カテゴリー: 歴史
三次方程式の実数解を得るには虚数が必要
16世紀のイタリアでは、負の数は認められていませんでした。まして虚数は全く無意味な数だと考えられていました。しかし三次方程式の実数解を得るには、虚数を認めなければなりませんでした。
簡単のために三次方程式
- x3-px=0 p>0
について考えます。これは元の方程式においてq=0でpが-pに置き換わった方程式です。
- x(x-√p) (x+√p)=0
より、3つの実数解をもつことが分かります。
三次方程式の判別式は、q=0のとき
- D3=(q/2)2+(-p/3)3=-(p/3)3<0
となります。これを用いると、虚数をi=√-1と書くと、
- u3=-q/2+√D3=i√(p/3)3
- v3=-q/2-√D3=-i√(p/3)3
となります。uとvは虚数になってしまいます。しかし虚数を認めれば
- x0=u+v=0
- x1=ωu+ω2v=(ω-ω2)u=(2ω+1)u=√3i・i√(p/3)=-√p
- x2=ω2u+ωv=(ω2-ω)u=-(2ω+1)u=-√3i・i√(p/3) =√p
となり、3つの実数解を再現することができます。
一般にモニック三次方程式(三次の係数が1)
・ f(x)=x3+px+q=0
の判別式は、三つの解を用いて
- D3=(q/2)2+(p/3)3=-1/(4・27)・(α-β)2(β-γ) 2 (γ-α) 2 ・・・(1)
と表されます。
- D3=1/4・(極大値)・(極小値)=1/4・f(-√-p/3)・f(√-p/3) (2)
になっています。
- D3<0の場合、3つの実数解が存在します(u、vは虚数)
関数f(x)が極大値から極小値に変化するときにx軸と交わるので、実数解が生じます。
- D3>0の場合、q<0のときには1つの実数解と2つの虚数解
- D3=0の場合、q<0のときには2つの実数解(一方は重根) ・・・(3)
が存在します。
<(3)式の証明>
D3=0の場合、
- u3=-q/2+√D3=-q/2、 v3=-q/2-√D3=-q/2
- u=v=3√(-q/2)
であるから、q<0のとき
- x0=u+v=3√(-4q)
- x1=ωu+ω2v=(ω+ω2)u=-u=-3√(-q/2)
- x2=ω2u+ωv=(ω2+ω)u=-u=-3√(-q/2)(重根)
<(2)式の証明>
- f’(x)=3x2+p=3(x+√-p/3) (x-√-p/3)=0
- 極大値=f(-√-p/3)=(-√-p/3)3+p(-√-p/3)+q=-2p/3√-p/3+q
- 極小値=f(√-p/3)=(√-p/3)3+p(√-p/3)+q=2p/3√-p/3+q
- D3=1/4 (-2p/3√-p/3+q)( 2p/3√-p/3+q)=1/4(q2-(2p/3√-p/3)2)=(q/2)2+(p/3)3
<(1)式の証明>
- x3+px+q=(x-α) (x-β) (x-γ)=x3+ (α+β+γ)x2+(αβ+βγ+γα)x-αβγ
より、解と係数の関係
- α+β+γ=0、αβ+βγ+γα=p、αβγ=-q
- β+γ=-α、βγ=p-α(β+γ)=p+α2
が成り立ちます。
- (α-β)(γ-α)=-α2+(β+γ)α-βγ=-α2+(-α)α-(p+α2)=- (3α2+p)
- (β-γ)(α-β)=- (3β2+p)
- (γ-α)(β-γ)=- (3γ2+p)
となります。これらの積をとると
- D3=-1/(4・27) (α-β)2(β-γ) 2 (γ-α) 2
- =1/4・(α2+p/3)・(β2+p/3)・(γ2+p/3)
- =1/4・{α2β2γ2+(α2β2+β2γ2+γ2α2)p/3+(α2+β2+γ2)(p/3)2+(p/3)3}
ここで
- α2+β2+γ2=(α+β+γ)2-2(αβ+βγ+γα)=-2p
- α2β2+β2γ2+γ2α2=(αβ+βγ+γα)2-2αβγ(α+β+γ)=p2
ですから、
- D3=1/4・{q2+(p2)(p/3) +(-2p) (p/3)2+(p/3)3}
- =1/4{q2+(9-6+1)(p/3)3}=(q/2)2+(p/3)3
が成り立ちます。
イタリアの数学者タルタリア(1500年~1557年)
弾道学の祖と言われるタルタリアは本名をニコロ・フォンタナといいます。ニコロは1500年にプレシアの貧しい家に生まれました。1512年にカンブレー同盟戦争でフランス軍がブレシアに侵攻し、4.5万人のイタリア人を虐殺する事件が起こりました。そのとき12歳のニコロは顎を切り落とされ、普通に話せなくなったので、タルタリア(吃音)と呼ばれるようになったのです。タルタリアは、三角錐の辺の長さを用いて体積を表すタルタリアの公式を考案したことでも知られています。
16世紀のイタリアでは方程式の公開試合が流行していました。お互いに方程式を30問出し合い、30日で回答するというものです。タルタリアは1535年ごろ独学で三次方程式の解法を発見し、出版しないことを条件にカルダノに解を教えたと言われています。カルダノは、1526年に死んだデル・フェロの遺稿から彼が三次方程式の代数的解法を得たことを知り、タルタリアとの約束を無効としました。1545年にカルダノは『アルス・マグナ』(Ars Magna偉大な解法) を出版し、様々な形の三次方程式の解法を公表しました。以来、三次方程式の解法はカルダノの方法と呼ばれています。
<三次方程式の代数的解法>
三次方程式の二次の係数a2は、xをx-a2/2と置き換えると、消去できるので、一般に
- x3+px+q=0 ・・・(A)
という形に書き表せます。一般に
- x3 + y3 + z3 − 3 x y z= (x + y + z) (x2 + y2 + z2 − z x − x y − y z)
という恒等式が成り立ちます。これをxの3次式とみて、y=-u、z=-vと置くと
- x3 +(‐3uv)x-(u3+v3)=(x‐u‐v){ x2+ (u +v)x+(u2 +v2− uv)} ・・(B)
と書けます。つまり、
- p=‐3uv
- q=-(u3+v3)
なるu、vに対して、三次方程式(A)は
- x=u+v
