュ-ロンを絶縁し、ニュ-ロンに栄養を供給しています。グリア細胞と赤血球はブドウ糖(グルコ-ス)を乳酸に変えてニュ-ロンに栄養を供給しています。ニュ-ロンはブドウ糖を避けるために、グリア細胞を必要としているのです。

ヒトの大脳はいつ大きくなったのか?

700~100万年前の猿人は、森林やサバンナで昆虫、果物、植物の根、小動物の肉などを採取し食べていたと考えられています。猿人は、顎が大きく、ガニ股でぎこちなく歩く印象があります。肉食動物に狙われてもさほど早く走れなかったでしょう。お互いに助け合って生き延びてきたのだと思います。

200~20万年前になると、原人が出現し、体型も寸胴型からスリム型になり、さっそうと歩く印象があります。顎や歯が小さくなります。草食動物を追跡し、肉食動物に武器や火で対抗できたと思われます。200~150万年前の50万年間に脳容積は400ccから900ccに増大します。ヒトの大脳は、食生活が変わることで、大きくなったのではないかと考えられます。

NHKの番組では、原人は石器を使って動物の遺体の肉や骨の髄を食べたので、脳が大きくなったと放映されていました。それならば、肉食動物の脳はどうして大きくならないのかという疑問が残ります。また直立歩行をして手で道具を作るようになったから大脳が大きくなったと説明されています。しかし進化論的には、大脳が大きくなったから、ヒトは道具を作り、言語を話すようになったと考える方が自然です。大脳の肥大化の原因は未だによく分かっていません。しかし近年、農学博士の林俊郎氏(1949年生)は、糖がヒトの大脳の肥大化を促進したのではないかと考えています。

レーシック手術とは

レーシックLASIK (=LAser in SItu Keratomileusis)は角膜の視力矯正手術です。レーシックは1990年、ギリシャのパリカリス博士によって考案されました。ケラトームという小さな刃物を使って角膜を円形に切り取りはがして、フラップという蓋を作り、角膜の内部にエキシマレーザを照射して、角膜を削って、蓋を閉めて手術します。レーシックは、1995年にアメリカのFDA(食品医薬品局)から認可され、急速に広まるようになりました。今ではフェムト秒レ-ザを用い、非接触でフラップを形成します。費用は片眼で15~30万円かかります。スポーツ選手や著名人がレーシックを受けたことにより、一般人の間でも広く受け入れられるようになりました。アメリカのプロゴルファの間には 2000年以降に視力矯正のためのレーザ治療を受ける人が急増しました。そのため眼鏡をかけたトップ・プレーヤーは居なくなりました。

白内障発症率が高まる60歳以上でのレーシックは推奨されません。レーシックの年齢制限は40歳までといわれます。まだ老眼の症状が現れてない場合でも、レーシック手術により焦点を矯正した結果、老眼の症状を感じやすくなることもあるため、手術前には十分な検査が必須です。老眼や白内障に備えて、レーシックの手術前の眼のデータを入手しておくとよいそうです。レーシックを受けた角膜は変化が生じているため、眼内レンズ度数のズレが生じやすくなるからです。

先月タイガ-ウッズ選手(43歳)のZOZOチャンピオンシップの復帰試合を見に多くのギャラリ-が詰めかけていました。タイガー・ウッズ選手は 1999年に視力改善の為のレーザ治療を受け、その後 2000年には素晴らしい成績を残しています。

レ-シックでは、矯正限度量を-6Dまでとし、充分な同意がなされた場合に限り、-10Dまでの範囲で手術が許可されます。ここで「D」は(Diopter:ジオプター)という屈折度数を表す単位です。裸眼でピントが合う距離をN(cm)として、「100÷N」で計算すると度数が出ます。例えば-10Dの場合は、裸眼でピントが合う距離Nが10cmという強い近視状態です。Nが20cmで-5Dとなり、中程度近視(3~6D)です。
近視の場合は-(マイナス)、遠視の場合は+(プラス)で表され、ともに数値が大きいほど遠視や近視の度合いが高くなります。10D以上に近視が進んでいる人は、充分な視力を得るために角膜を削る量が多すぎるので、レーシック手術を受けられないのです。タイガーウッズ選手の視力は-11.5Dという超強度近視だったので、レーシック以外のレーザ矯正治療を使ったのかもしれません。

