マリ・キュリ-

本日11月7日は、マリ・キュリ-(仏)とリ-ゼ・マイトナ-(墺)という二人の物理学者の誕生日です。マイトナ-は、核分裂の発見者で、ドイツのキュリ-夫人とも呼ばれています。

マリ・キュリ-は1867年、ポ-ランドのワルシャワで生まれました。生誕時の名前はマリア・サロメア・スクロドフスカといいます。父ブワディスカはペテルブルク大学の物理学者、母ブロニスワバは女学校の校長先生でした。マリは5人兄弟の末っ子で、4歳の時には9歳の姉の本を朗読でき、記憶力も抜群でした。マリが6歳の時、父のせいで住居を失い、父親は移り住んだ家で小さな寄宿学校を開いていました。その後、姉ゾフィアがチフスで、母は結核で他界し、10歳のマリは鬱状態になっています。

マリは16歳でギムナジウムを優秀な成績で卒業しましたが、女性には進学の道は開かれていなかったので、住み込みの家庭教師をして過ごしました。24歳のときマリはパリのソルボンヌ大学に進学し、そこで夫となるピエ-ル・キュリ-と出会います。スラブ系の美しい顔立ちに明るいブロンド、グレーの瞳のマリは学内でも人目を引いていました。

苦学して2年で学士をとり、粗末な実験室で研究を続けました。マリは夫が考案した電離計測器でウランから出る放射線量が光や温度などの外的要因に影響を受けないことを見出しました。10年後、1903年6月36歳のとき、マリは理学博士の学位を得、その年の12月に、アンリ・ベクレルの放射現象の発見に関わった業績で、マリはノ-ベル物理学賞を受賞しました。

3年後に夫が事故死したため、マリは、夫の後任として、パリ大学初の女性教授に就任しました。1911年にマリはラジウムとポロニウムの発見に関して、ノ-ベル化学賞を受賞します。10トンもの岩石から0.1gにも満たない塩化ラジウムを取りだす作業は大変なものです。

第一次世界大戦では、マリは、レントゲン設備を病院に設置し、X線照射車両を開発して活躍します。X線源用のラドンガスを詰める危険な作業もしました。マリ自身も、技術者指導と平行して、この1台に乗り込んで各地を回っています。そのために自らも解剖学を勉強し、自動車の運転免許を取得し、自動車整備法も習得したと言われています。

マリは、本人は認めていませんでしたが放射線障害により67歳で死去します。彼女の実験室はパリのキュリー博物館として、そのままの姿で保存されています。実験室は放射能で汚染されていて、近年まで見学できませんでした。ラジウム精製法の特許を取得しなかった理由を問われて、マリは

「人生最大の報酬とは、知的活動そのものである」

と答えています。

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