なる解を有していることが分かります。(B)式の右辺は、対称性から
- x2 + (u+v)x+(u2 +v2− uv)= (x-au-bv)・(x-av-bu)
と因数分解されたと考えて、係数a、bの満たすべき条件を求めます。
- x2 + (u+v)x+(u2 +v2− uv)=x2-(a+b)(u+v)x+ab(u2 +v2)+(a2 +b2)uv
よって
- a+b=-1 かつ ab=1
が成り立ちます。これはa、bが、2次方程式
- (t-a)(t-b)=t2-(a+b)t+ab=t2+t+1=0
の2つの実数解であることを示しています。 よって
- a=ω、b=ω2 、ω3=1
となります。従って、
- x3 +(‐3uv)x-(u3+v3)=(x‐u‐v) (x‐ωu‐ω2v)(x‐ω2u‐ωv)
と因数分解できます。ここで
・ u3+v3=‐q
- u3・v3=‐(p/3)3
より、u3、v3は、2次方程式
- t2+qt‐(p/3)3=0
の解となります。つまり
- u3=‐q/2+√(q/2)2+(p/3)3
- v3=‐q/2-√(q/2)2+(p/3)3
です。従って、3つの解は、上記のu、vを用いて、
- α=u+v、 β=ωu+ω2v、γ=ω2u+ωv
あるいは
- x=ωk u+ω3-k v (k=0,1,2)
と表されます。この解の表示方法はラグランジェが用いたとされています。三次方程式の解には二乗根と三乗根が用いられます。
<解の巡回変換Kの存在>
- K(α)=β
なる解の置換変換Kを考えます。
- K(u+v)=ωu+ω2v、 K(u+v)=K(u)+K(v)
なる性質を満たすために
- K(u)=ωu、K(v)=ω2v
と定義すると、uv=-p/3を保存すること
- K(uv)=K(u)K(v)=ωu・ω2v=uv=-p/3
が成り立ちます。また
- K(β)=K(ωu+ω2v)=ωK(u)+ ω2 K(v)=ω2 u+ωv=γ
- K(γ)=K(ω2u+ωv)=ω2K(u)+ ωK(v)=ω2 ωu+ωω2v=u+v=α
が成り立つので、Kは解の巡回変換になります。
- x2 + (u+v)x+(u2 +v2− uv)=0
を解の公式から直接もとめることもできます。
・ x=-(u+v)/2±(1/2)√D2
・ D2=(u+v)2-4(u2 +v2− uv)=-3(u2 +v2− 2uv)=-3(u-v)2
u>vとして、
- x1=-(u+v)/2+(1/2)√3i (u-v)=(-1+√3i)/2・u+(-1-√3i)/2・v
- x2=-(u+v)/2-(1/2)√3i (u-v)=(-1-√3i)/2・u+(-1+√3i)/2・v
いま
- ω=(-1+√3i)/2、ω2=(-1-√3i)/2、ω2+ω+1=0
ですから、
- x1=ωu+ω2v、x2=ω2u+ωv
となります。
「世界商品により形成された近代世界」(後半)
皆さん、こんばんは。三期生の角野雅芳です。これから「世界商品により形成された近代世界」の後半の発表をします。まずは前回の内容を振り返りながら後半を展望します。
・歴史を変えた世界商品は銀と香辛料
前回は近世のヨーロッパ諸国が希求した世界商品は銀と香辛料だったという話をしました。また大航海を可能にした帆船と羅針盤や高度計を用いた航海技術を紹介しました。
銀は通貨の原料となり、交易を活発にし、資本の蓄積を促します。例えば紀元前500年前に、銀を産出した古代ギリシャはペルシャを凌ぐ大国になりました。16世紀にスペインは新大陸を発見しました。スペインは、南米のボリビアでポトシ銀山を発見し、莫大な富を得ました。コルテスはアステカ文明を滅ぼし、ピサロはインカ帝国を滅ぼし、スペインに多量の金銀をもたらしました。イタリアのジェノバ商人たちは地中海貿易で得た資本を元手に、スペインやポルトガルに融資し、莫大な資本を蓄積していきました。巨大資本は遠洋航海を実現するのに必要なものでした。
香辛料は、高級商品であり、遠洋交易を活発にしました。当時の一般人にとって香辛料は大変高価なものであり、生活必需品ではありませんでした。胡椒はインドから海路でイスラム人に、アラビアから陸路でベネチア人の手に渡り、ポルトガルに来るころには大変高価になっていました。16世紀のヨーロッパはオスマン帝国に圧迫され、地中海貿易が自由にできなくなっていました。もし外洋に出て海路のみで胡椒を輸入できれば、大きな利益になる状況でした。ポルトガルはインド航路を開拓し、武力で香辛料貿易を独占します。遠洋航海はヨーロッパ人の視野を地球規模に広げ、航海技術は様々な科学技術を発達させました。
1517年にドイツのマルチン・ルタ-がプロテスタント革命を引き起こします。プロテスタントのカルバン派は商業も神の意志に叶うと考え、利子を肯定しました。宗教革命を契機にカトリックの宗教的権威を批判する合理的考えが生まれ、啓蒙的な哲学や科学が発達しました。1600年にプロテスタントの国々であるオランダ、イギリスが東インド会社を作り、香辛料貿易に参加します。こうして銀貨の増加と科学的航海術は香辛料の世界貿易を活発化させ、ヨーロッパに資本を蓄積していきました。
1650年ごろイギリスではコ-ヒ-ハウスが急増します。そこで初めて人々が身分を超えて自由に討議するパブリックスペ-スが生まれました。政治家、船商人、科学者、保険屋、軍人、報道者などが集まる様々なコ-ヒ-ハウスが発達しました。近代文明を支える銀行や保険会社や民主主義政治やジャーナリズムがコーヒ-ハウスで誕生したのです。イギリス人は中国から茶を、カリブ海の島から砂糖を輸入して紅茶を飲むようになります。宗教改革は真面目なカフェイン文化を育み、カフェイン文化は産業革命や工場労働に適合し、近代市民文化を形成してゆきました。
それでは大航海時代に話を戻します。海路で胡椒を輸入できれば、大きな利益になる可能性は大いにありました。しかし当時の知識ではインドに行ける航路があるかどうか分かりませんでした。それどころか地球が球体であることも一般には知られていない時代です。また帆船での長距離航海には莫大な費用と深刻な病気の危険性がありました。
・どうして当時のヨーロッパ人は命をかけて航海に出られたのでしょうか?
