和食の旨さはマグマのおかげ?

4月22日午後10時にNHKのEテレで又吉直樹のヘウレーカ「和食の旨さはマグマのおかげ?」が放映されました。神戸大学の地質学者の巽(たつみ)好幸教授が、大引伸昭調理師の和食を食べながら、和食の恵みは日本が火山列島であることに起因していることを説明しました。巽教授は、海底の地質調査により巨大噴火を予測する研究をされていますが、美食地質学を提唱しています。
日本は軟水でフランスは硬水です。水質の違いは食文化に大きな影響を与えます。フランスはチキンスープ、日本は昆布だしを愛好しています。その理由を実験で説明しました。
硬水で加熱すると、肉のタンパク質とカルシウムが結合して灰汁(あく)となり、肉の臭みを除去することができます。しかし硬水は昆布の表面にアルギン酸カルシウムの膜ができて昆布の旨みが十分抽出できません。お米は軟水で炊いた方がふっくらします。
日本の河川は100km程度、フランスの河川は1000km程度あります。日本の河川は急勾配なので、岩石中のカルシウムが水に溶け込む時間が少ないので軟水になります。硬水は1リットル中に1.4gものミネラルを含みますが、軟水は0.4gしか含まれていません。
日本列島は3000万年前に大陸から分離を始め、300万年前から山脈が形成されました。年間数mm程度の隆起速度で1万mもの高さになりますが、風化で3000m級の山脈になったようです。これが日本の水質を決めました。
ホタルイカが採れるのは富山湾が1000mもの深海だからですが、日本列島の形成に起因しています。日本近海で寒流と暖流がぶつかるために魚種の多い漁場が形成されました。
蕎麦の名産地と火山帯は重なります。蕎麦は寒冷で痩せた火山灰土でよく育つからです。縄文人は津波を避けるために、丘陵の端に住んでいました。弥生人は稲作をするために海辺の平野に住んでいました。弥生遺跡には津波の跡が見られます。
日本人は自然の試練と恩恵を受けてきました。自然災害に直面してきたから、日本人は無常観を基調とする仏教を受け入れてきたのかもしれませんね。

死体粒子が人間を死体に変える

最近、コロナ感染拡大ニュースの影響で手洗いをする事が多くなりました。手洗いと消毒が感染防止に効果的であることを初めて示したのはハンガリー人のゼンメルワイス産科医師(1818ー1865)です。
ゼンメルワイス医師はウィーン総合病院の隣接する第一産科と第二産科の産婦の産褥熱の死亡率が10%と3%と異なる原因に悩んでいました。彼は第一産科は検視解剖を行う医学生、第二産科は解剖をしない助産婦が出産に携わっていることに注目し、死体に付いている微粒子が医師の手によって産婦に付着する事が原因ではないかと考えました。1947年に同僚のコレチュカ医師が検体解剖時にメスで腕を傷つけたことが原因で高熱を出して死亡したことを知り、自説を確信します。
彼は、産科医たちに石鹸とブラシでの手洗いの後に解剖台の臭い消しに使われていたさらし粉(次亜塩素酸カルシウム)で消毒することを義務付けました。これによって、第一産科の死亡率は2%以下に低減し、消毒の効果は実証され、1861年にゼンメルワイスは消毒法の論文を発表しました。
しかしウィーン医師会の重鎮たちは、産婦死亡の原因が自分たちにあった事を受け入れられず、ゼンメルワイスを病院から追い出しました。彼は病理学者ウィルヒョウにも批判されてしまいます。「死体粒子が人間を死体に変える」という考えは、余りに非科学的だと思われたからです。
故郷に帰ったゼンメルワイスは病院の衛生状態を改善し多くの産婦を救い実績を残します。1864年にパスツールが病原菌による感染説を提唱するまで、多くの医師はゼンメルワイスの考えを受け入れられませんでした。
ゼンメルワイスは多くの産婦を死なせてきた罪悪感があり、彼の批判者たちと10年間以上言い争いをして疲れ果ててしまいます。最後は精神病院に入れられて、そこでの怪我が原因で47歳の若さで死亡します。原因がはっきり分からなくても、効果的な予防策を提唱した者には高い評価を与えるべきだという教訓が残りました。

