HANDYモデルによる文明崩壊の予測

NHKスペシャル・2030 未来への分岐点(1)「暴走する温暖化脱炭素への挑戦」に続いて、2021年2月7日(日)に2030 未来への分岐点 (2)「飽食の悪夢〜水・食料クライシス〜」が放送されました。先進国の飽食が、世界中に「飢餓のパンデミック」を拡大させるという話です。番組では俳優の森七菜さんが2050年の日本で食糧危機に直面する女性を演じました。日本で一年間に出される食品廃棄物を世界に分配すれば、飢餓問題の多くを解決すると言われています。現在の食料システムを2030年までに改善できなければ、暴動が発生し破滅を回避できなくなると研究者たちは指摘しています。

 米国メリ-ランド大学の理論環境学者のSafa Mote博士は、2014年に「人間と自然の動力学(=Human And Nature Dynamics)~社会の崩壊か持続における不平等と資源利用のモデル化~」と題して、論文を発表しました(Ecological Economics 101(2014)90-102)。このモデルをHANDYモデルと呼びます。

Safa Mote博士は、自然から収奪する富の蓄積と富の再分配をモデル化して、平等社会と不平等社会における人口変動を予測しました。Safa Mote博士はHANDYモデルにおいて

  • 平等社会では、最適な収奪率δ*で富を蓄積すると、収容人口は最大になり、持続可能な社会が実現する。
  • 自然からの収奪率が大きくても小さくても、自然環境が収容できる人口は減少する。
  • 不平等社会では、持続可能な文明社会が実現できない。

ことを示しました。ここでは、HANDYモデルの詳細について解説します。

  1. Handyモデルとは

 Safa Mote博士が2014年に提案した「人間と自然の動力学(Handyモデル」」は、一般の人口Xc、エリ-トの人口XE、自然資源量y、富の総量wの4つの量の時間発展を4つの連立微分方程式で表したモデルです。その名の通り、このモデルは文明存続を議論するための最もお手軽なモデルになっています。

(1)一般人の人口Xc

 人口増加は、出生率をβ、死亡率をαとすると

  • dXc/dt=(β-αc)Xc

と表されます。ここで

 αc=αc(Xc、XE、w)、β=出生率定数

です。α、βがともに定数の場合、一般人の人口変動は

  • Xc(t)=Xc (0)・exp{(β-α)t}

と書き表されます。出生率が死亡率より大きい場合(β-α>0)、一般の人口Xcは指数関数的に増加します。逆に出生率が死亡率より小さい場合(β-α<0)、一般の人口Xcは指数関数的に減少します。

(2)エリ-トの人口X

エリ-トの人口も同様に微分方程式

  • dXE/dt=(β-αE)XE

 αE=αE(Xc、XE、w)、β=出生率定数

と表されると仮定します。

一般に死亡率をαは、人口や富の量に依存します。富の量が人口を養うのに十分であれば、一定になりますが、富の量が閾値wthより小さくなると、死亡率は増大します。一般人とエリ-トでは死亡率αの富の総量wに対する依存性が異なります。

(3)富の閾値wthと不平等率kと死亡率αの富w依存性

ρ[$/人]を一般人一人当たりの最小消費量とすると、富の閾値は

・wth(Xc、XE、k)=ρ・Xc+k・ρ・XE

と表されると仮定します。ここで因子kは不平等率です。エリ-トの最小消費量は一般人のk倍と仮定されています。kの値によって社会を3つに分類できます。

1)平等社会  Egalitarian society     k=0、エリ-トなし

2)階級社会  Equitable society     k=1、不労所得階級あり

3)不平等社会  Unequal society   k>1、エリ-トあり

具体的に、このモデルでは通常の死亡率はαm=0.01、飢饉時の死亡率はαM=0.07としています。死亡率αは、富が閾値を下回ると0.01から0.07に富に比例して増大すると仮定します。一般人とエリ-トでは富の閾値が異なります。エリ-トの富の閾値は小さいので、エリ-トの死亡率は殆ど最小値0.01に固定されています。つまり富の総量wが閾値より減少すると、一般人の死亡率は減少し始めますが、エリ-トの死亡率は低いまま保たれます。

(4)資源量y

限られた食物環境にある生物の増殖を議論するのには、ロジスティック方程式が用いられます。資源量yは、ロジスティック方程式

 ・dy/dt=γy(λ-y)-δ・Xc・y

に従うと仮定します。ここでλは人間の収奪がないときの最大資源量です。λの単位は$(エコドル)です。γ[1/t$]は単位時間の自然の再生率です。γ=0.01のとき10年で再生します。δ[1/t人]は一人当たりの人間が1年間に自然から収奪する収奪率です。収奪率δがゼロだと富が蓄積されません。仮にy(0)=λ/1000とすると、δ=0のときは、資源量y(t)は、S字型の再生曲線を描いて増加し、最大資源量λで飽和します。なぜならλ≫yのときは、指数関数的に増大し、yが増大してλに接近するとyは一定値λになるからです。

δがゼロでないときは

・dy/dt=γy(λ-δXc/γ-y)=γy(λ’-y)

と書けます。資源量y(t)は、S字型の再生曲線を描いて増加しλ’で飽和します。

λ=100、γ=0.01、δ=0.0025、Xc=100のときは

・λ’=λ-δXc/γ=100-0.0025*100/0.01=100-25=75 <100=λ

となります。

y<<1の時は、yの2次の項を無視して

 ・dy/dt=(γλ-δXc)y

と近似できます。収奪率δがγλ/Xcより大きくなると、資源量yは減少し、人類は滅んでしまうことが分かります。収奪率δが

 ・δ[1/t人]=γ[1/t$]・λ[$]/Xc[人]=0.01・100/100=0.01

のとき、資源量yは一定になります。

(5)富の総量w

富の総量wは、

・dw/dt=δXc・y-Cc(Xc、XE、w、k)-CE(Xc、XE、w、k)

に従うと仮定します。1年間の富の増加量は、自然から得た収奪量から一般人による富の消費量Cc[$/t]とエリ-トによる富の消費量CE[$/t]を引いた値になります。自然からの収奪量と富の消費量が一致する循環社会では、富は一定の値に保たれ、人口も安定します。

最低給料をs[$/人]とすると、一般人とエリ-トの富の消費量は

・Cc(Xc、XE、w、k)=min(1,w/wth)・s・Xc

・CE(Xc、XE、w、k)=min(1,w/wth)・s・k・XE

と表されると仮定します。エリ-トの消費量の場合は不平等率kがかかります。

ここで富の閾値は

・wth(Xc、XE、k)=ρ・Xc+k・ρ・XE

でした。w>wthの平時では、Ccは最低消費量

・Cc(Xc、XE、w、k)=s・Xc

となり、Ccはwに依存しません。w<wthの飢饉の時は、

・Cc(Xc、XE、w、k)=w/wth・s・Xc

となり、Ccはwに比例します。富の総量wがwthより小さくなる飢餓状況では、人の消費量はwが減るにつれて減少することになります。不平等率kが大きいほどエリ-トの消費量は大きくなります。

(6)初期状態

 簡単のため、初期状態は

・一般人の人口:Xc(0)=100[人]、

・エリ-トの人口:XE(0)=1[人]

・資源量:y(0)=100[$]、

・富の総量:w(0)=0[$]

と仮定しています。

2.平衡状態の人口、資源、富の量 XE=0の場合

ここでは、簡単のためエリ-トがいない平等社会での

・dXc/dt=0,dy/dt=0、dw/dt=0

なる平衡状態(定常状態)の解Xce、ye、weを考えます。以下に平衡解の導出方法を示します。

パラメ-タηを

・η=(αM-βc)/(αM-αm)

と定義すると、結局、平衡時の資源量yeは

・ye=sη/δ (=λ/2)

と書けます。平衡時の人口Xce、富weは

 ・Xce=γ/δ・(λ-ye)

 ・we=ηρXce

と書けます。平衡時の資源量ye=λ/2のとき、再生項y(λ-y)が最大値λ2/4になるので、このときの収奪率を最適収奪率(Optimal Depletion Ratio)

 ・δ*=2sη/λ=6.7×10-6

と呼びます。δ=δ*のとき、最大収容量(Maximum Carrying Capacity)

 ・XM=γ/δ*・(λ-λ/2)=γ/ sη(λ/2)2=7.5×104

が得られます。

3.計算に用いたパラメ-タ

4.Equitable社会の持続可能性の収奪率依存性について

 少数の不労者はいるが、不労者の消費量は一般人と同じ(k=1)である階級社会をEquitable societyと言います。kは不平等率です。

(1)k=1の階級社会 δ=0.7・δの場合

(2)k=1の階級社会 δ=1.0・δの場合

(3)k=1の階級社会 δ=2.0・δの場合

(4)k=1の階級社会 δ=3.0・δの場合

(5)Equitable 社会のまとめ

 Equitable 社会では、0.55δ*~3δ*の広い収奪率で持続可能な文明が実現します。収奪率が最適収奪率の0.55倍の場合は、人口増加が遅く、収容人口は最大値の1/3になります。最適収奪率δ*のとき、最速400年で持続可能な社会が実現し、収容人口は最大になります。収奪率が最適収奪率の2倍になると、収容人口は最大値の3/4に減少します。収奪率が最適収奪率の2倍以上になると、振動現象が現れ、持続可能な文明に到達するのに1000年以上を要します。

5.不平等社会での文明の絶滅

 少数の不労者が一般人の5倍消費している不平等社会では、持続可能な社会が形成されず、文明は崩壊します。

(1)k=5の不平等社会でδ=1.0・δ*の場合

 k=5の不平等社会において、Equitable社会で最大人口が達成できる収奪率δ*で収奪すると、文明は崩壊します。

(2)k=5の不平等社会でδ=2.0・δ*の場合

(3)k=5の不平等社会でδ=3.0・δ*の場合

(4)k=5の不平等社会 δ=4~30・δ*の場合

(5)k=10の不平等社会 δ=1~8・δ*の場合

(6)k=100の超不平等社会 δ=10~100・δ*の場合

(7)k=100、δ=15・δ*の超不平等社会 初期人口依存性

(8)k=10の超不平等社会 δ=1.2・δ*の場合

(9)k=100の超不平等社会 δ=15・δ*の場合

 NHKスペシャルで紹介された上記条件の計算結果をほぼ再現した。

(10)NHKスペシャルで紹介された上記条件の計算結果

6.結果とまとめ

7.モデルの限界

 このモデルでは、人口が減少し絶滅しそうになっても、エリ-トの消費量は一般人のk倍を維持していると仮定しています。現実には、人類が絶滅しそうになったら、エリ-トの消費量は一般人と同等になっていくのではないかと思われます。完全に消費量が同等になれば、不平等社会からEquitable社会へ移行し、持続可能な状態が実現します。しかしEquitable社会から不平等社会に逆戻りしたり、不平等が少しでも残れば、文明は絶滅する可能性が高いと思われます。

また文明が継続し技術革新によって死亡率が減少する可能性は考慮されていません。今後の課題としては、そうした修正をいれたモデルの検討が考えられます。

なおこのモデルでは、文明の絶滅原因を資源や富の減少に限定しています。実際は火山の噴火で生き埋めになったり、干ばつで水源が枯渇したり、大規模な洪水や地震などの災害や疫病の蔓延で文明が崩壊する可能性もあります。

 

「世界商品により形成された近代世界」(後半)

皆さん、こんばんは。三期生の角野雅芳です。これから「世界商品により形成された近代世界」の後半の発表をします。まずは前回の内容を振り返りながら後半を展望します。

・歴史を変えた世界商品は銀と香辛料

前回は近世のヨーロッパ諸国が希求した世界商品は銀と香辛料だったという話をしました。また大航海を可能にした帆船と羅針盤や高度計を用いた航海技術を紹介しました。

銀は通貨の原料となり、交易を活発にし、資本の蓄積を促します。例えば紀元前500年前に、銀を産出した古代ギリシャはペルシャを凌ぐ大国になりました。16世紀にスペインは新大陸を発見しました。スペインは、南米のボリビアでポトシ銀山を発見し、莫大な富を得ました。コルテスはアステカ文明を滅ぼし、ピサロはインカ帝国を滅ぼし、スペインに多量の金銀をもたらしました。イタリアのジェノバ商人たちは地中海貿易で得た資本を元手に、スペインやポルトガルに融資し、莫大な資本を蓄積していきました。巨大資本は遠洋航海を実現するのに必要なものでした。

香辛料は、高級商品であり、遠洋交易を活発にしました。当時の一般人にとって香辛料は大変高価なものであり、生活必需品ではありませんでした。胡椒はインドから海路でイスラム人に、アラビアから陸路でベネチア人の手に渡り、ポルトガルに来るころには大変高価になっていました。16世紀のヨーロッパはオスマン帝国に圧迫され、地中海貿易が自由にできなくなっていました。もし外洋に出て海路のみで胡椒を輸入できれば、大きな利益になる状況でした。ポルトガルはインド航路を開拓し、武力で香辛料貿易を独占します。遠洋航海はヨーロッパ人の視野を地球規模に広げ、航海技術は様々な科学技術を発達させました。

 1517年にドイツのマルチン・ルタ-がプロテスタント革命を引き起こします。プロテスタントのカルバン派は商業も神の意志に叶うと考え、利子を肯定しました。宗教革命を契機にカトリックの宗教的権威を批判する合理的考えが生まれ、啓蒙的な哲学や科学が発達しました。1600年にプロテスタントの国々であるオランダ、イギリスが東インド会社を作り、香辛料貿易に参加します。こうして銀貨の増加と科学的航海術は香辛料の世界貿易を活発化させ、ヨーロッパに資本を蓄積していきました。

1650年ごろイギリスではコ-ヒ-ハウスが急増します。そこで初めて人々が身分を超えて自由に討議するパブリックスペ-スが生まれました。政治家、船商人、科学者、保険屋、軍人、報道者などが集まる様々なコ-ヒ-ハウスが発達しました。近代文明を支える銀行や保険会社や民主主義政治やジャーナリズムがコーヒ-ハウスで誕生したのです。イギリス人は中国から茶を、カリブ海の島から砂糖を輸入して紅茶を飲むようになります。宗教改革は真面目なカフェイン文化を育み、カフェイン文化は産業革命や工場労働に適合し、近代市民文化を形成してゆきました。

それでは大航海時代に話を戻します。海路で胡椒を輸入できれば、大きな利益になる可能性は大いにありました。しかし当時の知識ではインドに行ける航路があるかどうか分かりませんでした。それどころか地球が球体であることも一般には知られていない時代です。また帆船での長距離航海には莫大な費用と深刻な病気の危険性がありました。

・どうして当時のヨーロッパ人は命をかけて航海に出られたのでしょうか?