それは商人の金儲けの欲望と消費者の東洋への憧れが強かったからと説明するしかありません。キリスト教の布教は、目的というよりは、利益をあげるための手段でした。しかしながら現代人の感覚では、大航海は無謀であり人的損失があまりにも大きく利益に見合うものではありません。搾取された植民地の原住民や売買された奴隷らは本当に酷い目に遭いました。しかしながら香辛料貿易に従事していた船員や兵士たちの多くは罪人や奴隷や下層階級の人々でした。当時は、船員や原住民の人命や人件費が軽視されていたので、香辛料貿易の損失は、中継地の建設と破損した船の修理費程度であり、人的損害は深刻な問題にならなかったのです。
さてポルトガルは15世紀初頭から既に1000km離れた温暖なマディラ諸島でアフリカの黒人奴隷を使った砂糖キビ栽培をしていました。ポルトガルにはアフリカ付近の外洋航海の経験は既にありました。ポルトガル人のバスコ・ダ・ガマは胡椒を求めてアフリカ喜望峰を廻る航路を発見し、インドのカリカッタに到着しました。
当時は、東インドにパスタ-ジョン牧師が率いるキリスト教国があるとの噂がありました。ガマは東洋のキリスト教国と組んでイスラム教徒を撃退したいと考えていましたが、実際にはそのような国はありませんでした。インドのイスラム商人はガマが差し出した粗末な交易品を見て笑いました。ガマは敵視しているイスラム商人に蔑まされて、大変悔しい思いをしました。当時、内陸のムガル帝国の権力は港町に殆ど及んでいませんでした。ガマはインドの商人たちが艦隊や銃を持たずに軽い税金を払い自由に商取引をしていることを知ります。
ガマの報告を受けたポルトガルは大砲を積んだ艦隊を東南アジアやインドに送ります。そして武力を行使して港町を占領して貿易を行い、莫大な利益を上げました。もちろん小国ポルトガルがインド航路の探索に費用を捻出できたのは、地中海貿易で資本を蓄積したイタリア都市国家の支援があったからでした。
しかし80年後、ポルトガルは没落し、スペインに併合されます。スペインは、ジェノバ商人に対するポルトガルの借金を肩代わりしたからです。カトリックの王族が、ジェノバの高利子の融資を受け続けた理由は、彼らは金銭管理に関心がなかったからでした。商業の発展により、時代がカトリック国家からプロテスタント国家に移ったことは必然的なことでした。プロテスタント国家であるオランダ、イギリス、フランスはそれぞれ東インド会社を設立し、東方貿易を巡る熾烈な覇権争いを繰り広げました。東インド会社は国家により独占貿易を認められた民間企業です。大航海時代以前の覇権国家は中国とインドでした。辺境のヨ-ロッパ諸国は東インド会社を設立し、東方貿易を独占支配することで世界の覇権を握ったのです。
・各国のインド航路の違い
東インドとは、インドの東側ではなく、インドを含む東アジア全体のことです。西インドとは、インドの西側ではなく、南北アメリカ大陸のことを指します。 各国のインド航路は少し違っていました。ポルトガルは、東アフリカの港町に中継地点を設け、ケニアのマリンディからカリカットに向けてインド洋を航海しました。英仏は、アフリカ南端のケープとマダガスカル沖の小島を中継地点として、インドに向かいました。オランダ船は喜望峰から南インド海流に乗ってオ-ストラリア西岸まで行き、西オ-ストラリア海流に乗って、ジャワに行きました。イスラム教徒はインドからアラビア半島端のアデンを通る経路で香辛料を運んでいました。
・季節風の影響を受けるインド航路
左は夏、右は冬のインド洋の気圧配置と風向を示しています。季節によってジェット気流が蛇行するために、熱帯収束帯の位置が変化します。風は低気圧である熱帯収束帯ITCZ(Intertropical Convergence Zone)に流れ込みます。春から夏にかけて、チベット高原に低気圧が生じます。4月から5月にケニアのマリンディを出発すると、南西の季節風に乗ってインドに行くことができます。10月~1月にインドを出発すると北東季節風に乗ってマリンディに到着できます。
欧州各国は同じ時期にインドで香辛料を買うので、買い値が上がります。また同じ時期に帰港するので、売値が下がります。貿易上手なオランダは香辛料を安値で買うために季節風の影響を受けにくいオ-ストラリア航路を選びました。
上の写真は喜望峰です。南アフリカはヨーロッパの雰囲気ただよう市街地とエメラルドブルーの海を目当てに、世界中から多くの旅行者が訪れる人気の観光スポットになっています。
・ポルトガルは武力行使でインドの港町を征服
ポルトガル人はレコンキスタ運動でオスマン帝国等のイスラム人を敵視していました。バスコ・ダ・ガマは、3隻の帆船で喜望峰を廻るインド航路を発見して、富豪になりました。
東アフリカの港では、ガマは沖合に停泊して、イスラム住民を銃で脅して水を奪ったと言われています。行きは5月にケニアのマリンディを発ったので追い風で順調にインドに到着した。しかし帰りは8月にインドを発ったため、マリンディ到着に3カ月要し、壊血病で30人もの人が死にました。
ガマは二回目の航海では20隻の大艦隊で出かけ、インドの港町を砲撃し、沖合で掠奪行為を繰り返しました。ガマはインド洋でメッカ巡礼にいく大型船を略奪し、女子供が乗る乗客300人の船に火をつけて、傍で眺めていました。1503年に14隻の船が1500トンものスパイスを積んでリスボンに戻り、ガマは大富豪になりました。内陸のインド帝国は海岸の商業都市には関心が薄く、ポルトガルの支配を許しました。教科書は英雄の野蛮で非情な行いには触れないことが多いので、日本人が知らないことはたくさんあります。
1500年にガブリエル(ポルトガル)は、インドに行く途中で流されて、幸運なことにブラジルを発見します。たまたま漂着地に染料となるブラジルの木が生えていたことから、その土地はブラジルと命名されました。ブラジルは砂糖キビ生産の中心地となり、ポルトガルを潤すことになります。
ポルトガルはアラビア半島先端の港町アデン(紅海の入口)を支配できませんでした。インドの香辛料がアデンからアレクサンドリア経由でベネチア商人の手に渡りました。そうなるとポルトガルは、香辛料を独占できず、他のヨ-ロッパ勢力の掠奪に会い、没落していきます。
・インド総督アルブケルケの4拠点政策