アイアンロード2~知られざる文明の道~

日本に鉄製品が入ってきたのは弥生時代でした。弥生時代中期の終わり頃に東アジアは寒冷化して朝鮮半島は不作でした。温暖だった北九州には広大な水田が開発されました。倭人は、鉄斧で作った丸木舟で朝鮮半島に渡り、稲籾と交換に鉄器を得ていました。朝鮮半島付近の島には、赤い弥生土器が出土していることから、日本人街があったと推定されています。
長崎県壱岐市のカラカミ遺跡から数多くの鉄器が出土しています。その80%は工具でした。日本の弥生人は、大陸人のように鉄を武器や農耕具に使わずに、木や石を加工する工具として使用していたのです。弥生時代から日本はものづくり大国だったようです。
鳥取市の青谷上寺地遺跡は「地下の弥生博物館」と呼ばれています。湿った土が遺跡を酸素から遮断していたために400点以上の鉄器が錆びずに出土しているからです。弥生人は鉄を研磨して様々の工具に加工し、高さ10mもの柱に木組み用の角穴を開け、物見櫓を建造しました。あるいは花弁高坏(たかつき)などの繊細な木製品を作っていました。
鉄斧で板材を加工し、長さ15mの丸木舟の波除け板に用いました。造船技術の進歩により、朝鮮半島や日本沿岸都市間の交易ネットワークが形成されました。
九州の唐津に輸入された鉄は鳥取や石川県の小松に持ち込まれました。小松では鉄器で緑色の碧玉石を採掘して、鳥取で碧玉石を管玉(くだたま)に加工して、ネックレスを作製し、唐津に販売されていました。当時鳥取は「弥生の王国」であり、日本の文明の原動力はアクセサリー作りだったのです。これも日本は、民族争いとは無縁で、稲作栽培ができる恵まれた環境にあったからなのでしょう。

アイアンロード1~知られざる文明の道~

4月26日14時30分にNHK・Eテレでアイアンロード~知られざる文明の道~後編「激闘の東アジアそして鉄は日本へ」が放映されました。愛媛大学の村上恭通(やすみち)教授と笹田朋孝准教授らが中央アジアやモンゴルの遺跡調査で製鉄炉と鉄器を発見し、匈奴と漢の争いに鉄製武器が与えた影響を解説しました。
製鉄法は、紀元前12世紀にヒッタイト王国が滅亡した後、紀元前8世紀頃に中央アジアの遊牧民スキタイに受け継がれていきます。遊牧民にとって鉄ナイフは肉を割き毛皮を剥ぐのに有用です。
紀元前200年に匈奴(モンゴル)の冒頓(ぼくとつ)が白登山の戦いで漢の劉邦に勝利します。劉邦は匈奴の策略にかかり周囲を包囲され、軍師陳平が冒頓の妻に賄賂を送り、何とか脱出しますが、戦いに負け貢ぎ物を送ることになります。紀元前133年には漢の武帝が反撃して、屈辱を晴らします。
文字を持たない匈奴が強かったのは、匈奴の馬術と製鉄技術にありました。匈奴は地下式製鉄炉をつかって高度な鉄製武器を生産していました。匈奴の矢尻を再現すると、それは8mの距離から、鎧に見立てた厚さ3mmの銅板と羊のあばら肉を貫通する威力があることがわかりました。2段式矢尻の三枚の突起は対称に加工され、高い貫通力と与傷範囲を有していました。
武帝の時代の遺跡から、高さ4mの高炉と小型の炒鋼炉が見つかっています。1.4トンもの鉄製橋脚が発掘されています。高炉の鉄は炭素成分がおおいので、武器にするには脆弱でした。炒鋼炉で1200℃で内部の炭素を酸化させて排出し、強靭な鉄を作る技術が開発されました。再現実験では鉄鉱石80kgと木炭200kgから30kgの鉄が得られました。上側から空気を供給し温度を保つために少しづつ鉄鉱石を炉に加えます。
鉄は牛耕用の鍬に用いられ、漢の堅い大地を10倍速く耕起できました。鉄官という役所の木簡記録には、鉄製鍬を普及させるように書かれています。漢は食糧の増産に成功し、大型の鉄剣や鉄戟を大量につくり、軍事力を強化してゆきました。
匈奴の遺跡からは銅鏡などの漢製品が出土しています。戦争もありましたが、殆どの時間は匈奴と漢は交易をして、お互いに必要なものを得ていたのです。