アイアンロード2~知られざる文明の道~

日本に鉄製品が入ってきたのは弥生時代でした。弥生時代中期の終わり頃に東アジアは寒冷化して朝鮮半島は不作でした。温暖だった北九州には広大な水田が開発されました。倭人は、鉄斧で作った丸木舟で朝鮮半島に渡り、稲籾と交換に鉄器を得ていました。朝鮮半島付近の島には、赤い弥生土器が出土していることから、日本人街があったと推定されています。
長崎県壱岐市のカラカミ遺跡から数多くの鉄器が出土しています。その80%は工具でした。日本の弥生人は、大陸人のように鉄を武器や農耕具に使わずに、木や石を加工する工具として使用していたのです。弥生時代から日本はものづくり大国だったようです。
鳥取市の青谷上寺地遺跡は「地下の弥生博物館」と呼ばれています。湿った土が遺跡を酸素から遮断していたために400点以上の鉄器が錆びずに出土しているからです。弥生人は鉄を研磨して様々の工具に加工し、高さ10mもの柱に木組み用の角穴を開け、物見櫓を建造しました。あるいは花弁高坏(たかつき)などの繊細な木製品を作っていました。
鉄斧で板材を加工し、長さ15mの丸木舟の波除け板に用いました。造船技術の進歩により、朝鮮半島や日本沿岸都市間の交易ネットワークが形成されました。
九州の唐津に輸入された鉄は鳥取や石川県の小松に持ち込まれました。小松では鉄器で緑色の碧玉石を採掘して、鳥取で碧玉石を管玉(くだたま)に加工して、ネックレスを作製し、唐津に販売されていました。当時鳥取は「弥生の王国」であり、日本の文明の原動力はアクセサリー作りだったのです。これも日本は、民族争いとは無縁で、稲作栽培ができる恵まれた環境にあったからなのでしょう。

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