1506年にポルトガル王マヌエル1世がアルブケルケ(ポ)を第二代インド総督に任命します。アルブケルケ(1453年 – 1515年)は、ホルムズ、ゴア、マラッカ、アデンの4拠点を次々と制覇し、ポルトガルの軍神と称えられました。
1521年にマゼラン艦隊が「モルッカ諸島がスペイン領であること」を確認しに来訪します。スペインとポルトガルは香辛料諸島の領有権を巡って争います。1525年にカール5世(ス)とジョアン3世(ポ)はなんとお互いの妹と結婚することで、両国の紛争を終結させます。1529年にスペインはサラゴサ条約を締結し、ポルトガルにモルッカ諸島を譲渡しました。1565年に息子のフェリペ2世(ス)はフィリピンの植民に成功しました。フィリピンはポルトガル領にありましたが、カール5世の思惑通り、ポルトガルはスペインがフィリピンを領有することに反対しませんでした。おかげでスペインはマニラで銀と交換に中国の絹織物や陶磁器を手に入れることができました。
・モルッカ諸島とバンダ諸島の位置
モルッカ諸島は、ボルネオとニュ-ギニアの間にあるヘルマヘラ島の西方に並ぶ5つの小さな島々です。バンダ諸島はモルッカ諸島の南に位置する4つの島です。モルッカ諸島の名前は有名ですが、モルッカ諸島の島々の正確な位置を指し示せる人は殆どいないでしょう。
バンダ諸島はとても小さな島々です。ナイラ島にはベルジカ要塞(1611年建設)があり、今では観光地になっています。要塞は香辛料を貯蔵しておく場所です。香辛料を守るために要塞にはたくさんの大砲が設置されています。要塞の形はア米国国防省と同じ5角形です。
・スパイス諸島は世界の注目の中心地
モルッカ諸島はテルアナ、ティドレ、モティ、マキアン、バカンの5島(火山性土)からなります。モルッカ諸島はクロ-ブの世界唯一の自生地でした。クロ-ブは花の蕾を乾燥した香りの強い香辛料です。香辛料貿易は4000年以上の歴史を有します。スパイスは初めての世界商品です。紀元前1720年にバビロニア帝国(現シリア)のテルカ遺跡の陶器に付着したてクロ-ブが報告されています。つまりクロ-ブは1万km離れた距離を交易で移動したことになります。
中国人がアンボン港に来てスパイスを購入して、インドで売り、イスラム商人がインドアからシリアに運び、ベネチア人がヨーロッパにスパイスをもたらしました。香辛料貿易はイスラム教よりずっと古いのです。だからイスラム教徒が香辛料を広げたというよりは、香辛料貿易がイスラム教を広げたといった方がいいでしょう。
バンダ諸島はナツメグの世界唯一の自生地でした。ナツメグはニクズクという常緑樹の種子でプラウ・アイ島とルン島の2島に自生しています。ニクズクの実の中の種を覆う紅い仮種皮はメース(mace)と呼ばれる香辛料です、ナツメグは種の中の直径2.5cmの仁(じん)を摩り下ろして得られます。バンダ諸島はイギリスの植民地でした。オランダはマンハッタン島と交換に英国王ジェ-ムズ1世からバンダ諸島を得ました。
17世紀にオランダはインドネシア人にインド産のアヘンを売って胡椒を得ていました。胡椒はまさに世界の通貨として通用しました。イザベル女王(ポ)の結婚持参金は胡椒でした。
オランダのY.P.ク-ン総督(蘭)は、イギリスと手を結ぼうとしたバンダ諸島のロンタ-ル(Lonthoir)島の先住民13,000人を殺害しました。日本人傭兵を使って英国との交易を望んだ40人を晒し首に処したと言われています。日本では平戸に貿易を制限され大人しくしていたオランダ人は、スパイス諸島では恐ろしい暴君でした。
有名な香辛料にバニラ豆があります。トマス・ジェファーソンはバニラアイスのレシピを米国にはじめて紹介した人です。バニラ豆は香辛料諸島では採れません。バニラ豆はメキシコ湾岸のベラクルス地域に自生していました。バニラ豆は2.5万種のランの中で唯一の農産物です。スペインはバニラを独占していましたが、1822年にフランス人がバニラの差し穂をマダガスカル沖のレユニオン島に持ち込み、エドモン法の発見により50年後にメキシコの生産量を追い越しました。
・オランダも香辛料を求めインド航路を開拓
オランダは低湿地で農業に適さないので、漁業と海運業が発達しました。ポルトガル王室は胡椒販売の拠点を北ドイツのハンブルグに定めました。主な販売先はメディチ家、ハプスブルグ家、南ドイツのフッガ-家とウェルザ-家です。オランダ商人は胡椒の売買ができず不満でした。
1588年にイギリスがスペインの無敵艦隊を撃破します。イギリスの私掠船が大西洋上で胡椒を積んだポルトガル船を襲撃する事件が多発します。その結果、1592年に胡椒の価格が高騰します。オランダ商人は東アジア貿易を決断します。
1595年4月に10万ギルダの銀貨を積んだオランダ船隊4隻(大砲100門)が、ジャワ島の港町バンテンに向けて出航しました。ケープタウンに寄港し、15カ月後にバンテンに到着します。1597年8月にオランダ船隊3隻が帰還しましたが。240人から87人に減少していました。実に乗組員の2/3が死亡したことになります。 それでもオランダ国王は喜び、船隊を次々に送ります。1599年7月にヤコブ・ファン・ネックの船隊(4隻)はインドからアムステルダムに帰還しました。ネックが持ち帰った東方の品々は、400%もの利益率をもたらしました。5年間にオランダは15船隊(65隻)を東アジアに派遣しました。ポルトガルは23隻でした。
1602年3月にオランダ東インド会社(VOC)が設立されました。VOCはアムステルダム周辺の5会社とゼーランド周辺の6会社が合併して出資した民間会社です。オランダ政府は21年間の独占契約と更新料150万ギルダ(=15万ポンド=360億円)を決定しました。当時の1ポンドは24万円、1ペンスは千円程度です。VOCは46条の権利として要塞設置権、総督任命権、兵士雇用権、条約締結権、貨幣鋳造権などの国家権力を譲渡されていました。収奪した品々を保管するために堅固な要塞が必要でした。オランダVOCの資金は、642万ギルダ(1540億円)で、イギリスEICの12倍もの資本がありました。VOCの配当金は平均利率20%、株は元値の4倍以上の額で取引されました。
1603年12月にオランダVOC船隊12隻が、ポルトガルが支配するアフリカのモザンビ-クとインドのゴア港を攻撃しました。オランダはポルトガルと同様に武力で交易を支配しようとしたのです。VOCのアムステルダム本社の画像です。