それは商人の金儲けの欲望と消費者の東洋への憧れが強かったからと説明するしかありません。キリスト教の布教は、目的というよりは、利益をあげるための手段でした。しかしながら現代人の感覚では、大航海は無謀であり人的損失があまりにも大きく利益に見合うものではありません。搾取された植民地の原住民や売買された奴隷らは本当に酷い目に遭いました。しかしながら香辛料貿易に従事していた船員や兵士たちの多くは罪人や奴隷や下層階級の人々でした。当時は、船員や原住民の人命や人件費が軽視されていたので、香辛料貿易の損失は、中継地の建設と破損した船の修理費程度であり、人的損害は深刻な問題にならなかったのです。

さてポルトガルは15世紀初頭から既に1000km離れた温暖なマディラ諸島でアフリカの黒人奴隷を使った砂糖キビ栽培をしていました。ポルトガルにはアフリカ付近の外洋航海の経験は既にありました。ポルトガル人のバスコ・ダ・ガマは胡椒を求めてアフリカ喜望峰を廻る航路を発見し、インドのカリカッタに到着しました。

当時は、東インドにパスタ-ジョン牧師が率いるキリスト教国があるとの噂がありました。ガマは東洋のキリスト教国と組んでイスラム教徒を撃退したいと考えていましたが、実際にはそのような国はありませんでした。インドのイスラム商人はガマが差し出した粗末な交易品を見て笑いました。ガマは敵視しているイスラム商人に蔑まされて、大変悔しい思いをしました。当時、内陸のムガル帝国の権力は港町に殆ど及んでいませんでした。ガマはインドの商人たちが艦隊や銃を持たずに軽い税金を払い自由に商取引をしていることを知ります。

ガマの報告を受けたポルトガルは大砲を積んだ艦隊を東南アジアやインドに送ります。そして武力を行使して港町を占領して貿易を行い、莫大な利益を上げました。もちろん小国ポルトガルがインド航路の探索に費用を捻出できたのは、地中海貿易で資本を蓄積したイタリア都市国家の支援があったからでした。

しかし80年後、ポルトガルは没落し、スペインに併合されます。スペインは、ジェノバ商人に対するポルトガルの借金を肩代わりしたからです。カトリックの王族が、ジェノバの高利子の融資を受け続けた理由は、彼らは金銭管理に関心がなかったからでした。商業の発展により、時代がカトリック国家からプロテスタント国家に移ったことは必然的なことでした。プロテスタント国家であるオランダ、イギリス、フランスはそれぞれ東インド会社を設立し、東方貿易を巡る熾烈な覇権争いを繰り広げました。東インド会社は国家により独占貿易を認められた民間企業です。大航海時代以前の覇権国家は中国とインドでした。辺境のヨ-ロッパ諸国は東インド会社を設立し、東方貿易を独占支配することで世界の覇権を握ったのです。

・各国のインド航路の違い

東インドとは、インドの東側ではなく、インドを含む東アジア全体のことです。西インドとは、インドの西側ではなく、南北アメリカ大陸のことを指します。 各国のインド航路は少し違っていました。ポルトガルは、東アフリカの港町に中継地点を設け、ケニアのマリンディからカリカットに向けてインド洋を航海しました。英仏は、アフリカ南端のケープとマダガスカル沖の小島を中継地点として、インドに向かいました。オランダ船は喜望峰から南インド海流に乗ってオ-ストラリア西岸まで行き、西オ-ストラリア海流に乗って、ジャワに行きました。イスラム教徒はインドからアラビア半島端のアデンを通る経路で香辛料を運んでいました。

・季節風の影響を受けるインド航路

 左は夏、右は冬のインド洋の気圧配置と風向を示しています。季節によってジェット気流が蛇行するために、熱帯収束帯の位置が変化します。風は低気圧である熱帯収束帯ITCZ(Intertropical Convergence Zone)に流れ込みます。春から夏にかけて、チベット高原に低気圧が生じます。4月から5月にケニアのマリンディを出発すると、南西の季節風に乗ってインドに行くことができます。10月~1月にインドを出発すると北東季節風に乗ってマリンディに到着できます。

欧州各国は同じ時期にインドで香辛料を買うので、買い値が上がります。また同じ時期に帰港するので、売値が下がります。貿易上手なオランダは香辛料を安値で買うために季節風の影響を受けにくいオ-ストラリア航路を選びました。

上の写真は喜望峰です。南アフリカはヨーロッパの雰囲気ただよう市街地とエメラルドブルーの海を目当てに、世界中から多くの旅行者が訪れる人気の観光スポットになっています。

・ポルトガルは武力行使でインドの港町を征服

ポルトガル人はレコンキスタ運動でオスマン帝国等のイスラム人を敵視していました。バスコ・ダ・ガマは、3隻の帆船で喜望峰を廻るインド航路を発見して、富豪になりました。

東アフリカの港では、ガマは沖合に停泊して、イスラム住民を銃で脅して水を奪ったと言われています。行きは5月にケニアのマリンディを発ったので追い風で順調にインドに到着した。しかし帰りは8月にインドを発ったため、マリンディ到着に3カ月要し、壊血病で30人もの人が死にました。

ガマは二回目の航海では20隻の大艦隊で出かけ、インドの港町を砲撃し、沖合で掠奪行為を繰り返しました。ガマはインド洋でメッカ巡礼にいく大型船を略奪し、女子供が乗る乗客300人の船に火をつけて、傍で眺めていました。1503年に14隻の船が1500トンものスパイスを積んでリスボンに戻り、ガマは大富豪になりました。内陸のインド帝国は海岸の商業都市には関心が薄く、ポルトガルの支配を許しました。教科書は英雄の野蛮で非情な行いには触れないことが多いので、日本人が知らないことはたくさんあります。

1500年にガブリエル(ポルトガル)は、インドに行く途中で流されて、幸運なことにブラジルを発見します。たまたま漂着地に染料となるブラジルの木が生えていたことから、その土地はブラジルと命名されました。ブラジルは砂糖キビ生産の中心地となり、ポルトガルを潤すことになります。

ポルトガルはアラビア半島先端の港町アデン(紅海の入口)を支配できませんでした。インドの香辛料がアデンからアレクサンドリア経由でベネチア商人の手に渡りました。そうなるとポルトガルは、香辛料を独占できず、他のヨ-ロッパ勢力の掠奪に会い、没落していきます。

・インド総督アルブケルケの4拠点政策

1506年にポルトガル王マヌエル1世がアルブケルケ(ポ)を第二代インド総督に任命します。アルブケルケ(1453年 – 1515年)は、ホルムズ、ゴア、マラッカ、アデンの4拠点を次々と制覇し、ポルトガルの軍神と称えられました。 

1521年にマゼラン艦隊が「モルッカ諸島がスペイン領であること」を確認しに来訪します。スペインとポルトガルは香辛料諸島の領有権を巡って争います。1525年にカール5世(ス)とジョアン3世(ポ)はなんとお互いの妹と結婚することで、両国の紛争を終結させます。1529年にスペインはサラゴサ条約を締結し、ポルトガルにモルッカ諸島を譲渡しました。1565年に息子のフェリペ2世(ス)はフィリピンの植民に成功しました。フィリピンはポルトガル領にありましたが、カール5世の思惑通り、ポルトガルはスペインがフィリピンを領有することに反対しませんでした。おかげでスペインはマニラで銀と交換に中国の絹織物や陶磁器を手に入れることができました。

・モルッカ諸島とバンダ諸島の位置

モルッカ諸島は、ボルネオとニュ-ギニアの間にあるヘルマヘラ島の西方に並ぶ5つの小さな島々です。バンダ諸島はモルッカ諸島の南に位置する4つの島です。モルッカ諸島の名前は有名ですが、モルッカ諸島の島々の正確な位置を指し示せる人は殆どいないでしょう。

バンダ諸島はとても小さな島々です。ナイラ島にはベルジカ要塞(1611年建設)があり、今では観光地になっています。要塞は香辛料を貯蔵しておく場所です。香辛料を守るために要塞にはたくさんの大砲が設置されています。要塞の形はア米国国防省と同じ5角形です。

・スパイス諸島は世界の注目の中心地

モルッカ諸島はテルアナ、ティドレ、モティ、マキアン、バカンの5島(火山性土)からなります。モルッカ諸島はクロ-ブの世界唯一の自生地でした。クロ-ブは花の蕾を乾燥した香りの強い香辛料です。香辛料貿易は4000年以上の歴史を有します。スパイスは初めての世界商品です。紀元前1720年にバビロニア帝国(現シリア)のテルカ遺跡の陶器に付着したてクロ-ブが報告されています。つまりクロ-ブは1万km離れた距離を交易で移動したことになります。

中国人がアンボン港に来てスパイスを購入して、インドで売り、イスラム商人がインドアからシリアに運び、ベネチア人がヨーロッパにスパイスをもたらしました。香辛料貿易はイスラム教よりずっと古いのです。だからイスラム教徒が香辛料を広げたというよりは、香辛料貿易がイスラム教を広げたといった方がいいでしょう。

バンダ諸島はナツメグの世界唯一の自生地でした。ナツメグはニクズクという常緑樹の種子でプラウ・アイ島とルン島の2島に自生しています。ニクズクの実の中の種を覆う紅い仮種皮はメース(mace)と呼ばれる香辛料です、ナツメグは種の中の直径2.5cmの仁(じん)を摩り下ろして得られます。バンダ諸島はイギリスの植民地でした。オランダはマンハッタン島と交換に英国王ジェ-ムズ1世からバンダ諸島を得ました。

17世紀にオランダはインドネシア人にインド産のアヘンを売って胡椒を得ていました。胡椒はまさに世界の通貨として通用しました。イザベル女王(ポ)の結婚持参金は胡椒でした。

オランダのY.P.ク-ン総督(蘭)は、イギリスと手を結ぼうとしたバンダ諸島のロンタ-ル(Lonthoir)島の先住民13,000人を殺害しました。日本人傭兵を使って英国との交易を望んだ40人を晒し首に処したと言われています。日本では平戸に貿易を制限され大人しくしていたオランダ人は、スパイス諸島では恐ろしい暴君でした。

有名な香辛料にバニラ豆があります。トマス・ジェファーソンはバニラアイスのレシピを米国にはじめて紹介した人です。バニラ豆は香辛料諸島では採れません。バニラ豆はメキシコ湾岸のベラクルス地域に自生していました。バニラ豆は2.5万種のランの中で唯一の農産物です。スペインはバニラを独占していましたが、1822年にフランス人がバニラの差し穂をマダガスカル沖のレユニオン島に持ち込み、エドモン法の発見により50年後にメキシコの生産量を追い越しました。

・オランダも香辛料を求めインド航路を開拓

オランダは低湿地で農業に適さないので、漁業と海運業が発達しました。ポルトガル王室は胡椒販売の拠点を北ドイツのハンブルグに定めました。主な販売先はメディチ家、ハプスブルグ家、南ドイツのフッガ-家とウェルザ-家です。オランダ商人は胡椒の売買ができず不満でした。

1588年にイギリスがスペインの無敵艦隊を撃破します。イギリスの私掠船が大西洋上で胡椒を積んだポルトガル船を襲撃する事件が多発します。その結果、1592年に胡椒の価格が高騰します。オランダ商人は東アジア貿易を決断します。

1595年4月に10万ギルダの銀貨を積んだオランダ船隊4隻(大砲100門)が、ジャワ島の港町バンテンに向けて出航しました。ケープタウンに寄港し、15カ月後にバンテンに到着します。1597年8月にオランダ船隊3隻が帰還しましたが。240人から87人に減少していました。実に乗組員の2/3が死亡したことになります。 それでもオランダ国王は喜び、船隊を次々に送ります。1599年7月にヤコブ・ファン・ネックの船隊(4隻)はインドからアムステルダムに帰還しました。ネックが持ち帰った東方の品々は、400%もの利益率をもたらしました。5年間にオランダは15船隊(65隻)を東アジアに派遣しました。ポルトガルは23隻でした。

1602年3月にオランダ東インド会社(VOC)が設立されました。VOCはアムステルダム周辺の5会社とゼーランド周辺の6会社が合併して出資した民間会社です。オランダ政府は21年間の独占契約と更新料150万ギルダ(=15万ポンド=360億円)を決定しました。当時の1ポンドは24万円、1ペンスは千円程度です。VOCは46条の権利として要塞設置権、総督任命権、兵士雇用権、条約締結権、貨幣鋳造権などの国家権力を譲渡されていました。収奪した品々を保管するために堅固な要塞が必要でした。オランダVOCの資金は、642万ギルダ(1540億円)で、イギリスEICの12倍もの資本がありました。VOCの配当金は平均利率20%、株は元値の4倍以上の額で取引されました。

1603年12月にオランダVOC船隊12隻が、ポルトガルが支配するアフリカのモザンビ-クとインドのゴア港を攻撃しました。オランダはポルトガルと同様に武力で交易を支配しようとしたのです。VOCのアムステルダム本社の画像です。

・不良人材に借金をさせて船乗りを確保

オランダ東インド会社の貿易船の乗組員の構成は、船乗り60%(外人35%)、兵士30%(外人65%)、船職人9%、上級商人と聖職者1%でした。船乗りと兵士は妻帯厳禁、上級商人は妻帯可能でした。

インドへの船旅は危険でした。記録によると100年間で往路は97.6万人、帰路は36.6万人が移動しましたが、61万人が船上か現地で死亡しました。船上の死亡率は8~15%と高かったようです。乗組員の2/3は帰って来られませんでしたが、罪人や下層階級の人命は軽視されていました。船長は彼らを騙して水夫や兵士にしました。優秀な水夫は軍隊に取られるので、残りの不良人材を雇用しました。

 1)居酒屋、賭博場、売春宿に誘い騙して多大な借金をさせ借金証書を取る。

 2)航海中は週に3回(1食200g)羊肉と豚肉が食べられると伝え誘惑する。

 3)出航前まで地下室に監禁し、スープ一杯の食事で弱らせる。

帰路は交易品を大量に積むために、水夫や兵士の数を減らしました。女性の乗務員は100年間で200人しかいなかったそうです。停泊地では1カ月弱停泊し、水と食料を補給し、船を修理しました。水は1日3リットル。イギリス船ではテムズ川の不味い水を飲んでいました。水は船の前方、火薬は後方に積まれました。船底には陶器や穀物や金属を置いて船を安定させ、食肉の周りを胡椒で埋めました。防湿のために絹、綿、茶、スパイス、コ-ヒ-の周囲に陶器、銅銭、染料木を置きました。船上は高く浮きが見えず、魚釣りは難しかったかもしれません。

病気はマラリア、壊血病(scurvy)、脚気(beriberi)が多かったです。赤痢(dysentery)、腺チフス(typhus)などの病気にかかることもありました。チフスやペストはネズミやヒトの蚤を媒介して感染します。リンパ腺が腫れるので腺チフスと言います。

・イギリス東インド会社はインドの統治機関へ変貌

イギリスは気候が冷涼で、農産物の価格が高く、生活費がかかるため、人件費が高い特徴があります。イギリスの毛織物、刀剣、宝飾品、時計、象牙、珊瑚などの特産物は、高価でインドではあまり売れませんでした。

1600年12月にイギリス東インド会社(EIC)が設立されます。EICはロンドン商人が設立した民間会社で、英国政府が15年間の独占貿易を認可しました。1601年3月にEICの船隊(4隻、110門)がスマトラとジャワに向けて出航します。マラッカ海峡でポルトガル船を掠奪し、2年半後に帰還しました。10年間の東インド貿易の平均利益率は155%でした。

1608年にムガル帝国のジャハンギ-ル皇帝がEICに北西インドのス-ラト港町での貿易を許可します。1611年にインドの南東部のマスリパトナムにイギリスEICの商館を設立しました。1622年にEICはサファビ-朝のアッバ-ス1世の要請でホルムズ島(ポ)の攻略に成功し、ペルシャ全土での自由貿易権を得ます。ペルシャは砂漠の国で木材がなく船が作れませんでした。岸から8km離れたホルムズ島に軍隊を派遣できなかったのです。イギリスは現地の権力者から良い待遇を受けるようになりました。1639年にEICは地元領主の招きでマドラスに拠点をもちます。EICは関税を免除され、税収の半分をもらう権利を得ます。1757年にベンガル地方でおきたプラッシ-の戦いで、EICが仏印連合を破ります。EICはインド太守に代わり徴税を行い、いち貿易会社からインドの植民地統治機関へと変貌していきました。

・フランス東インド会社は出遅れたが国家支援を受けた

フランスのパリは内陸都市で、セ-ヌ川には大型船は入れませんでした。フランスは長距離航海を支えられる商業資本が特定の港町に蓄積されませんでした。

1664年にフランス東インド会社が設立されます。財務大臣コルベ-ルがルイ14世に進言し、王族、貴族、官僚が1200万リーヴルの資本を拠出しました。国務評定官が会社を経営しました。1667年にフランソワ・カロン(元平戸のオランダ商館長)がベンガル商館を建設し、木綿(キャラコ)・胡椒などをフランスに輸入しています。1673年にフランス東インド会社はベンガル地方のシャンデルナゴルに商館を建設します。また中継基地としてインド洋上のモーリシャス諸島とレユニオン島を領有しました。1674年にコロマンデル地方(インドの南東海岸)のポンディシェリに要塞を建設します。しかしあまり利益は出ませんでした。