白内障の手術

先日、家族が白内障の手術を受けたので、帰省し、病院への送迎と付き添いをしました。白内障とは、眼の水晶体が白濁し、視力が低下する病気です。原因は水晶体を構成するクリスタリンというたんぱく質が会合(結晶化)して、システィン結合で固定されるからです。

白内障(cataract)には加齢の他に色々な原因があり、糖尿病もその一つです。糖尿病患者はインスリンの働きが悪いため、水晶体内に取り込まれたブドウ糖がソルビトールに変質し、水分量の部分的増加やクリスタリンの会合によって、白濁するために白内障になると言われています。濁ると光が散乱してまぶしく感じるので、サングラスをすることがあります。


糖尿病患者は、可能なうちに白内障の手術をしておかないと、眼底が見えないので、糖尿病網膜症の発見が遅れ、失明するリスクがあります。網膜は酸素やブドウ糖が必要なので、出血を放置すると失明します。糖尿病患者は血管が詰まりやすいので、網膜は新生血管を生み出して、酸素や栄養の不足を補おうとしますが、この新生血管は脆いので出血しやすいのです。傷口のかさぶたが網膜を引っ張り、網膜を剥離させる恐れもあります。インシュリンを投与しながら、糖質制限を行うと、血糖値が低い状態が持続し、網膜が低酸素障害を受けて、ある日突然失明することも起こります。

水晶体の中身は交換・補充が利かないので、手術では白濁した部分を除去し、人工レンズを挿入します。20分くらいで終わる簡単な手術です。手術後は、眼を汚さないように注意して、毎日4回ほど点眼をして回復を待ちます。

<白内障手術の手順>
1)細いメスで黒目(角膜)と白目(結膜)の境目に3mm弱の創口を作ります。
2)眼内をジェル状の物質で満たし、作業が安全に行えるようにします。
3)水晶体を覆っている水晶体嚢(袋)前面を剥がして作業用の窓を作ります。
4)水晶体嚢の窓から、超音波棒を入れて水晶体を細かく砕き、吸い取ります。
5)切開創から小さく折り畳んだ人工のレンズ(眼内レンズ)を挿入します。
6)眼内からジェル状物質を抜き、代わりに水を満たし切開創を閉鎖させます。

白内障手術は長い歴史があります。1949年にイギリスのリドレー医師が人工水晶体(=眼内レンズ)を発明しました。更に、アメリカのケルマン医師が超音波乳化吸引装置を発明しました。現在では水晶体も切開可能なフェムトセカンドレーザーが登場しています。レーザ白内障手術は2008年にヨーロッパで最初の手術が行われ、既に世界の最先端医療機関では50カ国以上で導入されています。

パトリシア・バス女史

11月4日はパトリシア・バス(Patricia Era Bath)女史の誕生日です。彼女は眼科医研修を修了した初のアフリカ系アメリカ人です。パトリシアは2019年5月30日に77歳で亡くなられました。

1942年、パトリシアはニュ-ヨ-ク市のハ-レムに生まれました。父親のRupertはNY の最初の黒人の地下鉄の電気技術者でした。母親のGladysはパトリシアに科学実験セットを与える教育熱心な専業主婦でした。パトリシアは4年制の中学校を2年半で卒業し、16歳の頃からがん治療の研究会の助手をしていました。彼女は自分のことを化学オタクだったと回想しています。彼女はハワ-ド大学で医学の学位を取得し、ハ-レム病院でインタ-ンとして働きました。

彼女はハ-レムの患者を無料で治療するように医師たちを説得し、アメリカ失明予防協会(AiPB)を共同設立しました。アフリカ系アメリカ人には緑内障が多く、貧しい区域に住む人々は失明することが多かったのです。彼女は何十年にも渡って、多くの人たちの視力を回復させてきました。パトリシアはUCLAの教授になりますが、黒人女性だということで、不公平な扱いを受け、ヨーロッパに渡り、そこで優れた仕事をしました。1988年に彼女は、46歳にして、白内障のレーザ手術法に関する特許(U.S. patent 4744360)を取得します。これは紫外光のエキシマレ-ザで発熱なく正確に白濁した水晶体を蒸散除去する装置に関する特許です。2000年には、超音波で白濁した水晶体を粉砕し吸い上げて除去する方法も発明しています(U.S. patent 6083192)。

科学者として、運動家として活躍したパトリシアは
「真実の力を信じましょう。あなたの心が多数派の考え方にとらわれないように」
という言葉を残しています。