・不良人材に借金をさせて船乗りを確保
オランダ東インド会社の貿易船の乗組員の構成は、船乗り60%(外人35%)、兵士30%(外人65%)、船職人9%、上級商人と聖職者1%でした。船乗りと兵士は妻帯厳禁、上級商人は妻帯可能でした。
インドへの船旅は危険でした。記録によると100年間で往路は97.6万人、帰路は36.6万人が移動しましたが、61万人が船上か現地で死亡しました。船上の死亡率は8~15%と高かったようです。乗組員の2/3は帰って来られませんでしたが、罪人や下層階級の人命は軽視されていました。船長は彼らを騙して水夫や兵士にしました。優秀な水夫は軍隊に取られるので、残りの不良人材を雇用しました。
1)居酒屋、賭博場、売春宿に誘い騙して多大な借金をさせ借金証書を取る。
2)航海中は週に3回(1食200g)羊肉と豚肉が食べられると伝え誘惑する。
3)出航前まで地下室に監禁し、スープ一杯の食事で弱らせる。
帰路は交易品を大量に積むために、水夫や兵士の数を減らしました。女性の乗務員は100年間で200人しかいなかったそうです。停泊地では1カ月弱停泊し、水と食料を補給し、船を修理しました。水は1日3リットル。イギリス船ではテムズ川の不味い水を飲んでいました。水は船の前方、火薬は後方に積まれました。船底には陶器や穀物や金属を置いて船を安定させ、食肉の周りを胡椒で埋めました。防湿のために絹、綿、茶、スパイス、コ-ヒ-の周囲に陶器、銅銭、染料木を置きました。船上は高く浮きが見えず、魚釣りは難しかったかもしれません。
病気はマラリア、壊血病(scurvy)、脚気(beriberi)が多かったです。赤痢(dysentery)、腺チフス(typhus)などの病気にかかることもありました。チフスやペストはネズミやヒトの蚤を媒介して感染します。リンパ腺が腫れるので腺チフスと言います。
・イギリス東インド会社はインドの統治機関へ変貌
イギリスは気候が冷涼で、農産物の価格が高く、生活費がかかるため、人件費が高い特徴があります。イギリスの毛織物、刀剣、宝飾品、時計、象牙、珊瑚などの特産物は、高価でインドではあまり売れませんでした。
1600年12月にイギリス東インド会社(EIC)が設立されます。EICはロンドン商人が設立した民間会社で、英国政府が15年間の独占貿易を認可しました。1601年3月にEICの船隊(4隻、110門)がスマトラとジャワに向けて出航します。マラッカ海峡でポルトガル船を掠奪し、2年半後に帰還しました。10年間の東インド貿易の平均利益率は155%でした。
1608年にムガル帝国のジャハンギ-ル皇帝がEICに北西インドのス-ラト港町での貿易を許可します。1611年にインドの南東部のマスリパトナムにイギリスEICの商館を設立しました。1622年にEICはサファビ-朝のアッバ-ス1世の要請でホルムズ島(ポ)の攻略に成功し、ペルシャ全土での自由貿易権を得ます。ペルシャは砂漠の国で木材がなく船が作れませんでした。岸から8km離れたホルムズ島に軍隊を派遣できなかったのです。イギリスは現地の権力者から良い待遇を受けるようになりました。1639年にEICは地元領主の招きでマドラスに拠点をもちます。EICは関税を免除され、税収の半分をもらう権利を得ます。1757年にベンガル地方でおきたプラッシ-の戦いで、EICが仏印連合を破ります。EICはインド太守に代わり徴税を行い、いち貿易会社からインドの植民地統治機関へと変貌していきました。
・フランス東インド会社は出遅れたが国家支援を受けた
フランスのパリは内陸都市で、セ-ヌ川には大型船は入れませんでした。フランスは長距離航海を支えられる商業資本が特定の港町に蓄積されませんでした。
1664年にフランス東インド会社が設立されます。財務大臣コルベ-ルがルイ14世に進言し、王族、貴族、官僚が1200万リーヴルの資本を拠出しました。国務評定官が会社を経営しました。1667年にフランソワ・カロン(元平戸のオランダ商館長)がベンガル商館を建設し、木綿(キャラコ)・胡椒などをフランスに輸入しています。1673年にフランス東インド会社はベンガル地方のシャンデルナゴルに商館を建設します。また中継基地としてインド洋上のモーリシャス諸島とレユニオン島を領有しました。1674年にコロマンデル地方(インドの南東海岸)のポンディシェリに要塞を建設します。しかしあまり利益は出ませんでした。
1719年にジョン・ロ-が東インド会社を民営化します。株は銀行家や外国人が所有し、株主の代表が会社の経営に参加するようになりました。財務、航海、艤装の専門家などが取締役となり、ポンディシェリ総督と共に運営しました。株の半分が一般開放され、ルイ15世は1/5を保有していました。
1720年にはブルターニュの海岸にロリアン(Lorient)港を建設しました。4000人もの労働者が雇用され、ロリアンの造船所には船の建造に必要な専門技術者、職人が集められました。これらの政策によってフランス東インド会社の収益が上がっていきます。交易品は英国の石炭、錫、鉛、アイルランドの塩漬肉とチ-ズ、スペインの銀貨などでした。
<フランスの貿易モデル> 仏→東インドの綿織物→西アフリカの奴隷 → 西インド諸島の砂糖 →仏
・ヨ-ロッパの東インド貿易の船舶数
下の図にヨーロッパの東インド貿易の船舶数の変遷を示します。データは10年間の船舶数を表わしています。1500年~1600年のデータはポルトガルが外洋に出した平均船舶数を表しています。1600年以降ポルトガルは徐々に船舶数が減少します。1720年~1730年にオランダの船舶数は最大382隻となります。東方貿易はオランダが一番勢力があったことが分かります。オランダ、イギリス、フランスは、東インド会社を設立後、東方貿易に関わる船舶数が増大します。フランスは17320年にロリアン港を建設以後、交易が活発になります。1790年以降、東インド会社の船舶数は急激に減少します。
・世界商品が近代グロ-バル経済を形成した理由
これまで近代のグロ-バル経済を形成する契機になった香辛料貿易がどのように進展してきたかを詳しくお話してきました。香辛料が日常品になった後は、砂糖や茶が高収益な世界商品となって、グロ-バル経済を発展させていきます。そこで私は、次の3つの仮説を考えました。