1719年にジョン・ロ-が東インド会社を民営化します。株は銀行家や外国人が所有し、株主の代表が会社の経営に参加するようになりました。財務、航海、艤装の専門家などが取締役となり、ポンディシェリ総督と共に運営しました。株の半分が一般開放され、ルイ15世は1/5を保有していました。

1720年にはブルターニュの海岸にロリアン(Lorient)港を建設しました。4000人もの労働者が雇用され、ロリアンの造船所には船の建造に必要な専門技術者、職人が集められました。これらの政策によってフランス東インド会社の収益が上がっていきます。交易品は英国の石炭、錫、鉛、アイルランドの塩漬肉とチ-ズ、スペインの銀貨などでした。

<フランスの貿易モデル>                        仏→東インドの綿織物→西アフリカの奴隷 → 西インド諸島の砂糖 →仏

・ヨ-ロッパの東インド貿易の船舶数

下の図にヨーロッパの東インド貿易の船舶数の変遷を示します。データは10年間の船舶数を表わしています。1500年~1600年のデータはポルトガルが外洋に出した平均船舶数を表しています。1600年以降ポルトガルは徐々に船舶数が減少します。1720年~1730年にオランダの船舶数は最大382隻となります。東方貿易はオランダが一番勢力があったことが分かります。オランダ、イギリス、フランスは、東インド会社を設立後、東方貿易に関わる船舶数が増大します。フランスは17320年にロリアン港を建設以後、交易が活発になります。1790年以降、東インド会社の船舶数は急激に減少します。

・世界商品が近代グロ-バル経済を形成した理由

これまで近代のグロ-バル経済を形成する契機になった香辛料貿易がどのように進展してきたかを詳しくお話してきました。香辛料が日常品になった後は、砂糖や茶が高収益な世界商品となって、グロ-バル経済を発展させていきます。そこで私は、次の3つの仮説を考えました。

仮説Ⅰ 豊かな生活は好奇心が満たされる生活である。

仮説Ⅱ 好奇心を満たす商品は高収益の世界商品になり得る。

仮説Ⅲ 高収益の世界商品がグロ-バル経済を形成発展させる。

当時は人的損害を極めて低く評価したので、無謀な香辛料貿易が黒字になり得ました。航海技術や貿易・中継拠点が発達し、高収益の世界商品が現れました。それによって投資が増大するためにグロ-バル経済は形成されました。またより収益の高い商品の開発によってグロ-バル経済は発展していきました。その結果、現代では生活必需品もグロ-バルに流通するようになったと考えられます。逆に国家体制はグロ-バル経済で収益を揚げられるように変化していきました。しかしながらグロ-バル化によって、貧困や経済格差、金融崩壊、健康被害、環境破壊などの様々な問題が引き起こされています。

宗教は歴史に大きな影響を与えました。異なる宗教や異なる宗教解釈によって国が対立したり、独立するために、絶えず戦争が起こりました。王室は戦費を捻出するために東インド会社に権限を与え、投資をしてきました。しかし宗教を布教する宣教師よりも、はるかに多くの商人が東インドに行き、活躍しました。

人間はよりお金を儲けるために経済を発展させてきました。だから歴史の原動力はお金儲けだと言う人がいます。しかしその考えは一面的です。なぜなら高価な香辛料を買う消費者がいるからこそ、香辛料を売ってお金を儲けたい商人が生まれるからです。グロ-バル経済の誕生には商人と消費者の両方が必要です。どちらが先であるかを考えると、世界商品を求める消費者の欲望の方が先だと思われます。従って私は「グロ-バル世界を形成した歴史の原動力は、人々の好奇心を満たす世界商品である」と結論して良いのではないかと思います。

・胡椒や香辛料が求められた本当の理由

従来説では、胡椒は食肉の保存、保存の悪い食肉の味付けのために用いられていたとされています。ところが、『食の歴史』第二巻28章P641を執筆したJ.L.フランドラン氏によると

1.肉と魚の保存は塩、酢、植物油で行われていた。

2.肉は現在よりももっと新鮮な内に食べられていた。

3.貴族は保存肉や腐りかけた肉を食べなかった。

4.塩漬け肉はマスタ-ド味をつけて食べられていた。

ということです。どうやら胡椒は食肉の保存や臭い消しのために用いられていたのではなかったようです。当時、胡椒や香辛料は医薬品で、薬膳料理に不可欠だったと考えられます。メイスは水腫や胃腸痛、ナツメッグは船酔いと不眠症、クロ-ブは吐き気や歯痛止め、シナモンは消化、精力増強と受胎、胡椒は男性機能の向上に効果があると信じられていました。

・欧州貴族は香辛料が健康に必要だと信じていた

15~16世紀のヨ-ロッパの医学は時代遅れの四体液説に基づいていました。四体液説(Humorism)とは、人間の身体には「血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁」の4種類の体液(humor)があり、その調和によって身体と精神の健康が保たれるとする考え方です。この医療法は古代ギリシャのヒポクラテス(BC480年)が唱えましたが、現代では疑似医療とされています。

180年頃ローマ帝国時代のギリシア人医学者ガレノスは四体液説に基づいて500種類以上のハーブを「熱、冷、乾、湿」の性質に分類・体系化し、イスラム医学に継承しました。

11世紀コンスタンティヌス・アフリカヌス修道士がガレノスの著書を西欧医学の正典としたためヨ-ロッパでは医学の進歩が大幅に遅れました。1570年にスペイン王フィリップ2世はスパイス調査のため医師団をメキシコへ派遣しています。スパイスは医薬であると考えられていたからでしょう。

四体液説によると、肉魚は湿っているので、乾いたスパイスを食べて体液のバランスを保つ必要があると考えられました。調香師は、50種以上の複雑なスパイス処方を行い、貴族の健康管理をしていました。貴族は性欲亢進効果を期待していたようです。

・香辛料の香りは人間の記憶に強く残る

鼻の奥にある嗅細胞は2.4cm2に500万個ほど並んでいます。嗅細胞の先端には、数本の嗅線毛があり、毛の表面に300種類以上の匂い分子の受容体があります。匂い成分が受容体に付着すると電気信号を発し、脳に伝えられます。

嗅覚以外の感覚(視覚、聴覚、味覚、触覚)は脳の中で理性的に認識されます。感覚情報が論理的に認識され、その後に快・不快の感情が生じて記憶されます。

嗅覚情報は、直接、脳内の感情や記憶を司る大脳辺縁系に届きます。論理的に認識する過程を経ずに、直接、快・不快の感情と結びつき、長く記憶に残ります。

赤ちゃんは生まれた直後、母親の乳輪腺が出す匂いを頼りに乳房を見つけます。臭覚は、腐敗した食物を検知するなど命の危険を察知できるように設計されるために、鮮明な印象を残し記憶や感情を引き出す力が特別に強いと考えられます。

・香辛料の価格が低下した理由

それはフランス人が東インドから香辛料の苗木を盗んで栽培したからだと言われています。1770年にピエ-ル・ポワブル(1719-1786)という片腕のフランス人宣教師が、ナツメグ1000本とクロ-ブ300本をフランス島(現Mauritius)に移植栽培し、6年後に収穫に成功しました。1776年にポアブルは仏領マダガスカルとザンジバル島(現タンザニア)でクロ-ブの栽培を開始しました。香辛料が日用品に降格し、オランダの覇権が崩れる要因となります。

1841年にインド洋のレユニオン島で当時12歳の黒人少年のエドモン・アルビウス(1829-1880)がバニラ豆の人工授粉に成功しました。現在バニラ香のバニリンは針葉樹パルプ廃液のリグニンから製造可能になっています。バニリンは芳香族フェノ-ルにアルデヒド基とメトキシ基が付加した構造になっています。

7.キリスト教宣教師による日本征服計略 

これまで銀と香辛料貿易の話しをしてきました。大航海時代の日本は戦国時代と江戸時代にありました。日本は鎖国をしており、ヨーロッパ人との交流は極めて限定的であると教えられてきました。しかし実際はヨーロッパ人が日本に与えた影響は極めて大きく、日本人もヨ-ロッパの植民地戦争に参加していた実態が明らかになってきました。

・なぜ信長はキリスト教の布教を許したか?

1)信長はキリスト教勢力を利用し仏教勢力(石山本願寺)を排除したかった。

2)信長はポルトガル人宣教師から鉄砲の鉛玉(タイ産)を得ていた。

3)信長は鉄砲技術で天下統一を果たそうとした。

グネッキ・オルガンティ-ノ宣教師(ポルトガル)はキリシタン大名の軍事力で日本を征服しようとしました。彼は石山戦においてキリシタン大名高山右近に信長を支援するように命令します。グネッキは信長をキリシタンにしようとしたのですが、信長は「我神にならん」と言って撥ね付けられてしまいます。明智光秀が足利義明の命に従い、信長を本能寺で暗殺します。

・日本の鉄砲技術は世界一

日本は1543年の鉄砲伝来から2年で鉄砲の複製に成功します。俗説では八板金兵衛は娘の若狭をオランダ人に嫁がせて、銃底を塞ぐ技術を教えてもらったそうです。当時の日本には銃の底を塞ぐネジの技術がなかったのです。ネジは鉄砲だけに用いられ、明治になるまで広がりませんでした。

日本は刀鍛冶の技術を応用し、鍛造で鉄の不純物を減らし、銃身強度を高めました。それによって日本産の銃は甲冑を打ち抜く破壊力を得ました。堺で分業による鉄砲の大量生産(30万丁)を行いました。当時世界の1/3の鉄砲は日本にあったと言われています。専門職人がそれぞれ火蓋、銃身、銃床を作りました。鉄砲は一丁30万円程度で売られるようになりました。鉄砲や大砲は日本の統一を加速しました。日本の武士は勇敢であり、日本は世界屈指の軍事大国でした。日本は強力な統一政権があったために、分断されずに列強の植民地支配を免れることができました。江戸時代には、武士は傭兵として植民地戦争に参加していました。オランダは日本製の銅製大砲を用いドイツ三十年戦争に勝利しました。

・南蛮人を利用した内戦、大阪の陣

1614年に大坂冬の陣は大阪城を守る豊臣家10万兵(傭兵)と徳川家20万兵の戦いです。徳川軍は大阪城からの鉄砲射撃で打ちのめされて撤退します。鉄砲は守りに威力を発揮します。大砲は責めの兵器です。徳川家康は英国よりブロンズ製のカルバリン(Culverin)砲4門とオランダからより大きいカノン砲12門を購入しました。カルバリン砲は中口径の前装式大砲で、14kgの砲弾を最大6.3km飛ばすことができました。豊臣軍は大阪城に昼夜大砲を撃ち込まれて疲労困憊します。大坂城の本丸に砲弾が直撃し、淀の目の前で侍女が死亡し、降参します。和平交渉では、外堀が埋められ、二の丸、三の丸が撤去されます。

豊臣秀頼にはスペイン人のロドリコ・デ・ビベロ総督が付きます。スペインの目的は布教と領地でした。日本をキリスト教国家にして、中国を攻撃させようとしたのです。ビベロ総督は鉱山技師を派遣する代わりに採掘した銀の50%を要求しました。またオランダ人の国外追放とキリスト教会の設置を要求しました。しかし大阪の陣で敗退します。

徳川家康にはオランダ東インド会社のジャック・スペックス商館長が付きます。オランダは布教よりも利益が目的でした。オランダはスペインから独立するための資金として日本の銀を安価に入手しようとしたのです。佐渡の銀山の埋蔵量は2300トン(高純度)で年間産出量100トンでした。これは世界の銀の産出量の1/3に相当していました。スペックスは銀と交換に家康にブロンズ製の大砲を売りました。城までの距離は500mで、大砲の有効射程距離は1800mでした。家康はオランダの支援と大砲で大阪城の攻撃に成功しました。それを可能にしたのは佐渡の豊富な銀だったのです。

・17世紀のオランダの東アジアでの貿易

17世紀のオランダが東アジアで行っていた交易は興味深いものです。オランダは日本の長崎で棹銅と鮫皮を交換し、南東インドのコロマンデル地域で棹銅を綿織物に交換し、東南アジア各地で綿織物を胡椒や香辛料、染料、鮫皮(エイ)と交換していました。18世紀にはジャワの砂糖を日本へ運んでいました。オランダは日本で銀と生糸を交換し、台湾で日本の銀を中国の生糸と絹織物、陶磁器と交換していました。オランダ本国に綿織物、染料、胡椒、香辛料、銀、絹織物、陶磁器を持ち帰っていました。

鮫皮は濡れても滑らないので刀の柄に用いられていました。オランダ人は鮫皮をタンスの装飾に用いるように提言していました。オランダ人は日本の銅や銀が欲しかったのです。日本人は砂糖や生糸を欲しがりましたが、香辛料は欲しがりませんでした。

1637年にオランダ東インド会社(蘭VOC)の70%利益を平戸商館での交易が占めていました。だからオランダは日本の言うことに従っていました。1640年に平戸の蘭VOCの石造倉庫の取り壊し命令が下されました。建物に刻まれた建築年「1640年」がキリスト教と関係しているという理由でした。翌年カロン商館長は平戸から長崎へ移転させられます。商館長はやってられない気持ちだったと思います。

1662年にオランダは鄭成功に台湾を取られ、中国貿易が停止します。徳川幕府が金銀の持ち出しを禁じます。インド綿がヨーロッパで人気がでて高価になり、東南アジアで売れなくなりました。オランダは胡椒を銀で買うしかなくなります。

・なぜ九州大名はキリスト教を信仰したのか?

