リ-ゼ・マイトナ-

リ-ゼ・マイトナ-は1878年にオーストリアのウィ-ンのユダヤ系の家庭に生まれました。父フィリップは弁護士、母ヘートヴィヒは専業主婦でした。リ-ゼは男児3人、女児5人という大家族の三女でした。リーゼは1892年に高等小学校を卒業し、1899年までフランス語の教師をしていました。1897年、文学・科学分野に限って、女性の大学入学が認められました。ギムナジウムに入っていないリーゼは、この2年間で8年間分の学習を行い、1901年に23歳でウィーン大学の入学試験に合格しました。

1902年にウィーン大学に赴任したボルツマンの講義は学生に非常に人気があり、リーゼも欠かさず出席していました。1906年にリーゼは博士号を取得します。しかし敬愛していたボルツマンはその年に死亡します。マリ・キュリーに助手として雇ってくれるよう願ったのですが、断られてしまいました。

1907年にベルリンにやってきたリーゼは同年代のオット-・ハーンと出会いました。リーゼは地下の木工作業所のみで実験を行い、研究所内には姿を見せないという条件で、二人の共同研究が認められました。1912年にリーゼはヴィルヘルム研究所でプランクの助手として働くようになりました。ハーンは、長年の研究仲間でしたが、美術専攻の女子学生と結婚してしまいます。

第一次世界大戦がはじまり、リーゼは手紙でハーンと連絡を取りながらベルリンで研究を続けていました。1915年、リ-ゼはオーストリア軍のX線技師および看護婦として志願し、ポーランドの戦地で負傷者の治療にあたります。リーゼとマリはX線看護師として敵対する戦場で働いていたのです。

その後、リ-ゼは以前からの放射性物質の研究を続け、1918年、新元素プロトアクチニウムを発見しました。それによってカイザー・ヴィルヘルム研究所の研究者として十分な給与を得ることができるようになり、1922年にベルリン大学の教授となりました。

 1934年、リーゼは、ハーンに再び共同研究を持ちかけ、超ウラン原子の研究を始めました。しかし1938年、オーストリアはドイツに併合され、リーゼはスエ-デンに亡命します。短期旅行を装いスーツケ-ス一つで飛び出し、なんとかオランダとデンマ-クに脱出しました。リーゼは異国の地ですべてを失ってしまいます。
ストックホルムで、ハーンから「ウランの原子核に中性子を照射しても核が大きくならず、しかもウランより小さいバリウムが確認された」という手紙の相談を受け取ったリーゼは、ボーアの原子核の液滴モデルに基づいて
 235U + n → 92Kr + 141Ba +3n (nは中性子)
という核分裂反応が生じたことに気づきました。リ-ゼは甥のフリッシュと連名で核分裂現象を初めて発表しました。その際、質量欠損は陽子の1/4.7程度あり、E=mc^2の公式から、核分裂でウラン原子1個当たり200MeVのエネルギが放出されることを示しました。

甥のフリッシュはマンハッタン計画に加わりましたが、リ-ゼは原爆製造には加わりませんでした。100万キロワット級の原発では1日にウラン3kgを消費しています。これは広島型原子爆弾3個分のウラン量に相当します。

1944年ハーンは核分裂反応に関して、ノーベル化学賞を受賞しますが、リーゼ・マイトナーは受賞者から外されました。リーゼは1968年に90歳で生涯を終えました。1997年にドイツの研究チ-ムが109番元素をマイトネリウムと命名しました。
リーゼ・マイトナーは

「人生は楽でなくてもよいのです。もしそれが空っぽでないのならば」

という言葉を残しています。

マリ・キュリ-

本日11月7日は、マリ・キュリ-(仏)とリ-ゼ・マイトナ-(墺)という二人の物理学者の誕生日です。マイトナ-は、核分裂の発見者で、ドイツのキュリ-夫人とも呼ばれています。

マリ・キュリ-は1867年、ポ-ランドのワルシャワで生まれました。生誕時の名前はマリア・サロメア・スクロドフスカといいます。父ブワディスカはペテルブルク大学の物理学者、母ブロニスワバは女学校の校長先生でした。マリは5人兄弟の末っ子で、4歳の時には9歳の姉の本を朗読でき、記憶力も抜群でした。マリが6歳の時、父のせいで住居を失い、父親は移り住んだ家で小さな寄宿学校を開いていました。その後、姉ゾフィアがチフスで、母は結核で他界し、10歳のマリは鬱状態になっています。

マリは16歳でギムナジウムを優秀な成績で卒業しましたが、女性には進学の道は開かれていなかったので、住み込みの家庭教師をして過ごしました。24歳のときマリはパリのソルボンヌ大学に進学し、そこで夫となるピエ-ル・キュリ-と出会います。スラブ系の美しい顔立ちに明るいブロンド、グレーの瞳のマリは学内でも人目を引いていました。

苦学して2年で学士をとり、粗末な実験室で研究を続けました。マリは夫が考案した電離計測器でウランから出る放射線量が光や温度などの外的要因に影響を受けないことを見出しました。10年後、1903年6月36歳のとき、マリは理学博士の学位を得、その年の12月に、アンリ・ベクレルの放射現象の発見に関わった業績で、マリはノ-ベル物理学賞を受賞しました。

3年後に夫が事故死したため、マリは、夫の後任として、パリ大学初の女性教授に就任しました。1911年にマリはラジウムとポロニウムの発見に関して、ノ-ベル化学賞を受賞します。10トンもの岩石から0.1gにも満たない塩化ラジウムを取りだす作業は大変なものです。

第一次世界大戦では、マリは、レントゲン設備を病院に設置し、X線照射車両を開発して活躍します。X線源用のラドンガスを詰める危険な作業もしました。マリ自身も、技術者指導と平行して、この1台に乗り込んで各地を回っています。そのために自らも解剖学を勉強し、自動車の運転免許を取得し、自動車整備法も習得したと言われています。

マリは、本人は認めていませんでしたが放射線障害により67歳で死去します。彼女の実験室はパリのキュリー博物館として、そのままの姿で保存されています。実験室は放射能で汚染されていて、近年まで見学できませんでした。ラジウム精製法の特許を取得しなかった理由を問われて、マリは

「人生最大の報酬とは、知的活動そのものである」

と答えています。