仮説Ⅰ 豊かな生活は好奇心が満たされる生活である。
仮説Ⅱ 好奇心を満たす商品は高収益の世界商品になり得る。
仮説Ⅲ 高収益の世界商品がグロ-バル経済を形成発展させる。
当時は人的損害を極めて低く評価したので、無謀な香辛料貿易が黒字になり得ました。航海技術や貿易・中継拠点が発達し、高収益の世界商品が現れました。それによって投資が増大するためにグロ-バル経済は形成されました。またより収益の高い商品の開発によってグロ-バル経済は発展していきました。その結果、現代では生活必需品もグロ-バルに流通するようになったと考えられます。逆に国家体制はグロ-バル経済で収益を揚げられるように変化していきました。しかしながらグロ-バル化によって、貧困や経済格差、金融崩壊、健康被害、環境破壊などの様々な問題が引き起こされています。
宗教は歴史に大きな影響を与えました。異なる宗教や異なる宗教解釈によって国が対立したり、独立するために、絶えず戦争が起こりました。王室は戦費を捻出するために東インド会社に権限を与え、投資をしてきました。しかし宗教を布教する宣教師よりも、はるかに多くの商人が東インドに行き、活躍しました。
人間はよりお金を儲けるために経済を発展させてきました。だから歴史の原動力はお金儲けだと言う人がいます。しかしその考えは一面的です。なぜなら高価な香辛料を買う消費者がいるからこそ、香辛料を売ってお金を儲けたい商人が生まれるからです。グロ-バル経済の誕生には商人と消費者の両方が必要です。どちらが先であるかを考えると、世界商品を求める消費者の欲望の方が先だと思われます。従って私は「グロ-バル世界を形成した歴史の原動力は、人々の好奇心を満たす世界商品である」と結論して良いのではないかと思います。
・胡椒や香辛料が求められた本当の理由
従来説では、胡椒は食肉の保存、保存の悪い食肉の味付けのために用いられていたとされています。ところが、『食の歴史』第二巻28章P641を執筆したJ.L.フランドラン氏によると
1.肉と魚の保存は塩、酢、植物油で行われていた。
2.肉は現在よりももっと新鮮な内に食べられていた。
3.貴族は保存肉や腐りかけた肉を食べなかった。
4.塩漬け肉はマスタ-ド味をつけて食べられていた。
ということです。どうやら胡椒は食肉の保存や臭い消しのために用いられていたのではなかったようです。当時、胡椒や香辛料は医薬品で、薬膳料理に不可欠だったと考えられます。メイスは水腫や胃腸痛、ナツメッグは船酔いと不眠症、クロ-ブは吐き気や歯痛止め、シナモンは消化、精力増強と受胎、胡椒は男性機能の向上に効果があると信じられていました。
・欧州貴族は香辛料が健康に必要だと信じていた
15~16世紀のヨ-ロッパの医学は時代遅れの四体液説に基づいていました。四体液説(Humorism)とは、人間の身体には「血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁」の4種類の体液(humor)があり、その調和によって身体と精神の健康が保たれるとする考え方です。この医療法は古代ギリシャのヒポクラテス(BC480年)が唱えましたが、現代では疑似医療とされています。
180年頃ローマ帝国時代のギリシア人医学者ガレノスは四体液説に基づいて500種類以上のハーブを「熱、冷、乾、湿」の性質に分類・体系化し、イスラム医学に継承しました。
11世紀コンスタンティヌス・アフリカヌス修道士がガレノスの著書を西欧医学の正典としたためヨ-ロッパでは医学の進歩が大幅に遅れました。1570年にスペイン王フィリップ2世はスパイス調査のため医師団をメキシコへ派遣しています。スパイスは医薬であると考えられていたからでしょう。
四体液説によると、肉魚は湿っているので、乾いたスパイスを食べて体液のバランスを保つ必要があると考えられました。調香師は、50種以上の複雑なスパイス処方を行い、貴族の健康管理をしていました。貴族は性欲亢進効果を期待していたようです。
・香辛料の香りは人間の記憶に強く残る
鼻の奥にある嗅細胞は2.4cm2に500万個ほど並んでいます。嗅細胞の先端には、数本の嗅線毛があり、毛の表面に300種類以上の匂い分子の受容体があります。匂い成分が受容体に付着すると電気信号を発し、脳に伝えられます。
嗅覚以外の感覚(視覚、聴覚、味覚、触覚)は脳の中で理性的に認識されます。感覚情報が論理的に認識され、その後に快・不快の感情が生じて記憶されます。
嗅覚情報は、直接、脳内の感情や記憶を司る大脳辺縁系に届きます。論理的に認識する過程を経ずに、直接、快・不快の感情と結びつき、長く記憶に残ります。
赤ちゃんは生まれた直後、母親の乳輪腺が出す匂いを頼りに乳房を見つけます。臭覚は、腐敗した食物を検知するなど命の危険を察知できるように設計されるために、鮮明な印象を残し記憶や感情を引き出す力が特別に強いと考えられます。
・香辛料の価格が低下した理由
それはフランス人が東インドから香辛料の苗木を盗んで栽培したからだと言われています。1770年にピエ-ル・ポワブル(1719-1786)という片腕のフランス人宣教師が、ナツメグ1000本とクロ-ブ300本をフランス島(現Mauritius)に移植栽培し、6年後に収穫に成功しました。1776年にポアブルは仏領マダガスカルとザンジバル島(現タンザニア)でクロ-ブの栽培を開始しました。香辛料が日用品に降格し、オランダの覇権が崩れる要因となります。
1841年にインド洋のレユニオン島で当時12歳の黒人少年のエドモン・アルビウス(1829-1880)がバニラ豆の人工授粉に成功しました。現在バニラ香のバニリンは針葉樹パルプ廃液のリグニンから製造可能になっています。バニリンは芳香族フェノ-ルにアルデヒド基とメトキシ基が付加した構造になっています。
7.キリスト教宣教師による日本征服計略
これまで銀と香辛料貿易の話しをしてきました。大航海時代の日本は戦国時代と江戸時代にありました。日本は鎖国をしており、ヨーロッパ人との交流は極めて限定的であると教えられてきました。しかし実際はヨーロッパ人が日本に与えた影響は極めて大きく、日本人もヨ-ロッパの植民地戦争に参加していた実態が明らかになってきました。
・なぜ信長はキリスト教の布教を許したか?