九州の大名は、年貢米や参勤交代で財政が逼迫しており、南蛮貿易で領国の経営を安定させたかったから、南蛮人の信用を得るために、キリシタンになったと思われます。また領国内をキリスト教で統一できれば、支配を強化できる思惑もありました。有名なキリシタン大名には、長崎港をポルトガルに献上した大村純忠、黒田官兵衛、蒲生氏郷、黒田長政、小西行長、細川ガラシャ(光秀の娘)などがいます。1580年にポルトガル人宣教師はキリシタン大名を利用し、九州を支配下に置きます。10万人のキリシタン兵力と大砲技術は幕府の脅威でした。

・秀吉のキリシタン政策

1587年に秀吉はバテレン追放令を発令し「20日以内に帰国せよ」と命じます。ポルトガル商人は数百人の日本人を那覇で奴隷として売っていました。オランダ商人は布教しないから、長崎で滞在を許されました。1592年に秀吉は朝鮮出兵(74万人)を行い、キリシタン大名を最前線で戦わせ、勢力を減少させました。このとき明は朝鮮に援軍を送りました。秀吉は、海禁政策をとる明に軍事的な圧力をかけ、中国沿岸から東南アジアにかける海域の中継貿易の主導権を握ろうとしたのです。秀吉はフィリピンに送られる大量の金銀を狙っていましたが、1598年秀吉とフェリペ2世は逝去し、日本とスペインの戦争は回避されました。

8.砂糖キビ栽培と奴隷貿易

・17世紀に英国は三角貿易で富を蓄積

毛織物は暑いインドでは不要です。ヨ-ロッパにはインドや中国が欲しがるような商品はありませんでした。ヨーロッパの商人は、アフリカで銃器や綿織物やガラス玉などを黒人奴隷と交換し、黒人奴隷を西インド諸島などのカリブ海の植民地まで運搬・売却し、砂糖や綿花やたばこなどをヨーロッパに持ち帰る三角貿易を行っていました。イギリスはアフリカで綿織物の需要が高いことに目を付け、綿工業はイギリス産業革命の基盤となりました。イギリスは三角貿易で蓄積された資本で工業国になりました。

カリブ海の植民地では、砂糖キビが栽培され、砂糖キビを絞って砂糖を得ていました。搾りかすの糖蜜(廃糖蜜)も本国に送って、廃糖蜜をアルコ-ル発酵させ、蒸留してラム酒を生産していました。ラム酒はアフリカ大陸で黒人奴隷と交換されました。黒人奴隷をカリブ海の植民地に送り、砂糖キビの栽培と砂糖生産をさせていました。砂糖とラム酒がイギリスの三角貿易を支えました。

・奴隷貿易を支えた安価なラム酒

1627年に英国人入植者がカリブ海のバルバドス島で砂糖キビ栽培を開始しました。20年後に首都のブリッジタウンは砂糖貿易の中心地となり、入植者は大富豪になりました。そこではじめて砂糖生産で生じる廃糖蜜を発酵・蒸留させた安価なラム酒が製造されました。砂糖キビの学名はサッカラムといいます。サッカは甘い、ラムは茎を表します。ラム酒のアルコ-ル濃度は60%以上もありました。アルコ-ル濃度が高い方が船で運びやすくなります。廃物を利用してラム酒は安価に製造され、三角貿易の販売経路を利用して安価に輸送されました。

「ホワイトラム」は活性炭によりろ過された無色透明のラム酒です。サトウキビや糖蜜の味がそのまま味わえ、カクテルに使われます。「ゴールドラム」は樽で熟成したもので薄い褐色をしており、お菓子の香りづけに使われます。「ダークラム」は内面を焦がした樽で3年以上貯蔵して、濃い褐色のもので、風味が強いのが特徴です。

ラム酒は

  1)黒人奴隷と交換する通貨の働きをした。

  2)奴隷を統制し、苦しみを紛らわす。

のに用いられました。アフリカの奴隷商人はラム酒を最も欲しがりました。

1655年に英国海軍は海兵にビ-ルの代わりにラム酒を支給しました。フランスは自国のブランディ産業を保護するために、植民地でのラム酒生産を禁止します。英国の酒造業者は仏植民地から糖蜜を輸入し、ラム酒を安価に製造しました。こうして英国の酒造業者は仏の砂糖植民地を利したので、英国の砂糖業者は打撃を受けました。そのため1733年にロンドンで糖蜜法が制定されます。政府は輸入糖蜜1ガロンに6ペンスを課税しました。するとラム酒の密輸が横行しましたが、イギリス政府は取り締まれませんでした。このように法の権威が失われたことは、アメリカが独立する原因となりました。

イギリス政府は1765年に印紙法、1767年にタウンゼント法、1773年に茶法を成立させ、アメリカ植民地から税金を取りたてました。それに反抗して1775年にアメリカ独立戦争が起こり、1781年にアメリカがイギリスから独立します。ベトナム戦争でコカコ-ラが兵士の飲み物となったのと同様に、独立戦時中にはラム酒(革命の香)がアメリカ兵の飲み物となりました。

1795年にエドワ-ド・バーノン提督がラム酒に砂糖とライムを加えたカクテルを作り、船員に飲ませました。これによってイギリス海軍は壊血病を防ぐことができるようになりました。フランス海軍はワインを蒸留したブランデ-を飲んでいたので、壊血病になりました。1805年にフランスとスペインの連合国はトラファルガ-海戦でイギリスに敗れます。ラム酒は大国の運命も変えてしまったのです。

・産業革命が各国の東インド会社を廃止させた

イギリスでは、船員や軍人や奴隷などの肉体労働者はラム酒やウイスキ-などの蒸留酒を飲み、工場労働者や知的労働者はコ-ヒ-や茶などのカフェイン飲料を飲みました。コーヒ-はコーヒ-ハウス独自の市民文化を育み、紅茶は産業革命時代の工場労働者を支えました。それによって科学が発達し、工場経営や工場労働ができる近代文化が発達しました。茶はインドと中国の半植民地化、アメリカ植民地の独立を引き起こしました。

産業革命前は、船で香辛料を独占的に買い付けて、自国に持ち帰って販売していました。東インド会社は香辛料貿易を独占する代わりに収益の20%を政府に収めていました。これらは国が貿易で確実に利益を得るためのものでした。また独占貿易により香辛料の購入価格の上昇を防止しました。しかし香辛料の栽培が多くの植民地で可能になると、スパイス貿易は不要になります。また香辛料が大量生産されると価格が低下して日用品となり、大きな利益が得られなくなりました。

産業革命後は、独占貿易が自由貿易に変化します。機械による大量生産が可能になり、綿織物などの大量の商品を様々な国に自由に売った方が利益が得られるようになったからです。政府は大量生産物の販売で利益を上げた全ての企業から税収を得られるようにしました。

・ポルトガルは15世紀に砂糖キビ栽培開始

1419年にマデイラ諸島が発見され、ポルトガルの植民地となります。すぐに黒人奴隷による砂糖キビ栽培が行われました。ポルトガルは、コロンブスが西インド諸島を発見する73年前に、黒人奴隷による砂糖生産を行っていました。本国から1000kmも離れていたので、殆どのポルトガル人は沖合の小島で奴隷労働が行われていたことを知りませんでした。

1999年にマデイラ島の美しい照葉樹林は世界遺産に登録されました。首都はフンシャルで、人口は14万人です。標高1,862mのルイボ山があります。クリスティアーノ・ロナウド選手はフンシャルの出身です。1479年、コロンブスはマデイラの娘と結婚してマディラに住んでいました。マデイラ・ワインは高アルコ-ル度数の高級ワインとして有名です。

・砂糖きびの栽培地の変遷

0)砂糖キビは東南アジア原産。前500年インドで、8世紀にエジプトで栽培、

 製糖された。砂糖は十字軍によって、ヨーロッパに伝えられた。

1)砂糖キビはスペイン領のカリブ海のキュ-バなどの島々で栽培された。

  先住民や黒人奴隷をつかって砂糖キビ栽培と製糖を行った。

2)16世紀をつうじて世界の砂糖生産の中心はブラジルだった。

 黒人奴隷を獲得できたポルトガルは砂糖プランテーションができた。

 ポルトガルから伝来した金平糖やカステラには砂糖が使われている。

3)17世紀に入るとオランダ人によって、砂糖きび栽培はイギリス領

 やフランス領のカリブ海の島々に移された。

4)18世紀に入るとイギリスなどでお茶に砂糖を入れるようになり、

  砂糖の需要が飛躍的に伸び、砂糖が「世界商品」になった。

  英国人は中国の紅茶にカリブ産の砂糖を入れて飲んだ!

5)砂糖入り紅茶がイギリスの都市労働者の朝食に不可欠になった。

・砂糖きびの栽培に必要な条件

砂糖キビ栽培には適度の雨量と温度が必要です。土壌の肥料分が消耗するので移動して栽培しなければなりません。製糖は重労働でした。奴隷による規則正しい集団労働が必要でした。精糖の加熱工程に要する薪を得るため、森林伐採による環境破壊が進みました。砂糖は紅茶に入れて多くの市民に飲まれるようになりました。当時イギリスで一番の金持ちは精糖業者でした。1799年植民地のないプロイセンはビ-ト(砂糖大根)による精糖法を開発します。

・黒人奴隷の輸送方法と価格

植民地での商品作物の栽培と加工を支えたアフリカの黒人奴隷についてお話をします。1452年にローマ教皇ニコラウス5世が、異教徒を永遠の奴隷にする許可を与え、非キリスト教圏の侵略を正当化しました。奴隷貿易は1515年~1865年の350年間継続します。

<アフリカ人が奴隷にされた理由>

・植民地の先住民はヨ-ロッパ人による虐殺と疫病で激減し労働力が不足した。

・ベニン王国等は他部族の黒人を白人に売却し、衣類、ラム酒、武器を購入した

・アフリカ人奴隷は熱帯気候と伝染病に強いと信じられていた。

<黒人奴隷の輸送方法>

・侵略や内戦の捕虜、襲撃や拉致された者を海岸の砦に押し込み、出荷した。

・2週間分の食糧で大西洋を横断。15%~34%は飢えと病気で死んだ。

・1隻当たり250人の奴隷。英国は190隻で年間4.7万人を輸送した(1771年)。

・奴隷の総数は1250万人(毎年5万人の奴隷が250年間供給されたことに相当)

・英国では奴隷積載船の需要が増し、リヴァプールの造船業は急速に成長した。

・アフリカに綿製品を販売して、マンチェスターの綿工業も大いに発展した。

<奴隷の価格>

18世紀当時は1ポンド=10万円でした。1ポンド=20シリング=240ペニーの貨幣制度でした。ある記録では1680年に仕入れ5ポンド(50万円)、販売20ポンド(200万円)ですから、現在でいうと奴隷一人当たり150万円、1隻250人として3.75億円の利益になりました。100年後の1780年では、仕入れ20ポンド(200万円)、販売45ポンド(450万円)ですから、奴隷一人当たり250万円、1隻250人として6.25億円の利益になりました。女奴隷は子供を産むので、金8オンス(240g)で販売されたとあります(1772年)。これは1200万円に相当しますが、現代の生涯賃金は2億円と較べると安いです。奴隷の警ら隊に奴隷を監視させていました。逃亡奴隷は罰を与えられました。女奴隷の子どもは奴隷にされました。奴隷の強姦は日常的なことでした。

・奴隷貿易の利益率は?

奴隷貿易の利益率は60%程度あり、通常の利益率15%を遥かに超えていました。1725年英国のブリストル港を出航した100トンのガレオン船の記録によると、

1)鉄砲、綿織物、鉄の塊、銅の鍋、帽子など1330ポンド分の積み荷をのせ、

 西アフリカ海岸まで運び、240人の黒人奴隷と交換した。

2)奴隷をカリブ海沿岸の砂糖農場に運び、1人あたり13.5ポンドで売却した

とあります。従って

・売上高  = 13.5(ポンド/人)×240人= 3240(ポンド)

・粗利益  = 3240-1330  = 1910(ポンド)

・粗利益率= 粗利益/売上高 = 1910÷3240 = 60% >>15%(通常)

となります。18世紀末には、奴隷は1人50ポンドに高騰しました。その理由は

(1)航海での奴隷の死亡率は非常に高かった。

(2)海岸近辺で奴隷を乱獲したため、奴隷の調達コストが上がった。

そのため鉄砲を売って、内陸部から奴隷を調達しました。奴隷を家族単位で所有し、子ども奴隷を産ませました。奴隷を買う必要がなくなるからです。奴隷商人は、解放された黒人の一家を襲い、再び奴隷として売ることもありました。たとえ奴隷であっても、イギリス本国に一歩でも入れば、自由人になれたと言われています。一方イスラム世界にも、スラブ人やゲルマン人の奴隷がいました。しかし奴隷の刑罰は自由人の半分で済みました。7歳未満の奴隷は母親から離して売ることは禁止されていました。

・英国の奴隷船ブル-クス号

奴隷船に積まれた奴隷はガレオン船に丸太のように収納されました。奴隷の男女比は男63%、女37%程度でした。食事はイモ類、ナタマメ、バナナなどを粉状にした家畜の餌でした。35才で商品の価値は半減しました。奴隷船15隻に1隻は反乱がおきました。黒人奴隷に積荷の損害保険をかけ、病死しそうな奴隷は数十名単位で海に投げ込まれました。奴隷要塞間で奴隷の強奪が横行していました。奴隷と船員の船上死亡率は殆ど同じでした。

・奴隷貿易に使われたガレオン船

16世紀の中頃から、スペインではガレオン船という3本~4本マストの大型帆船が使われるようになり、スペインのマニラとメキシコのアカプルコを結ぶガレオン貿易で活躍しました。

・荒廃する西アフリカ諸国

アフリカでは最も儲かる産業が奴隷貿易だったため、伝統的な手工業の発展が廃れてしまいました。住民が連れ去られた後、村落や田畑が荒れ果てました。特に辺境の内陸地方は壊滅し、多くの民族と伝統文化が失われました。売った側と売られた側の民族対立が激しくなり、武力衝突に発展しました。植民地では平和維持のためと称して列強が介入し、支配を強め、キリスト教による完璧な収奪システムを築き上げました。ダホメ-王国では、度重なる奴隷獲得戦争で男性の絶対数が減少し、1.5万人の女性兵士が軍の主力となっていました。彼女らは裸ですが、鉄砲で武装していました。女性兵士は一人当たり50人の奴隷を抱えることが許され、タバコやアルコールが支給されて待遇面は悪くなったようです。1894年にダホメ-王国はフランス軍に敗れて植民地となります。西欧によるアフリカからの奴隷輸出は、ダホメ-のような戦士型小国家を乱立させました。アフリカ原住民は戦争や奴隷狩りから逃れるためにイスラム化していったとも考えられます。

・奴隷が解放された理由

奴隷貿易はイギリスでは1807年、フランスでは1817年、スペインでは1820年に廃止されました。奴隷貿易が廃止された理由は、奴隷が可哀そうだからではなく、奴隷貿易の利益が低下したからです。具体的には

 1)奴隷の卸売り価格が上昇した。

 2)奴隷が生産する農産物の価格が低下した。

奴隷が解放された理由は、奴隷を解放した方が、資本家が利益を得られるからでした。1769年ワットの蒸気機関が発明され、イギリスで産業革命が起こります。機械化により、やがて生産性が飛躍的に向上しました。しかし商品を買う人がおらず、製品在庫が溜まってしまいました。そこで奴隷を解放して労働者にして、稼いだ金で製品を買わせることにしたのです。

アメリカ南部はイギリスに綿花を輸出していたので、イギリスが標榜する自由貿易を支持していました。北部は工業立国を目指していましたが、ヨーロッパに勝ち目はなかったので、保護貿易を望んでいました。貿易形態の利害の対立からアメリカ南北戦争が始まります。アメリカの工業化のために奴隷は開放されたのです。しかし差別は容易にはなくなりませんでした。

9.コーヒ-ハウスによる市民革命

・絶対王政時代の近代文化

1.科学の大いなる発展

科学的な思考法は、教会の教義を合理的な証明で覆すようになりました。ルネサンス時代は、個人の能力を前面に発揮して活躍する実力社会になりました。1628年にジェームズ1世の侍医ハーヴェ(1578-1657)は血液循環説を提唱します。ハーヴェは心臓は血液のヒータ-ではなくポンプであることを明らかにします。 

 ボイル(1626-91) 近代科学の父 アイルランド人貴族

 ニュ-トン(1642-1727) プリンキピア 万有引力で人は地球から落ちない

 リンネ(1707-78) スエ-デン人 植物を統一的に分類した人

 ラヴォアジェ(1743-94) 質量保存の法則 税金を横領して研究費に充てる

 ジェンナ-(1749-1823) 種痘法を開発 他人に注射するかなり怪しい人

2.近代的世界観の確立

経験主義と合理主義の哲学が発展し、科学的かつ世俗的な近代的世界観が形成されました。

・フランシス・ベ-コン(1561-1626) 「新オルガヌム」 4種類の偏見を紹介

 帰納法 観察と実験で得られた個々の事例から、一般的理論を導き出す

・ルネ・デカルト(1596-1650) 「近代哲学の父」 「方法叙説」

 演繹法 前提を立て、そこから論理的に結論を導きだす。

 人間の理性を認識の基礎にして、世界を論理的に把握する

 スピノザ(オランダ人)、ライプニッツ(ドイツ)、パスカル(フランス)

・カンド(1724-1804) ドイツの批判哲学

 認識とは、理性が与えた形式で経験を理解すること。理性の限界を考察、批判

・絶対王政を批判する思想

1.市民階級の急成長

・コーヒ-ハウス 店内では各種の新聞や雑誌の閲覧が可能

・サロン(社交場) 貴族・上流階級の女性が主催

・カフェ(フランス) 市民が政治文化を議論

2.新思想の普及

1)自然法(普遍的ル-ル)

・グロティウス(1583-1645)  「近代自然法の父」  

 三十年戦争の惨禍から国際法の必要性を提案

2)社会契約説

・ホッブズ(1588-1679) 「リバイアサン」(1651)

 ル-ルの必要性から絶対王政を養護した。

・ロック(1632-1704) 「統治二論」

 政府とは市民の財産や幸福を守るために存在すると主張。

・ルソ-(1712-1778) 