1)信長はキリスト教勢力を利用し仏教勢力(石山本願寺)を排除したかった。
2)信長はポルトガル人宣教師から鉄砲の鉛玉(タイ産)を得ていた。
3)信長は鉄砲技術で天下統一を果たそうとした。
グネッキ・オルガンティ-ノ宣教師(ポルトガル)はキリシタン大名の軍事力で日本を征服しようとしました。彼は石山戦においてキリシタン大名高山右近に信長を支援するように命令します。グネッキは信長をキリシタンにしようとしたのですが、信長は「我神にならん」と言って撥ね付けられてしまいます。明智光秀が足利義明の命に従い、信長を本能寺で暗殺します。
・日本の鉄砲技術は世界一
日本は1543年の鉄砲伝来から2年で鉄砲の複製に成功します。俗説では八板金兵衛は娘の若狭をオランダ人に嫁がせて、銃底を塞ぐ技術を教えてもらったそうです。当時の日本には銃の底を塞ぐネジの技術がなかったのです。ネジは鉄砲だけに用いられ、明治になるまで広がりませんでした。
日本は刀鍛冶の技術を応用し、鍛造で鉄の不純物を減らし、銃身強度を高めました。それによって日本産の銃は甲冑を打ち抜く破壊力を得ました。堺で分業による鉄砲の大量生産(30万丁)を行いました。当時世界の1/3の鉄砲は日本にあったと言われています。専門職人がそれぞれ火蓋、銃身、銃床を作りました。鉄砲は一丁30万円程度で売られるようになりました。鉄砲や大砲は日本の統一を加速しました。日本の武士は勇敢であり、日本は世界屈指の軍事大国でした。日本は強力な統一政権があったために、分断されずに列強の植民地支配を免れることができました。江戸時代には、武士は傭兵として植民地戦争に参加していました。オランダは日本製の銅製大砲を用いドイツ三十年戦争に勝利しました。
・南蛮人を利用した内戦、大阪の陣
1614年に大坂冬の陣は大阪城を守る豊臣家10万兵(傭兵)と徳川家20万兵の戦いです。徳川軍は大阪城からの鉄砲射撃で打ちのめされて撤退します。鉄砲は守りに威力を発揮します。大砲は責めの兵器です。徳川家康は英国よりブロンズ製のカルバリン(Culverin)砲4門とオランダからより大きいカノン砲12門を購入しました。カルバリン砲は中口径の前装式大砲で、14kgの砲弾を最大6.3km飛ばすことができました。豊臣軍は大阪城に昼夜大砲を撃ち込まれて疲労困憊します。大坂城の本丸に砲弾が直撃し、淀の目の前で侍女が死亡し、降参します。和平交渉では、外堀が埋められ、二の丸、三の丸が撤去されます。
豊臣秀頼にはスペイン人のロドリコ・デ・ビベロ総督が付きます。スペインの目的は布教と領地でした。日本をキリスト教国家にして、中国を攻撃させようとしたのです。ビベロ総督は鉱山技師を派遣する代わりに採掘した銀の50%を要求しました。またオランダ人の国外追放とキリスト教会の設置を要求しました。しかし大阪の陣で敗退します。
徳川家康にはオランダ東インド会社のジャック・スペックス商館長が付きます。オランダは布教よりも利益が目的でした。オランダはスペインから独立するための資金として日本の銀を安価に入手しようとしたのです。佐渡の銀山の埋蔵量は2300トン(高純度)で年間産出量100トンでした。これは世界の銀の産出量の1/3に相当していました。スペックスは銀と交換に家康にブロンズ製の大砲を売りました。城までの距離は500mで、大砲の有効射程距離は1800mでした。家康はオランダの支援と大砲で大阪城の攻撃に成功しました。それを可能にしたのは佐渡の豊富な銀だったのです。
・17世紀のオランダの東アジアでの貿易
17世紀のオランダが東アジアで行っていた交易は興味深いものです。オランダは日本の長崎で棹銅と鮫皮を交換し、南東インドのコロマンデル地域で棹銅を綿織物に交換し、東南アジア各地で綿織物を胡椒や香辛料、染料、鮫皮(エイ)と交換していました。18世紀にはジャワの砂糖を日本へ運んでいました。オランダは日本で銀と生糸を交換し、台湾で日本の銀を中国の生糸と絹織物、陶磁器と交換していました。オランダ本国に綿織物、染料、胡椒、香辛料、銀、絹織物、陶磁器を持ち帰っていました。
鮫皮は濡れても滑らないので刀の柄に用いられていました。オランダ人は鮫皮をタンスの装飾に用いるように提言していました。オランダ人は日本の銅や銀が欲しかったのです。日本人は砂糖や生糸を欲しがりましたが、香辛料は欲しがりませんでした。
1637年にオランダ東インド会社(蘭VOC)の70%利益を平戸商館での交易が占めていました。だからオランダは日本の言うことに従っていました。1640年に平戸の蘭VOCの石造倉庫の取り壊し命令が下されました。建物に刻まれた建築年「1640年」がキリスト教と関係しているという理由でした。翌年カロン商館長は平戸から長崎へ移転させられます。商館長はやってられない気持ちだったと思います。
1662年にオランダは鄭成功に台湾を取られ、中国貿易が停止します。徳川幕府が金銀の持ち出しを禁じます。インド綿がヨーロッパで人気がでて高価になり、東南アジアで売れなくなりました。オランダは胡椒を銀で買うしかなくなります。
・なぜ九州大名はキリスト教を信仰したのか?
九州の大名は、年貢米や参勤交代で財政が逼迫しており、南蛮貿易で領国の経営を安定させたかったから、南蛮人の信用を得るために、キリシタンになったと思われます。また領国内をキリスト教で統一できれば、支配を強化できる思惑もありました。有名なキリシタン大名には、長崎港をポルトガルに献上した大村純忠、黒田官兵衛、蒲生氏郷、黒田長政、小西行長、細川ガラシャ(光秀の娘)などがいます。1580年にポルトガル人宣教師はキリシタン大名を利用し、九州を支配下に置きます。10万人のキリシタン兵力と大砲技術は幕府の脅威でした。
・秀吉のキリシタン政策
1587年に秀吉はバテレン追放令を発令し「20日以内に帰国せよ」と命じます。ポルトガル商人は数百人の日本人を那覇で奴隷として売っていました。オランダ商人は布教しないから、長崎で滞在を許されました。1592年に秀吉は朝鮮出兵(74万人)を行い、キリシタン大名を最前線で戦わせ、勢力を減少させました。このとき明は朝鮮に援軍を送りました。秀吉は、海禁政策をとる明に軍事的な圧力をかけ、中国沿岸から東南アジアにかける海域の中継貿易の主導権を握ろうとしたのです。秀吉はフィリピンに送られる大量の金銀を狙っていましたが、1598年秀吉とフェリペ2世は逝去し、日本とスペインの戦争は回避されました。
8.砂糖キビ栽培と奴隷貿易
・17世紀に英国は三角貿易で富を蓄積