 人民主権の国家が理想的だ。今のフランスはおかしい。

3)啓蒙思想

・ヴォルテ-ル(1694~1778) 「哲学書簡」 王権神授説を批判

・モンテスキュ-(1689~1755) 「法の精神」 三権分立を主張

・ディドロ、ダランベ-ルら 「百科全書」 世俗的世界観の形成

・コーヒ-ハウスは近代文明の発祥地

アフリカのコーヒ-はアラビアに伝えられ、イスラム教徒は宗教行事の間に居眠りしないためにコーヒ-を飲みました。どこでも宗教行事は眠くなるのですね。元々コーヒ-ハウスはオスマン帝国のイスタンブ-ルで発展しました。当時イスタンブ-ルの街には600件ものコ-ヒ-ハウスがあったと言われています。イスラム教徒はワインなどのアルコ-ル飲料を飲みませんでした。酔ってアッラーの神を忘れることは許されないからです。このイスラム文化が酒浸りのヨ-ロッパ人を正気にしたのです。

1642年にイギリスで清教徒革命がおこり、絶対王政が倒れました。1652年にはロンドンにもコーヒー・ハウスが開店しました。コ-ヒ-の栽培地はイエメンで、ベネチア経由でロンドンに来ました。コ-ヒ-はアルコ-ル飲料に代わる新しいカフェイン飲料でした。カフェイン飲料という世界商品は世界を全く新しい姿に変えたのです。

1660年の王政復古、1666年のロンドン大火を経て、コ-ヒ-ハウスは1000軒以上に増加し、民衆のたまり場となりました。そこではチョコレ-トかコーヒ-1杯でいつまでもいられました。コ-ヒ-ハウスでは身分の区別なく人々が同席して議論をし、情報交換をしました。アダムスミスは国富論をコ-ヒ-ハウス「ブリティッシュ」で書きました。

コ-ヒ-ハウスは同業者が集まるようになり専門化していきました。まさにコ-ヒ-ハウスから王立協会と科学者(科学技術)、新聞社と出版社(ジャーナリズム)、文学(小説)、政党、演説館(民主主義)、株式会社、保険会社、船会社、銀行(金融)、証券会社、採鉱会社などが一斉に生まれたのです。ロンドンは世界金融の中心地となり、植民地戦争への資金を提供しました。カフェインによって市民国家と科学技術を両輪とする近代文明がイギリスで開花したのです。

・カフェから起きたフランス革命

1726年に小説家のフランソワ・ヴォルテ-ルがイギリスに追放されます。彼はニュ-トンとロックの影響を受け、啓蒙思想家となり、他人の人生、健康、自由、平等を尊重する合理的な考え方を啓蒙します。1750年にフランスのカフェは600軒ありました。ロンドンの喫茶店は言論の自由がありましたが、女人禁制でした。パリの喫茶店は誰でも入れましたが、政府の監視下にありました。1772年にヴォルテ-ルらは百科全書28巻を完成させます。宗教界は合理的で世俗的な世界観に反発しました。1789年にカフェ・ド・フォアで、ネッケル罷免に反発して、弁護士カニ-ユ・デムランが革命を宣言します。フランス王室の借金を国民が負担する矛盾が革命を引きおこします。フランス革命はカフェから起きたのです。

<行きつけのカフェの例>

 カフェ・パルナス    :ルソ-、ディドロ、

 カフェ・プロコ-プ   :ダランベ-ル、ベンジャミン・フランクリン

 カフェ・アングレ    :役者

 カフェ・アレクサンドル :音楽家

 カフェ・デ・ザルム   :軍人

 カフェ・デ・ザグ-グル :売春宿

・茶は貴重品から日常品に変化

お茶が中国から世界に拡散し、アメリカ独立を促すまでの歴史を以下に簡単に示します。

780年 唐の陸羽が『茶経』で茶の栽培方法と飲み方について紹介する。

    茶の塊は通貨として使用された。 茶のタンニン酸には殺菌効果あり

    従来中国は米や粟のビ-ルを飲んでいた。モンゴル人は馬乳酒。

1191年 日本の栄西が茶の健康効果を讃えた。

1610年 オランダ船に初めて茶が積まれた。

1635年 サイモン・ポ-リ-医師(独)が「茶を飲むと死期が早まる」と警告。

1641年 オランダ人医師が茶の健康効果に言及。1日10杯以上飲みなさい。

1660年 この時期、茶100gは10万円、コ-ヒ-100gは2万円もした。

1662年 キャサリン王妃がイギリス王室に茶を飲む習慣を導入した。

1699年 茶6トンの輸入量。100年後には1.1万トンに拡大し、価格は下落した。

1717年 ト-マス・トワイニングがコーヒ-ハウスで女性に茶を出す。

1744年 茶5000トン輸入 税収の10%を占める。

1757年 リッチモンドの乞食らが紅茶を飲んでいた。茶は水の次に安い飲み物。

1773年 ボストン茶会事件。

1776年 アメリカ独立宣言

・カフェインの覚醒作用

カフェインの覚醒機構が解明されたのは割と最近のことです。人が覚醒しているのは、脳の結節乳頭核からヒスタミンが大脳全体に拡散されているからです。人が眠くなるのは、アデノシンが脳の腹側外側視索前野を活性化し、結節乳頭核のヒスタミン放出を抑制するからです。カフェインは、アデノシンが腹側外側視索前野を活性化するのを抑制するので、覚醒作用を引き起こすと考えられています。つまりカフェインは、アデノシンの誘眠作用を妨げるので、大脳を覚醒させるということです。

アデノシンはエネルギ通貨であるATP(アデノシン三リン酸)の一部です。ATPは植物にも動物にもあります。動物では筋肉活動により分解されたATPからアデノシンが生産されます。だから運動した後は眠くなるのです。アデノシンはプリン環に糖(リボ-ス)が結合した構造をしています。プリン環を酸化して酸素を2つ付けたのがキサントシン(xanthosine)です。植物はメチル化変換酵素によって、キサントシンから糖を外し、プリン環に3つのメチル基(CH3)を付加させてカフェインを合成しています。カフェインには他の植物を寄せ付けないアレロパシ-作用があります。またカフェインを含んだ蜜を吸ったハチは覚醒して蜜の在処をよく記憶すると言われています。

メチル化したカフェンは大脳脂質を拡散し易くなります。カフェインはアデノシンと類似しているので、神経細胞のアデノシン受容体A2Aを遮蔽します。するとドーパミン受容体D2Aがアデノシンの抑制を受けなくなるので、覚醒が維持されます(2002年)。カフェインは脱メチル化酵素で代謝されて尿酸になり排出されます。ちなみにヒトは尿酸値が極めて高い動物です。尿酸には抗酸化作用があるので、人は長生きするとの学説があります。

カフェインの摂取量は1日400mgが限界です。致死量は2gです。マグカップ1杯250mlのコーヒ-には、80mg程度のカフェインが入っているので、4杯くらいに制限した方がいいです。喫煙者はカフェインの覚醒作用が効きません。

10.イギリスが経済発展した理由

・ペストによる人口減少で毛織物産業が発展

1348年9月に黒死病(ペスト)がイギリスに上陸します。黒海で貿易をしていたジェノバ商人の毛皮の服に付着したノミがペスト菌を媒介したと言われています。翌年にペストはフランスやロシアにも拡散しました。イギリスの毎年の死亡率は3.5%程度でした。ペストのせいでヨ-ロッパの人口の30%~40%が失われました。イギリスでは特に深刻な人手不足が生じ、農民の賃金は2~3倍に上昇しました。農民は農園から逃げると罰せられましたが、お金が溜まれば、都市に逃げるようになりました。1年間逃げ延びれば、自由の身になることができたからです。

1351年には低賃金の農村労働力の確保と物価統制を目的に、労働者規制法が発布されます。これは「60歳以下の無職の者は、領主の元に戻り以前の条件で就労しなければならない」という法令で、従わない者は投獄されました。1377年の人頭税を機として、1381年にはワットタイラ-の農民一揆がおきます。タイラ-らはロンドンを占領し,国王リチャード2世に農奴制廃止などの要求を認めさせましたが、鎮圧されます。

ペスト流行を契機に農業畜産技術が進歩します。人手不足により耕作地が余ったので、地代が安くなり、食料価格や家畜の飼料が安くなりました。余った耕作地にクロ-バやイガマメを撒いて牧草地にして、牛や羊を飼う人が増えました。農地を牧草地にして休ませると小麦の連作障害を防げることが分かってきました。

農業畜産技術の進歩により、イギリスでは羊毛の品質が向上し、梳毛(そもう)織物(worsted fabric)が開発されました。梳毛糸とは羊毛の短い毛を梳 (す) いて除き、2.5cm以上の長い毛のみを並べて紡いだ糸のことです。梳毛糸で織った毛織物は、従来の紡毛糸より表面がなめらかで、薄手でながら緻密で、弾力と張りがあるのが特徴です。梳毛織物はイギリス初の世界商品になりました。

イギリスは金融と貿易産業が活発になっていき、高賃金を求めて都市人口が増加します。自立農民の中には農地を売って、都市に移住する人も出ました。1500年のロンドンの人口は5万人でしたが、200年後には50万人に増加します。ロンドンからの輸出品の74%は毛織物であり、ロンドンの25%の人が輸出産業に従事していました。1500年の時点でイギリスの都市人口は7%、農業人口は74%でしたが、1800年には、イギリスの都市人口は30%に増え、農業人口は35%に減りました。農民は封建君主に搾取されていましたが、都市化によって農村は人手不足となり、農民の待遇は改善されていきました。農奴制は14世紀末から崩れ始め、16世紀末には完全に崩壊しました。

・国家が国民を搾取した南海泡沫事件

イギリスでは株式会社を使って巧妙に王室の借金を国民に負担させます。1711年に大蔵卿ロバート・ハーレーが南海会社を設立します。ハーレ-はイギリス政府の財政危機を救うため、国債の一部を南海会社に引き受けさせ奴隷貿易による利潤でそれを賄おうとしましたが、会社は振いませんでした。1718年に南海会社が発行した富くじが大成功し、投機ブ-ムが起こりました。1719年、巨額の国債引き受けの見返りに、額面等価の南海会社株を発行し、国債保有者の国債を時価等価の株券と交換させました。例えば南海会社は額面200ポンドの国債を額面100ポンドの株(時価200ポンド)と交換します。時価等価の額面200ポンドの株券を時価400ポンドで市民に売って、差額200ポンドの利益を不当に得ていたのです。1720年6月に南海会社の株価が急騰・暴落し、多くの投資家市民が被害を受けました。王立造幣局長官のニュートンは2万ポンド(1億円)の損失を被りました。ニュ-トンは金持ちだから大丈夫だったのでしょう。同月、政府が株式会社を禁止し、会計監査制度が導入されました。イギリスは失敗から学び、ウォルポ-ル首相は、王室ではなく、議会に国債を管理させることにしました。

・ジョン・ロ-のミシッシッピ計画(フランス)

1715年にルイ14世は30億リ-ブルの負債(国家歳入20年分)を残して逝去します。1694年にジョン・ロ-はロンドンで貴族の娘を巡って決闘し、殺人罪で指名手配となり、アムステルダムに逃亡し、銀行家になります。1716年にジョン・ローはルイ16世の経済ブレ-ンになります。彼はフランスの経済不況の原因は通貨不足にあると考え、不換紙幣を発行させます。1718年に王立銀行は1800万リ-ブルの銀行紙幣を発行します。ローは外国為替銀行を説き伏せてネットワークを作り、海外貿易の決済にその紙幣を使えるようにしました。王立銀行の紙幣は納税も可能であるとして、紙幣の信用を高めました。

1719年に王室はミシシッピ会社を設立します。これはフランス領ルイジアナの都市開発用の会社でした。市民投資家は正貨で株券を購入しました。会社は王立銀行の紙幣を正貨で購入し、保有者の国債を株券と交換して、王室の借金を引き受けました。1720年1月に王立銀行は16億リ-ブルの紙幣を発行しました。紙幣は2年で90倍になりました。ミシシッピ会社の株価は10倍に増加し、市民が株を購入しました。しかし1720年5月に王立銀行で取り付け騒ぎが発生し、ミッシシッピ会社の株価は暴落します。市民投資家が大損害を受けてしまいました。ローは財務長官を辞任し、国外逃亡し、9年後にベネチアで死亡しました。ニクソンが金本位制を手放してブレトンウッズ体制が終わるのは1971年です。ジョン・ローはよく言えば250年も時代に先んじていたことになります。

1744年にフランスはイギリスとインドと新大陸を巡って植民地争奪戦を再開します。1763年のパリ条約では、イギリスが勝利し、フランスは戦費を浪費します。イギリスはフランスからカナダとミシシッピ川以東のルイジアナを獲得します。フランスの財政赤字は40億リ-ブルとなり、ブルボン王朝が崩壊します。1775年にはアメリカ独立革命が起こり、1789年にはフランス革命が起こり、急進派が政権を握ります。1793年に急進派政権は債務者ルイ16世と債権者貴族らを処刑して問題を解決します。

・イギリスのウイスキ-が琥珀色になった訳

日本には日本酒、中国には老酒、フランスにはワイン、ドイツにはビール、ロシアにはウォッカ、そしてイギリスにはウィスキーがあります。現在のウイスキーが誕生したのは、1790年代にイギリス政府が、植民地戦争に必要な資金を得るために、ウイスキーの製造に必要な蒸留器の免許に15倍の税を課したことに由来します。スコットランドのウイスキー業者の一部は、山に入り、泥炭で蒸留した密造酒を作るようになりました。シェリーの空き樽に溜めて、少しずつ売ったのです。スコッチ・ウイスキーは、ピートの煙をしみ込ませたモルト(大麦麦芽)を原料にし、樽で熟成して琥珀色になりました。

・イギリスで石炭の価格が低かった理由

中世までのイギリスの一般的な家屋には煙突がなく、背の低い暖炉で薪や木炭を使って炊事をしていました。煙は天井近くの換気窓から逃がしていました。イギリスの石炭は硫黄分が高いため、臭気が強く、煙突が必要でした。石炭は背の高い暖炉でないと効率よく燃焼しませんでした。従来の家屋では石炭が使えなかったのです。

下図に炭田があるミッドランド地方における木炭と石炭の価格推移のグラフを示します。縦軸は同じ熱量を得るのに必要な燃料の価格を示しています。1540年から1640年までイギリスでは石炭は木炭の半額でした。1640年から1700年にかけて、石炭の価格は変わりませんでしたが、木炭の価格は上昇し石炭の7倍になりました。

毛織物産業の成功により、1550年代以降、ロンドンの人口は100年で5万人から20万人に増え、都市圏は広がり、絶えず家屋が新築されるようになりました。ロンドンでは木材の価格が急騰し、石炭の2倍以上になりました。当時のイギリスの林業では、ほぼ15年周期の萌芽更新が行われていましたが、木材の供給が追いつかず、遠方から購入したので価格が上昇したのです。

1666年9月にロンドン大火事件が生じ、1万3200戸の家屋が燃え落ち、教会や市庁舎などの公共建築も多数が崩壊しました。再発防止のため、ロンドンでは木造家屋の建築が禁じられました。木材価格は石炭の3倍以上高くなりました。新築の際には安価な石炭が使える石とレンガと煙突のある家屋が建てられたのです。拡大した石炭の需要に応えて、精力的に炭鉱が開発されたため、19世紀まで石炭の価格は安定していました。

1570年に23万トンだったイギリスの石炭生産量は、1700年には300万トンに、1800年には1500万トンに達しました。2位のベルギ-は200万トンにすぎませんでした。炭鉱のあるミッドランド地域では石炭はもっと安かったので産業革命は炭田付近の田舎町からはじまりました。バーミンガム鉄山とミッドランド炭田を背景に、製鉄工業が発展しました。

・イギリスで産業革命が起こった理由

産業革命には投資が必要です。それには利子を取って投資を行う資本主義が不可欠です。現代では考えられませんが、カトリック教徒やイスラム教徒は利子を取ることを禁じられていました。カトリック教徒は利子を取ると、協会にキリスト教徒として埋葬して貰えなかったのです。しかし利子を認めたプロテスタントの国々の中でどうして最初にイギリスが産業革命に成功したのかは興味深いところです。

イギリスで産業革命が起こった理由をいくつかあげます。その理由としては、宗教的理由、文化的理由、地下資源や科学技術などの理由、金融的理由、経済的理由など様々な理由が考えられます。

<イギリスで産業革命が起こった理由>

1.カフェイン文化の導入(知的議論と工場労働。他の西欧国はアルコ-ル文化)

2.農業に不向きな土地と気候 (農民は高賃金の工場労働者に転職)

3.プロテスタントの労働倫理 (金融活動や工場労働を奨励) 

4.世俗的で弱い王権  (宗教的な寛容性、新文化の受容性が大)

5.ジェントリの強い発言権  (労働者の確保、綿織物工場の建設)

6.科学と哲学の伝統 (古典力学、経験哲学、古典派経済学は機械技術を発展)

7.豊富な石炭資源 (反射炉、コークス、パドル法による錬鉄の発明)

8.効率的な運河網 (船による木材や資材の運搬が容易)

9.高炉製鉄による大量の鋳鉄砲生産 (強力な軍事国家)

10.高度な機械式時計の製造技術 (時計技術を綿織機製造に応用)

11.奴隷貿易による資本蓄積 (新興企業への積極的な融資)

12.高い都市労働者の賃金 (農奴制の崩壊による都市労働者の増加)

資本市場の成熟度でいえば、当時のオランダもイギリスに後れを取っていませんでした。しかしイギリスでは人件費が高かったので、織物などの生産労働を機械に置き換えると生産費用を低く抑えることができました。またイギリスでは石炭が安かったので、燃費の悪い蒸気機関でも何とか利益を出すことができました。その結果、イギリスは革新技術に投資しても利益を出せるようになり、産業革命が始まったと考えられます。明治時代に人件費が低い日本が紡績産業の機械化に成功したのは、驚くべきことだと言えるでしょう。

・高炉による製鉄技術

機械やレ-ルや蒸気機関車は鉄でできています。イギリスには炭田と鉄山が隣接していたので、産業を支える製鉄技術が発展しました。1709年にデ-ビ-父子が石炭を乾留してコ-クスを得ます。多孔質のコークスは通気性が良いため、高い燃焼温度が得られる利点があります。コ-クスと鉄鉱石を交互に高炉の中に入れて点火し、送風機で空気を供給すると、コークスから発生したCOで加熱された鉄鉱石が還元されて、鉄が溶けだします。小規模の製鉄技術は紀元前からありましたが、イギリスではコ-クスを用いて大型高炉で大量に鉄を生産する技術が発達しました。

製鉄は酸化鉄から酸素と炭素を除去する技術です。還元剤にはCOを用います。木炭とCO2からCOが生じる反応をブードア(boudouard)反応といいます。温度が上がるほどCO2に対するCOの平衡濃度は高くなり、酸化鉄を還元する力が増加します。鉄鉱石に含まれる石英は、石灰石CaCO3を加えて液体のCaSiO3に変えて除去します。鉄の融点は1500℃位ありますが、鉄の中に4%以上の炭素が含まれていると融点が1000℃程度に下がり、液化しやすくなります。炭素が4%以上含まれている鉄は銑鉄(せんてつ)といいます。銑鉄は冷えると固くて脆くなるので、建材には適しません。炭素濃度を減らすと融点が高くなるので、炭素不純物が低く均一な鉄材を作ることは難しい課題でした。1784年にヘンリ-コ-トはパドル法でコークスを用いて銑鉄から錬鉄(れんてつ)を作ることに成功しました。炭素の含有量を0.1%に減らすと錬鉄が得られます。錬鉄は粘り強く剛性が高いので機械や建材に用いることができます。

 日本には鉄鉱石(赤鉄鋼α-Fe2O3)がないので、砂鉄(磁鉄鉱Fe3O4)を用いて、たたら製鉄が行われました。たたらとは炉に空気を送る鞴(ふいご)のことです。磁鉄鉱は安定なので、砂鉄を製錬するのは高い技術が必要でした。

ちなみに鉄の磁性はフェロ磁性ですが、磁鉄鉱やγ-Fe2O3の磁性はフェリ磁性と呼ばれています。鉄鉱石の鉄原子は反強磁性的な配列をしており、原子磁気を相殺するので全体の磁力は小さいです。磁気テ-プやフェライト磁石はフェリ磁性を有しています。

・イギリスの製鉄の歴史

1666年以降イギリスでは、製鉄に木炭を使うと、森林が喪失するので、禁止されました。1709年にアブラハム・デービー父子が石炭を高温乾留してコークスを得ました。コ-クスは野原に石炭を積み上げて粉コークスで覆い、蒸し焼きにして得ました。多孔質コークスにより通気性が改善し、製鉄温度が上昇し、炭素濃度の低い鉄を溶かし易くなりました。

1735年にデービーが高炉にコークスのみを用いて銑鉄(炭素3~4%)を得ました。1766年にクラネージ兄弟が高炉でできた銑鉄を再溶解する反射炉を発明します。反射炉は、石炭の火炎で銑鉄を溶解するため、鉄と炭素が分離できました。1779年にジェームズ・ワットが蒸気機関を改良しました。

1784年英国ヘンリー・コートがパドル法を発明します。反射炉中でコークスにより銑鉄を加熱して、パドルで攪拌しながら空気で銑鉄中の炭素を燃やし、錬鉄を得ました。錬鉄の炭素は0.1%以下です。錬鉄は軟らかく粘りがあり、鍛造が容易な鉄です。イギリスでは錬鉄が建築用構造材や鉄道レール、ボイラー材、造船材など幅広い分野で使用されました。コークスを燃やすためには蒸気機関による送風機が有効でした。パドル法は蒸気機関によって駆動される圧延法と結合し、牧歌的な水車ハンマーを過去のものとしました。パドル法反射炉は1820 年までに 8200 基建造されました。

銑鉄1tの生産に石炭10tを要したので、炭田に近接して製鉄所が設立されました。主要な製鉄業地帯は,バーミンガムを中心とするミッドランド、南ウェールズ、スコットランド南部などでした。1811年にはロンドンにガス街灯がともりました。燃料ガスはコークス生産時に大気中に廃棄していた可燃性ガスを回収して得ました。

・産業革命時代の労働時間(1750年以降)

産業革命時代のイギリスの都市労働者は、1年間に3,500時間以上も働いていました。1日に13時間〜16時間も働かされ、休日は週に1回という状況が一般的でした。現在の日本人の年間労働時間は1,700時間程度ですから、実に当時のイギリスの労働者は2倍も働いていたのです。機械化によって子女の長時間労働が問題になりました。

イギリスの社会改革家ロバート・オウエンは「Eight hours labour, Eight hours recreation, Eight hours rest」のスローガンを掲げ、8時間労働を求めました。そして1847年の工場法改正で、ようやく若年労働者と女性労働者に対する10時間労働の制限が実現しました。1919年の国際労働機関の第1回総会でようやく「1日8時間・週48時間」が国際的労働基準として確立しました。日本では1947年施行の労働基準法で8時間労働が規定されました。

オウエンは空想的社会主義者と評価されていますが、人類愛に燃えた素晴らしい人であったことは間違いないようです。ロバート・オウエンのお墓にはこう書かれています。「ロバート・オウエンは博愛主義を胸に抱いて、厳正な労務管理を心掛け労働条件の改善に取り組み、児童労働の廃止や児童教育の導入を試み、労働紙幣を発行、協同村を建設して公正な経済秩序の樹立を生涯を賭けて目指した。協同組合と労働組合運動の指導者として勇名を馳せイギリス社会主義の歴史に一時代を築いた英雄は、教育の理念と協同の精神を現代に残した」

・イギリスはアヘンを密輸して茶を得た

1780年代イギリス国内で空前の紅茶ブームが起こり、イギリスは清から大量に茶を輸入するようになりました。アメリカ独立戦争により、イギリスは植民地を失います。イギリスの綿製品は清で売れず大幅な貿易赤字を出していました。イギリスは、清に流出した銀を回収しようと三角貿易を開始したのです。

イギリスは植民地のインドで生産したアヘンを密貿易で清へ輸出しました。清はアヘンの代金としてインドへ銀を支払い、インドはその銀でイギリスの綿織物を買わされました。産業革命でインドは1820年から綿織物の輸入国になりました。1838年にはアヘンの量が清の歳出の38%を占めるようになりました。清はお茶で支払うことができなくなり、清の銀が流出しました。これによって清国の物価は2倍に上昇して民衆の生活が苦しくなりました。林則徐らが無交渉で密輸アヘンを没収廃棄したため、イギリスは大損害を被ります。イギリスは清国に交渉を求めましたが、現地の役人は賄賂を貪るだけで上層部には全く連絡しませんでした。それどころか清国軍はイギリス商人や領事のチャールズ・エリオットの引き渡しを要求、処刑することを示唆します。窮地に陥ったエリオットはイギリス母国に艦隊派遣を要請し、1840年にアヘン戦争が勃発します。ユダヤ人のマセソン商会がロビ-活動をしたために、イギリス議会500議席はたった9票差で宣戦布告を決断します。清は戦費調達や賠償金(2.1億両)支払いのために増税したのを契機に、民衆は反発し、太平天国の乱が起こりました。

・世界のGDPシェアの歴史的推移

1840年のアヘン戦争後、中国のGDPは急落しています。

・日本の一人当たりのGDPの推移

・一人当たりのGDPの歴史的推移

国内総生産量(GDP)の推移を見れば、イタリア→オランダ→英国→米国の順に台頭していることが分かります。

・古典経済学の発展

重商主義 コルベ-ル(1619-1683) ルイ14世の財務総監

 国家がお金を投資して、輸出産業を育てよ

重農主義 ケネ-(1694-1774)「経済表」 

 富の源泉は農業生産にあり。政府は経済に関与するな。

古典派経済学 

・アダム・スミス(1723-1790)「経済学の父」「諸国民の富」

 景気は全て神の見えざる手で自動調節されている。

・リカ-ド(1772-1823) 古典派経済学を確立

・マルサス「人口論」

・産業革命の影響

1.資本主義体制の確立

工場・機械・道具・材料を持っている産業資本家が台頭し、労働者を雇って商品を生産しました。イギリスは「世界の工場」となりましたが、科学技術は後発国に模倣されて、イギリスの貿易赤字は解消しませんでした。金融と奴隷による鉱山開発と商品作物栽培、三角貿易とアヘン貿易による搾取で赤字を補填しました。王室救済のための株や紙幣による詐欺行為で自国民に被害を与えました。

2.問題の発生

1)資本家と労働者の対立

2)都市への人口集中 (働き場所を求めて) 農村の過疎化

マンテェスタ-(綿工業)、バーミンガム(製鉄、機械)、リバプ-ル(外港)

3)労働問題

 女性・子供の労働(機械のSWを押すだけ) 男性労働者の給料が安くなる

 機械打ちこわし運動 ラダイト運動(1811) 失業した手工業者の暴動が発生

3.各国の産業革命

・ベルギ-産業革命(1830) 繊維、製鉄

・フランス産業革命(1830) 絹織物、資本の蓄積が遅い

・ドイツ産業革命(1840)  重化学工業

・アメリカ産業革命(1830) 労働力不足 南北戦争で奴隷解放

・ロシア産業革命(1861以降)  資金不足 フランス資本を導入(1890)

・日本産業革命(1870以降)  明治政府の殖産興業政策 

 日清戦争後に綿織物工業、日露戦争後に重工業が発展

11.まとめ

・大航海時代の欧州の経済発展の過程

1)自国にない高価な希少品を欲しがる。 金銀、香辛料、砂糖、茶など

2)ヨーロッパでは内戦が続いていた。 → 鉄砲や鉄器が発達、慢性的財政難

3)地中海貿易で資金を貯めた。  → 金融力の高いジェノバ商人の育成

4)遠洋航海ができる帆船を造る。← オスマン帝国による地中海からの追出し

5)造船技士と航海士を養い雇う。 コンパス、高度計、時計、世界地図の開発

6)海路を開拓し、植民地に港を建設する。 船の維持修理と水の供給をする港

7)船で出かけ他国を侵略して金銀を略奪し、資本を蓄積する。各地の銀山開発

8)軍事力で奴隷を入手して、植民地に運ぶ。 奴隷狩りと奴隷船

9)宗教力で先住民や奴隷に商品作物を栽培させる。東インド会社の植民地経営

10)他国を攻撃して奪う。自国の船や港や植民地を守る。大砲の開発、傭兵雇用

11)植民地から自国に商品作物を運ぶ。 大型ガリオン船の開発

12)自国の労働者に商品作物を加工させて付加価値をつける。 産業革命

13)加工品を自国の労働者に消費させる。 市場開拓、労働者雇用促進

14)加工品を他国に輸出して、資本を蓄積する。インドへの綿織物やアヘン輸出

15)資本を他国に融資して利益を得る。 金融によるグロ-バル経済支配の確立

・数々の幸運な出来事

・王室が宗教内戦で慢性的財政難にあり、常に金銀を欲していた。

・キリスト教の教皇が異民族への残虐な支配を正当化した。手荒な海賊文化。

 侵略者や宣教師は異民族からの略奪を平気でできた。極めて低い人権意識。

・北欧人らの森林資源と高い造船技術を利用できた。

・コロンブスは『東方見聞録』を読んで西方航海を志した。

 マルコポ-ロが獄中で話したことを獄友が書き留めたのが『東方見聞録』。 マルコポーロは中国で聞いた黄金の国日本に関する噂話を話しただけ。

・新大陸が見つかり、そこに金銀財宝があった。

・アフリカの民族意識が低く、同胞民族を奴隷にして売った。

・天然痘に助けられて、先住民を征服できた。

・宗教革命が起こり、利子徴収を認めるプロテスタントが台頭した。  

・オランダ、イギリスは産業振興に励み、政教分離により近代化を成し遂げた。

・コーヒ-ハウスの新興で、科学技術と近代思想が発達した。

・ペストによる人口減少で自立農民が増え、羊毛産業が発達した。

・イスラム帝国は政教一致の多民族国家で、利子徴収を禁じた。

 産業資本が育たず、封建領主が既得権益を独占し、民主化を弾圧した。

・グロ-バル経済社会が実現した理由

グロ-バル経済社会は、

(1)物々交換から貨幣経済への経済革命(資本蓄積)

(2)封建社会から市民社会への社会革命(市民革命)

(3)農商産業から商工産業への技術革命(科学革命)

を経て、実現された。

・封建社会は保守的で広域的な交易を制限ようとする。

・宗教社会は利子で利益を得ることを禁じ、産業を阻害する。

・市民社会は自由かつ進歩的で広域的な交易を発展させる。

・実用性、効率性、安全性を追求しても、グロ-バル経済社会に移行しない。

・自国にはない斬新な体験を与える世界商品への欲求が、グロ-バル経済社会の実現に寄与した。

・今のグロ-バル経済社会は過剰消費社会である。

・過剰消費社会が循環型社会に移行するにはどのような革命が必要だろうか?

・対ウイルス社会(=人同士が接触しない社会)は過剰消費を減らすだろうか?

・ボトルネック効果で人類の好奇心が増強

 7.4万年、前スマトラ島トバ湖の火山が大噴火(直径100km)し寒冷化しました。地球の気温は5℃低下し、ホモ・エレクトゥスなど全人類の60%が絶滅したと言われています。南アフリカ南端に追い詰められた人類の中で、好奇心のある人たちは、海岸のム-ル貝を食べて生き延びました。そのとき現世人類は数千人になり、ボトルネック効果で子孫の遺伝子の多様性が激減しました。人類は好奇心が強く、食性や社会の変化に適応できる人が多くを占めるようになったと考えられています。

ボトルネック効果の典型例:アメリカ先住民の血液型が殆どO型なのは、氷期にベーリング地峡を横断したごく少数の家族にO型の者が多かったから。

<好奇心>とは、新しい物をもっとよく知りたいと思う感情

・自動楽器が複雑模様を織る織機に進化

 850年イスラムの玩具設計者バヌ・ムーサのからくりの書に「ひとりでに鳴る楽器」があります。歯のついた樽が回転すると、レバ-が動き、オルガンのパイプを開閉して自動演奏するというものです。これは人類初のプログラム可能な自動演奏装置でした。この時、初めてハードウエアとソフトウエアが分離したと言われています。その後、オルガンやオーケストリオンを自動演奏させる様々な楽器が開発されました。1745年ジャック・ド・ヴォーカンソン(仏)が紙に穴を空け情報を記録する織機を発明しました。1801年にジョゼフ・マリー・ジャカールがこれを改良し、パンチカードで複雑な模様を織り込むジャカード織機を発明しました。音楽と産業革命は結びついています。

・古代人の気晴らし

生存には必要ありませんが、芸術や遊戯は古くから存在していました。南西ドイツではハゲワシの骨に穴を開けた骨笛が3.5万年前の地層から発掘されています。人工的な音階は祖先に新しい体験を与えたと思われます。1924年には2.5万年前の陶器の人形「チェコのビ-ナス」が発見されました。陶芸は今でも多くの人を魅了しています。モヘンジョダロの遺跡から現代と同じサイコロが見つかっています。テ-ベでは、20スクエアというボ-ドゲ-ムが行われていました。ボードゲームでは、同じル-ルでも、毎回異なる新しい展開を体験できます。斬新な体験はいつの時代でも私たちを探求に駆り立てる原動力となってきたのです。

・歴史の原動力は無知と好奇心

大航海時代の貴族たちは、香辛料には優れた医薬効果があると信じていました。彼らは東洋の神秘を体験させてくれる香辛料に神秘的な好奇心を抱いていました。近世には合理的精神はありませんでした。無知と好奇心によりヨ-ロッパ人は香辛料を求め、東洋の国々に無謀で残虐な遠征をしたのです。銀や香辛料がもたらした富は貿易を活発化し、世界を一つのシステムにしていきました。

歴史には様々の幸運な偶然がありますが、その反応は経済原則に従って必然的に展開していきました。新たな体験を与える世界商品の渇望と供給活動が世界の国々を結び付け、近代世界を形成してきました。そして私たちが何気なく気晴らしに飲む飲み物が世界商品として、未来の世界を形成していくのです。現代では新たな情報という商品が、現実世界だけでなく電脳世界にも広がり、世界の人々を結び付け、これまでにないグロ-バルな社会を形成しています。そしてグロ-バル世界には解決すべき様々な課題が残されています。

みなさまが新しい体験に恵まれることを祈念し、発表を終わります。長時間のご清聴ありがとうございました。

参考文献

以上

3.西日本のカルデラ大噴火

1500万年前に高温のフィリピン海プレ-トは、南下する西日本の下に沈み込み、地下に大量のマグマを貯蓄し始めました。フィリピン海プレ-トの沈み込み角度は小さいので、比較的浅い領域にマグマが発生しました。フィリピン海プレ-トと接する、静岡、紀伊半島、四国南岸、九州南岸部の地下には大規模なマグマ溜まり(カルデラ)が形成され、400万年前に大規模なカルデラ噴火を生じました。

紀伊半島のカルデラ大噴火では火山灰が2000mも堆積し、世界の気温が10℃も低下したと言われています。現在の紀伊半島には巨石と温泉が環状に分布していますが、これはカルデラ噴火跡を示しています。溶岩のカルデラが固まって地下に巨大な花崗岩(60km幅、20km厚)が形成されました。花崗岩の密度は玄武岩プレ-トの密度より小さいので、プレ-トの沈み込みにより花崗岩は10kmも隆起して、火山帯のない西日本の南部を山岳地帯に変えました。

2.火山島の連続衝突

太平洋プレ-トはフィリピン海プレ-トの下に沈み込んでいます。沈み込むときに高温高圧により海水を吸った太平洋プレ-トから水が絞り出され、マントルの融点を低下させて、マグマを発生させ、上昇したマグマが火山噴火を起こします。そのためプレ-ト境界線に沿ってフィリピン海プレ-ト上に火山列島が形成されていました。2500万年前にプレ-ト境界の端は現在の沖縄周辺にあり、火山列島は東西方向に並んでいました。

太平洋プレ-トは重く沈み込みが激しいので、マントル対流によってフィリピン海プレ-ト縁を高温に加熱し、引っ張りました。通常沈み込むプレ-トの温度は400℃程度ですが、このとき生成したフィリピン海プレ-トの温度は1000℃もの高温になっていたと考えられています。ちなみに400℃以上になったプレ-トの部分は柔軟になり、地震を起こし難くなります。

2500~1500万年前にかけて太平洋プレ-トとフィリピン海プレ-トの境界線は後退し北東方向に移動しました。1500万年前にプレ-ト境界の移動は止まり、境界線の端は現在の伊豆地方にありました。移動が停止したのは、日本海溝と伊豆小笠原海溝が直線的になり安定したからと思われます。1500万年前に1000℃の高温になったフィリピン海プレ-トが北から北西方向に向きを変え、西日本の地下に沈み込み始めました。その理由はよくわかっていません。

 フィリピン海プレ-トの移動方向とプレ-ト上の火山島の配列方向が一致したために、現在の伊豆地方に火山島が連続衝突して東西日本の間が埋まりました。プレ-ト境界は変形し伊豆地方に食い込み、頂点部の火山活動が活発になり富士山が形成されました。甲府から富士山の方を眺めると、様々な山地が見えますが、それらは衝突した火山島の名残です。火山島の衝突により櫛形山系、御坂山系が生じ、500万年前には丹沢山系、伊豆半島が衝突付加しました。これらは南の火山島であり、丹沢山にはかつて海底にあったことを示す枕状溶岩やサンゴの化石が見られます。丹沢山系の高山から土砂が流れ込み、50万年前に関東平野が形成されました。伊豆半島の両側の相模湾と駿河湾は海溝が形成され、湾内では金目鯛などの深海魚が獲れます。

1.大陸縁の分裂と移動

3000万年前のユーラシア大陸の沿岸部には草原が広がっており。パラケラテリウムなどの大型哺乳類やマチカネワニなどの爬虫類が生息していました。太平洋プレ-トの西端部はユーラシア大陸の縁で深く沈み込んでいました。太平洋プレ-トの西端部は1.3億年と古く、厚さは100kmと冷たく重かったので、深く沈み込んでいたと考えられます。大陸縁の地下では、プレ-トによって押しのけられた深部の高温のマントル(カンラン岩)が上昇し、断面において時計回りにマントルの対流が生じたと考えられます。

 

2017年にコンピュ-タシミュレ-ションによって、対流により浅部のマントルは沈み込むプレ-トを逆方向に押し戻し、プレ-トが沈み込む海溝は徐々に大陸から離れて行くことが示唆されました。これを海溝の自発的後退といいます。ちなみに2018年にはプレ-トが褶曲して沈み込む海溝では、プレ-トに含まれる二酸化炭素の影響で褶曲部付近のプレ-ト直下のマントルが融解し摩擦が低減して、沈み込みやすくなっていることが報告されています。

大陸の縁はマントル対流により引っ張られて、亀裂が生じ、拡大したと考えられます。2500万年前に海水がこの巨大な裂け目に入り込み、日本列島の原型が生まれました。高温のマントルの上昇により、日本海の海底プレ-トは900℃以上の高温になっていたと考えられています。こうした現象は、現在の小笠原諸島の火山島付近の地下において、地震波速度の小さいマグマ領域が観測され、その地域の溶岩に高濃度のZrが含まれており、Hfなどの存在比からプレ-ト由来のジルコン(融点900℃以上)が、沈み込み時の高温で溶出してマグマに混入したことが解明されています(2018年)。

引き延ばされた日本海の海底には大陸と平行に多くの亀裂が入り、枕状溶岩を産出しました。日本海の海底火山の噴火により火山灰が大量に堆積しました。青森県の仏ケ浦では白い火山灰からできた地層が浸食を受け、奇妙な岩石が立ち並ぶ絶景が見られます。富山県の沿岸部には水深1000mの深海が残っており、深海生物のホタルイカがとれます。亀裂には金を溶かした熱水が入り込み、佐渡には金鉱床が出現しました。大陸から引き剥がされたために、日本海側には絶壁の景勝地が数多く形成されています。日本海の中央にある大和塊は大陸の一部が移動してできた海底台地です。

1900~1600万年前にかけて日本列島の原型は大陸から離れ、現在の位置に移動しました。西日本は陸地でしたが、東日本の殆どは海底下にありました。西日本はフィリピン海プレ-トによって引っ張られ、東日本は太平洋プレ-トによって引っ張られたために、両者は観音扉を開くように少し回転しながら移動しました。1500万年より古い溶岩の磁化方向を調べると、東日本と西日本で地磁気の方向がずれていることが、その回転移動の証拠となっています。飛騨地帯の片麻岩は大陸で形成されたものですが、同じものが韓国でも見られます。飛騨川の飛水峡のチャ-ト岩中には、1億年前の放散虫の化石が見られますが、これと全く同じ化石を有するチャ-ト岩がロシアのハバロフスクで見られます。これらは日本列島が大陸の一部であった証拠であると考えられています。

日本列島の誕生の物語

2017年7月に放送されたNHKの番組「GEO JAPANグレ-トネ-チャ―」の再放送で、日本列島誕生の物語が紹介されました。大陸や島は海洋底のプレ-トの運動によって形成されます。日本列島はいつ頃どのようにして形成されたのでしょうか?日本列島の形成過程は長い間謎に包まれていました。近年の研究調査により、日本列島は4つの稀有な地質学的事件により誕生したことが解明されつつあります。

日本列島の原型は、今から3000万年前に太平洋プレ-トの運動によってユーラシア大陸の縁が裂けて、裂け目が拡大して生じ、1500万年前に現在の位置に移動しました。東日本と西日本になる部分は別々にやや回転しながら移動しました。当時、東日本の殆どは海面下にあり、西日本は山がなく乾燥したステップ平原でした。通常大陸が裂ける場合は、亀裂は中央部で生じます。なぜなら大陸に覆われたマントル部は放熱し難いので、大陸の中央部が高温になり、マントルで高温のプル-ム上昇が発生しやすいからです。大陸の縁が裂けたのは、太平洋プレ-トが最大のプレ-トで、大陸の縁が西端に位置していたからだと考えられています。

次に引き延ばされたフィリピン海プレ-トの影響で、太平洋側の各地に巨大なカルデラ噴火が起こり、西日本に山地が形成されました。さらにフィリピン海プレ-トの運動方向が北から北西に変化し、太平洋プレ-トの沈み込み帯が大陸方向に移動して、東日本は東西に圧縮されて隆起し、奥羽山脈や北アルプスなどが形成されました。同時に東日本と西日本の間に伊豆小笠原の火山島が次々と同一地点で衝突し、関東平野が出現し、東日本と西日本が合体して日本列島が誕生したのです。

 大陸から分裂したときの亀裂は絶壁となり、日本海側の切り立った海岸にその面影が残っています。亀裂には金の鉱床が形成され、佐渡の金鉱となっています。日本海沿岸部に深い亀裂が残ったため、富山県沿岸部では深海生物であるホタルイカが獲れます。紀伊半島には火山がありませんが、カルデラ噴火口跡に沿って花崗岩質の巨岩や温泉が環状に点在しています。巨石は神社で信仰の対象になっています。丹沢山地や伊豆半島は、火山島の連続衝突により供給され、富士山が誕生し、高山の風化や河川による浸食作用で関東平野が形成され、広大な稲作地帯となりました。伊豆の相模湾や駿河湾には食い込んだ海溝があり、金目鯛などの美味な深海魚が生息しています。東西圧縮により隆起した東日本の奥羽山脈や南北アルプス山脈は、温帯地域としてトップクラスの降水量をもたらしました。北海道には日高山脈が形成されました。急な清流には、アユなど川底の石についた苔を食べる魚が生息しています。急流の軟水によって昆布の出汁は風味を増します。日本の位置と複雑な地形が、四季、絶景、温泉、豊かな水と生態系を生み出し、日本の和食文化を生み出しました。プレ-ト運動により、日本人は数々の災害を受ける一方で、豊かな自然の恵みを享受できるようになったのです。

アイアンロード2~知られざる文明の道~

日本に鉄製品が入ってきたのは弥生時代でした。弥生時代中期の終わり頃に東アジアは寒冷化して朝鮮半島は不作でした。温暖だった北九州には広大な水田が開発されました。倭人は、鉄斧で作った丸木舟で朝鮮半島に渡り、稲籾と交換に鉄器を得ていました。朝鮮半島付近の島には、赤い弥生土器が出土していることから、日本人街があったと推定されています。
長崎県壱岐市のカラカミ遺跡から数多くの鉄器が出土しています。その80%は工具でした。日本の弥生人は、大陸人のように鉄を武器や農耕具に使わずに、木や石を加工する工具として使用していたのです。弥生時代から日本はものづくり大国だったようです。
鳥取市の青谷上寺地遺跡は「地下の弥生博物館」と呼ばれています。湿った土が遺跡を酸素から遮断していたために400点以上の鉄器が錆びずに出土しているからです。弥生人は鉄を研磨して様々の工具に加工し、高さ10mもの柱に木組み用の角穴を開け、物見櫓を建造しました。あるいは花弁高坏(たかつき)などの繊細な木製品を作っていました。
鉄斧で板材を加工し、長さ15mの丸木舟の波除け板に用いました。造船技術の進歩により、朝鮮半島や日本沿岸都市間の交易ネットワークが形成されました。
九州の唐津に輸入された鉄は鳥取や石川県の小松に持ち込まれました。小松では鉄器で緑色の碧玉石を採掘して、鳥取で碧玉石を管玉(くだたま)に加工して、ネックレスを作製し、唐津に販売されていました。当時鳥取は「弥生の王国」であり、日本の文明の原動力はアクセサリー作りだったのです。これも日本は、民族争いとは無縁で、稲作栽培ができる恵まれた環境にあったからなのでしょう。

アイアンロード1~知られざる文明の道~

4月26日14時30分にNHK・Eテレでアイアンロード~知られざる文明の道~後編「激闘の東アジアそして鉄は日本へ」が放映されました。愛媛大学の村上恭通(やすみち)教授と笹田朋孝准教授らが中央アジアやモンゴルの遺跡調査で製鉄炉と鉄器を発見し、匈奴と漢の争いに鉄製武器が与えた影響を解説しました。
製鉄法は、紀元前12世紀にヒッタイト王国が滅亡した後、紀元前8世紀頃に中央アジアの遊牧民スキタイに受け継がれていきます。遊牧民にとって鉄ナイフは肉を割き毛皮を剥ぐのに有用です。
紀元前200年に匈奴(モンゴル)の冒頓(ぼくとつ)が白登山の戦いで漢の劉邦に勝利します。劉邦は匈奴の策略にかかり周囲を包囲され、軍師陳平が冒頓の妻に賄賂を送り、何とか脱出しますが、戦いに負け貢ぎ物を送ることになります。紀元前133年には漢の武帝が反撃して、屈辱を晴らします。
文字を持たない匈奴が強かったのは、匈奴の馬術と製鉄技術にありました。匈奴は地下式製鉄炉をつかって高度な鉄製武器を生産していました。匈奴の矢尻を再現すると、それは8mの距離から、鎧に見立てた厚さ3mmの銅板と羊のあばら肉を貫通する威力があることがわかりました。2段式矢尻の三枚の突起は対称に加工され、高い貫通力と与傷範囲を有していました。
武帝の時代の遺跡から、高さ4mの高炉と小型の炒鋼炉が見つかっています。1.4トンもの鉄製橋脚が発掘されています。高炉の鉄は炭素成分がおおいので、武器にするには脆弱でした。炒鋼炉で1200℃で内部の炭素を酸化させて排出し、強靭な鉄を作る技術が開発されました。再現実験では鉄鉱石80kgと木炭200kgから30kgの鉄が得られました。上側から空気を供給し温度を保つために少しづつ鉄鉱石を炉に加えます。
鉄は牛耕用の鍬に用いられ、漢の堅い大地を10倍速く耕起できました。鉄官という役所の木簡記録には、鉄製鍬を普及させるように書かれています。漢は食糧の増産に成功し、大型の鉄剣や鉄戟を大量につくり、軍事力を強化してゆきました。
匈奴の遺跡からは銅鏡などの漢製品が出土しています。戦争もありましたが、殆どの時間は匈奴と漢は交易をして、お互いに必要なものを得ていたのです。

ヒトの大脳はどうして大きいのか?

焼き芋は大量のグルコ-スを脳に供給したと考えられます。ヒトの脳は大量のグルコ-スからニュ-ロンを守るために、グリア細胞を増やさなければならなかったのです。つまり焼き芋によって、ヒトの大脳は大きくなったと考えられます。

加熱により食物の消化が良くなったので、ヒトの腸の長さも短くなり、体型がスリムになり、歩き方も洗練されてきたでしょう。広域を移動して、果実や獲物を取ることもできるようになったでしょう。グルコ-スは肝臓だけでなく皮下脂肪として蓄えられるようになったので、体毛が減りました。暑い中でも歩けるように、汗腺(エポクリン腺)を発達させたと考えられます。

ヒトの脳は体重の2%の重量しかありませんが、25%のエネルギを消費しています。脳のエネルギ消費量の90%は、グリア細胞ではなく、ニュ-ロンが消費しています。筋肉は絶えず分解されて脂肪として肝臓に蓄えられ、肝臓は絶えず脂肪を分解しグルコ-スを脳に送っています。血糖値を抑制するために大量のインスリンが放出されます。インスリンは成長ホルモンなのでグリア細胞が増殖します。グリア細胞が増殖するとニュ-ロンの接続数や電気伝達速度が増大し、エネルギ消費量が増えます。人間のエネルギの半分は肝臓と脳で消費されています。

今回、ヒトの本質が焼き芋を食べるサルであることを説明しました。驚くべきことではありますが、分かってしまうと当たり前のことかもしれません。森林を焼き尽くし、石油を消費するのは、人間の本性と関わりがあることなのですね。

ヒトの大脳はいつ大きくなったのか?

700~100万年前の猿人は、森林やサバンナで昆虫、果物、植物の根、小動物の肉などを採取し食べていたと考えられています。猿人は、顎が大きく、ガニ股でぎこちなく歩く印象があります。肉食動物に狙われてもさほど早く走れなかったでしょう。お互いに助け合って生き延びてきたのだと思います。

200~20万年前になると、原人が出現し、体型も寸胴型からスリム型になり、さっそうと歩く印象があります。顎や歯が小さくなります。草食動物を追跡し、肉食動物に武器や火で対抗できたと思われます。200~150万年前の50万年間に脳容積は400ccから900ccに増大します。ヒトの大脳は、食生活が変わることで、大きくなったのではないかと考えられます。

NHKの番組では、原人は石器を使って動物の遺体の肉や骨の髄を食べたので、脳が大きくなったと放映されていました。それならば、肉食動物の脳はどうして大きくならないのかという疑問が残ります。また直立歩行をして手で道具を作るようになったから大脳が大きくなったと説明されています。しかし進化論的には、大脳が大きくなったから、ヒトは道具を作り、言語を話すようになったと考える方が自然です。大脳の肥大化の原因は未だによく分かっていません。しかし近年、農学博士の林俊郎氏(1949年生)は、糖がヒトの大脳の肥大化を促進したのではないかと考えています。

プライス博士の進化の方程式

私たちが持続的に生活していくには、様々な生物資源の管理と生態系の保護が必要です。生態系を豊かにしたのは、永い生物の進化の歴史です。生態系を理解するには進化の理解が欠かせません。ところで進化とは、どんなプロセスでしょうか?

進化は、変異、遺伝、選択の3つの過程によって成立しています。生物は、限られた食料と配偶者をめぐって生存競争をしています。遺伝子の突然変異によって、生存と繁殖に有利になり、適応力を高めた固体は、生存競争に勝って、多くの子孫を残します。その子孫は親の遺伝子を受け継ぎ、適応力の高い固体となります。

進化とは、適応力の高い固体に生じた遺伝子の変異が蓄積して、新たな種を生成することです。自然環境が適応力の高い生物の生存率や繁殖率を高めること自然選択といいます。生物が新しい形質を獲得していく機構を表したのが進化の方程式です。形質と言うのは、体長、眼の色、骨格、葉の形など、生物の色々な特徴のことです。

進化の方程式には色々ありますが、その中で有名なプライスの共分散方程式を紹介します。ジョ-ジ・プライス博士は生物群の世代交代による形質zの変化に関する共分散方程式

を発見しました。ここでE(w)は平均適応度、∆E(z)は形質の平均的な変化量、Cov(w,z)は適応度と形質の共分散、E(w∆z)は遺伝する形質変化を表しています。zは形質を何らかの形で数値化した変数です。この式は、形質の変化は形質に働く選択項と形質変化の遺伝項の和で書けることを示しています。変異は一定の割合で生じると仮定されています。以下に記号の定義を記します。

ここでwiは固体iの適応度、ziは固体iの形質zの値、piは固体iが形質ziを取る確率を示しています。さてプライスの共分散方程式を導出しましょう。形質の平均的な変化量∆E(z)は

と書けます。適応度は子孫を残せる率に係る数値ですから、個体iの次世代の形質z’iを持つ確率p’i

と考えられます。なぜならそれは前の世代の形質zを持つ確率piが適応度wiだけ増えるからです。E(w)で除することでp’iの確率保存

が成り立っています。p’iを上式に代入すると、 E(z)=0 として、

が得られます。Cov(w,z)は世代交代による適応度の変化による選択的な形質変化量、E(w∆z)は形質変化Δzが適応度wによって受け継がれる遺伝的な形質変化量を表しています。
上式の第二項を無視し、z=wとすると、

となり、平均適応度の変化∆E(w)は常に正となることが分かります。これは自然選択の第一法則と呼ばれています。そのためプライス方程式の第一項は自然選択項と呼ばれています。プライス方程式は、進化の基本方程式と呼ばれ、自然選択説に遺伝の効果を取り入れた特徴があります。この法則は進化学や生態学だけでなく生物資源管理にも適用できそうです。

 ダーウィンは自然選択による進化論(1859年)の提唱者ですが、進化を論じる際に遺伝のことは全く考えていませんでした。遺伝学の祖メンデルは、30歳で物理化学を学ぶためにウィ-ンに留学し、気体反応の法則で有名なゲイリュサックや分子説で有名なアボガドロに会っています。そこで彼は、酸素ガスは2つの酸素原子が結合した分子であることなどを学びました。メンデルの法則(1865年)はAbといった2つの遺伝的要素で一つの形質を表現しています。このように遺伝学は分子説の影響を受けたと考えられています。

社会的ジレンマを解決する方程式?

最近、テレビ番組では、地球温暖化の問題がよく取り上げられています。一般に地球温暖化などの環境問題や公共財の供給問題など、社会的ジレンマを含む問題が解決できないのは、全体にとって有益であっても、個人にとって不利益な行動は実現しにくいからです。しかし全体社会の中の小集団の支持者や利益を分析することで、政策を社会全体に浸透できる可能性があります。近年、社会的な政策は、個別地域に不利益があっても、全体的な政策支持の傾向があれば、実現可能かもしれないと考えられるようになりました。全体的な政策支持の傾向とは何でしょうか?具体的な数理モデルで考えてみましょう。

が得られます。ここでCovは小集団の人数niで重みづけた共分散です。〈xi 〉平均は小集団の人数niで重みづけた平均です。つまり共分散が正で、利得差を凌駕すれば、全体の政策Aの利得は政策Bより大きくなることが示されます。つまり法律や道徳的圧力がなくても、人々が徐々に政策Aを支持する可能性があります。但し小集団間でxiやuiのばらつきがある程度以上ないと、政策の誘導は難しくなる、というところが面白いですね。

プライス博士(George R. Price)は、無神論者で理論的に利他行動の可能性を追求してきたのですが、晩年はキリスト教に帰依して、ホ-ムレスに自分の財産を分け与えるなど利他行動を実践しました。1970年に進化生物学の基本方程式を発見し、1975年53歳のときにうつ病で自殺をしてしまいます。理由はお金がなくなってホームレスを助けることができなくなったから。追悼式に参列したのは、ビル・ハミルトン博士とジョン・メイナード=スミス博士と数人のホ-ムレスだけでした。オレン・ハ-マン教授が「THE PRICE OF ALTRUISM」(利他主義の対価)というプライス博士の伝記を書いています。最後に公式の証明を書いておきましょう。

最初に陸に上がった魚は何でしょうか?

それはイクチオステガ(Ichthyostega)だと言われています。イクチオステガは、約3.7億万年前(デボン紀最末期)に生息していた原始的四肢を持った魚です。Stegosは肋骨の覆いの意味です。脊椎動物が上陸するためには強い肋骨が必要だったのです。イクチオステガの化石はグリーンランドで発見されました。但し当時のグリーンランドは、赤道直下付近に位置していました。

体長は約1~1.5m。イクチオステガは四肢を使って移動し、尾でバランスを取っていました。少なくとも頭部を水の外に出すための強い前肢を持ち、頑丈な胸郭と背骨は日光浴の助けとなりました。幼魚時代には、優れた運動性により、水中の捕食者から陸上に逃れることができたと思われます。頑丈さゆえに体が重すぎること、尾に肉鰭類のような鰭を持っていること、後肢の先端には7本もの指があることなどから、殆どの時間を水中で過ごしていたと考えられています。3.5億年前の石炭紀前期に生息していたペデルペスが陸上を自由に移動できた最古の四肢動物だと言われています。

スクレロケファルスは、最初に海から陸に上がった開拓者「イクチオステガ」の直系の子孫にあたる両生類の仲間です。短足ですが、大きな体を十分支えることのできる足を持っていました。体長は1.5m程度あります。化石はドイツ(古生代 ペルム紀)で見つかったものです。

最初に肺をもった魚は何でしょうか?

それはユ-ステノ・プテロン(Eusthenopteron:力強い鰭(ひれ)の意)だと言われています。ユーステノプテノンは3.7億年前(デボン紀)に現れた肺魚です。ユーステノプテノンはヒレの中に骨を持ち、肺で酸素呼吸をしていたので、湖沼のある湿地帯で生息することができました。食性は肉食性で、他の魚類を捕食していました。

1981年にアメリカのDonn Eric Rosen(1929―1986)らは、ユ-ステノ・プテロンは総鰭類よりも肺魚に近いと主張しました。ユ-ステノ・プテロンは植物の繁茂する河床に棲息していたため、密生した植物を対鰭でかき分けながら泳いでいたものと考えられています。体長は約30~120cm。体型はやや長い紡錘形で、上下に対称な幅広の尾ヒレがあります。

生息していた場所は海浜の潟湖などの気水域だったと推定されています。こうした場所は潮の満ち引きなどで環境の変化が著しく、水の流れが滞って酸欠状態に陥ることがあったと思われます。このことから、彼らは現在の肺魚と同じように肺呼吸をしていたと考えられます。さらには、鰭内部の骨や背骨、頭骨の構造が最古の両生類に近い特徴を示しています。

最初に背骨をもった魚は何でしょうか?

それはケイロレピス(Cheirolepis)だと言われています。ケイロレピスは3.9億年前(デボン紀初期)に現れた最初に背骨をもった魚です。ケイロレピスには2枚の胸ヒレと2枚の腹ヒレがあります。ケイロレピスの体長は約55cmです。ケイロレピスには顎(あご)と鋭い歯があり、自分の体長の2/3もの大きさの他の魚を食べられます。顎は、鰓(えら)を支える骨が稼働できる様に変化したものだと考えられています。ケイロレピスは背骨を持つことにより強い筋肉を発達させ、すばやく力強い泳ぎができたと考えられます。

淡水中のCa濃度は海水中の1~10%しかありません。ケイロレピスは体内に必要なCaなどのミネラルを骨に蓄積することで、川や湖などの淡水域で生息することができました。カルシウムは、神経の働きや心臓や筋肉が動くために必要です。骨にはMg、P、S、Znさらには鉄など、生命にとって必要なミネラルが海水と同程度の割合で含まれています。

最古のサメは何でしょうか?

最古のサメは4.9億万年前のドリオドゥス(Doliodus problematicus)だと言われています。2017年にサメのような顎(あご)と胸鰭(むなびれ)の化石が見つかっています。サメの体は、殆ど軟骨でできているので、化石になり難いのです。

3.7億万年前(古生代デボン紀後期)の海にはクラドセラケ (Cladoselache) が生息していました。全長は約1.8メートルです。口は体の下側ではなく先端に位置していました。顎はあまり頑丈ではありません。体形が流線形であることから高速で遊泳していたと思われます。ちなみにサメの軟骨組織中には血管、神経、リンパ管はありません。

最初に腎臓をもった魚は何でしょうか?

それはプテラスピス(Pteraspis)だと言われています。プテラスピス属は4.0億年前のシルル紀末に現れた腎臓をもった魚です。プテラスピスの体長は25cmほどです。プテラスピスには顎(あご)がありません。頭部は平たい三角形の外骨格で覆われ、三角形の左右の端と背中に棘が1本ずつ生えています。

海水に適用した魚が淡水に入ると体が膨れて破れてしまします。ステラスピスは体内に入り込んでくる水分を腎臓で体外に排出できたので、淡水域に生息することができました。恐らくこれによってプテラスピスは淡水域が苦手なオウムガイやサメから逃げることができたのでしょう。

魚はどのようにして体内の浸透圧を調整しているのでしょうか?

外界より体内塩分濃度が高いと、体内が脱水されてしまいます。魚の体内浸透圧の調整方法には3種類あります。クラゲや円口類のヌタウナギなどは、浸透圧順応型動物と呼ばれ、細胞内にグリシンやアラニンなどの中性アミノ酸を蓄積し、体内の浸透圧を外界と等しく保っています。

真骨魚は、浸透圧調節型動物と呼ばれ、過剰なNaCl はおもに鰓(えら)の塩類細胞から、Mg2+やCa2+、SO42-イオンは腎臓から少量の尿として排出されます。

サメやエイなどの軟骨魚やシーラカンスは、尿素浸透圧性動物と呼ばれ、体内に多量の尿素を蓄積することで、体内の浸透圧を外界と等しく保っています。サメの血漿(けっしょう)中のNaClは250~300mM(ミリモル/リットル)、尿素は400~450mMで、合わせて海水濃度700mMとなります。サメは鰓や直腸線からNaClを排出しています。Naは、ATPを使ってKと交換して、細胞外に排出されます。Clは濃度勾配や電荷反発を駆動力として排出されます。

最古の魚は何でしょうか?

最古の魚はアランダスピス(Arandaspis)だと言われています。アランダスピス属は4.6億年前、古生代オルドビス紀中期に出現しました。アランダスピスは体長15cm程度、頭は硬質で、鰭(ひれ)と顎(あご)はありませんでした。1959年にオーストラリアのアリススプリングスにて発見され、原住民のアボリジニのアランダ族から命名されました。

アランダスピスは海底付近をゆっくり泳いで藻類やプランクトンを泥ごと捕食していたようです。早く泳ぐ事が出来なかったため、巨大なオウムガイから逃げるように生活していたと考えられます。鰭がない魚がいたのですね。

同時期に生きていた似たような魚にアストラスピス(Astraspis)がいます。体長20cmで、名前は星の魚の意味です。体側にヤツメウナギのような8つのエラ穴が空いており、頭部の覆いが小さな五角形(星形)の骨片からできています。