毛織物は暑いインドでは不要です。ヨ-ロッパにはインドや中国が欲しがるような商品はありませんでした。ヨーロッパの商人は、アフリカで銃器や綿織物やガラス玉などを黒人奴隷と交換し、黒人奴隷を西インド諸島などのカリブ海の植民地まで運搬・売却し、砂糖や綿花やたばこなどをヨーロッパに持ち帰る三角貿易を行っていました。イギリスはアフリカで綿織物の需要が高いことに目を付け、綿工業はイギリス産業革命の基盤となりました。イギリスは三角貿易で蓄積された資本で工業国になりました。
カリブ海の植民地では、砂糖キビが栽培され、砂糖キビを絞って砂糖を得ていました。搾りかすの糖蜜(廃糖蜜)も本国に送って、廃糖蜜をアルコ-ル発酵させ、蒸留してラム酒を生産していました。ラム酒はアフリカ大陸で黒人奴隷と交換されました。黒人奴隷をカリブ海の植民地に送り、砂糖キビの栽培と砂糖生産をさせていました。砂糖とラム酒がイギリスの三角貿易を支えました。
・奴隷貿易を支えた安価なラム酒
1627年に英国人入植者がカリブ海のバルバドス島で砂糖キビ栽培を開始しました。20年後に首都のブリッジタウンは砂糖貿易の中心地となり、入植者は大富豪になりました。そこではじめて砂糖生産で生じる廃糖蜜を発酵・蒸留させた安価なラム酒が製造されました。砂糖キビの学名はサッカラムといいます。サッカは甘い、ラムは茎を表します。ラム酒のアルコ-ル濃度は60%以上もありました。アルコ-ル濃度が高い方が船で運びやすくなります。廃物を利用してラム酒は安価に製造され、三角貿易の販売経路を利用して安価に輸送されました。
「ホワイトラム」は活性炭によりろ過された無色透明のラム酒です。サトウキビや糖蜜の味がそのまま味わえ、カクテルに使われます。「ゴールドラム」は樽で熟成したもので薄い褐色をしており、お菓子の香りづけに使われます。「ダークラム」は内面を焦がした樽で3年以上貯蔵して、濃い褐色のもので、風味が強いのが特徴です。
ラム酒は
1)黒人奴隷と交換する通貨の働きをした。
2)奴隷を統制し、苦しみを紛らわす。
のに用いられました。アフリカの奴隷商人はラム酒を最も欲しがりました。
1655年に英国海軍は海兵にビ-ルの代わりにラム酒を支給しました。フランスは自国のブランディ産業を保護するために、植民地でのラム酒生産を禁止します。英国の酒造業者は仏植民地から糖蜜を輸入し、ラム酒を安価に製造しました。こうして英国の酒造業者は仏の砂糖植民地を利したので、英国の砂糖業者は打撃を受けました。そのため1733年にロンドンで糖蜜法が制定されます。政府は輸入糖蜜1ガロンに6ペンスを課税しました。するとラム酒の密輸が横行しましたが、イギリス政府は取り締まれませんでした。このように法の権威が失われたことは、アメリカが独立する原因となりました。
イギリス政府は1765年に印紙法、1767年にタウンゼント法、1773年に茶法を成立させ、アメリカ植民地から税金を取りたてました。それに反抗して1775年にアメリカ独立戦争が起こり、1781年にアメリカがイギリスから独立します。ベトナム戦争でコカコ-ラが兵士の飲み物となったのと同様に、独立戦時中にはラム酒(革命の香)がアメリカ兵の飲み物となりました。
1795年にエドワ-ド・バーノン提督がラム酒に砂糖とライムを加えたカクテルを作り、船員に飲ませました。これによってイギリス海軍は壊血病を防ぐことができるようになりました。フランス海軍はワインを蒸留したブランデ-を飲んでいたので、壊血病になりました。1805年にフランスとスペインの連合国はトラファルガ-海戦でイギリスに敗れます。ラム酒は大国の運命も変えてしまったのです。
・産業革命が各国の東インド会社を廃止させた
イギリスでは、船員や軍人や奴隷などの肉体労働者はラム酒やウイスキ-などの蒸留酒を飲み、工場労働者や知的労働者はコ-ヒ-や茶などのカフェイン飲料を飲みました。コーヒ-はコーヒ-ハウス独自の市民文化を育み、紅茶は産業革命時代の工場労働者を支えました。それによって科学が発達し、工場経営や工場労働ができる近代文化が発達しました。茶はインドと中国の半植民地化、アメリカ植民地の独立を引き起こしました。
産業革命前は、船で香辛料を独占的に買い付けて、自国に持ち帰って販売していました。東インド会社は香辛料貿易を独占する代わりに収益の20%を政府に収めていました。これらは国が貿易で確実に利益を得るためのものでした。また独占貿易により香辛料の購入価格の上昇を防止しました。しかし香辛料の栽培が多くの植民地で可能になると、スパイス貿易は不要になります。また香辛料が大量生産されると価格が低下して日用品となり、大きな利益が得られなくなりました。
産業革命後は、独占貿易が自由貿易に変化します。機械による大量生産が可能になり、綿織物などの大量の商品を様々な国に自由に売った方が利益が得られるようになったからです。政府は大量生産物の販売で利益を上げた全ての企業から税収を得られるようにしました。
・ポルトガルは15世紀に砂糖キビ栽培開始
1419年にマデイラ諸島が発見され、ポルトガルの植民地となります。すぐに黒人奴隷による砂糖キビ栽培が行われました。ポルトガルは、コロンブスが西インド諸島を発見する73年前に、黒人奴隷による砂糖生産を行っていました。本国から1000kmも離れていたので、殆どのポルトガル人は沖合の小島で奴隷労働が行われていたことを知りませんでした。
1999年にマデイラ島の美しい照葉樹林は世界遺産に登録されました。首都はフンシャルで、人口は14万人です。標高1,862mのルイボ山があります。クリスティアーノ・ロナウド選手はフンシャルの出身です。1479年、コロンブスはマデイラの娘と結婚してマディラに住んでいました。マデイラ・ワインは高アルコ-ル度数の高級ワインとして有名です。
・砂糖きびの栽培地の変遷
0)砂糖キビは東南アジア原産。前500年インドで、8世紀にエジプトで栽培、
製糖された。砂糖は十字軍によって、ヨーロッパに伝えられた。
1)砂糖キビはスペイン領のカリブ海のキュ-バなどの島々で栽培された。
先住民や黒人奴隷をつかって砂糖キビ栽培と製糖を行った。
2)16世紀をつうじて世界の砂糖生産の中心はブラジルだった。
黒人奴隷を獲得できたポルトガルは砂糖プランテーションができた。
ポルトガルから伝来した金平糖やカステラには砂糖が使われている。
3)17世紀に入るとオランダ人によって、砂糖きび栽培はイギリス領
やフランス領のカリブ海の島々に移された。
4)18世紀に入るとイギリスなどでお茶に砂糖を入れるようになり、
砂糖の需要が飛躍的に伸び、砂糖が「世界商品」になった。
英国人は中国の紅茶にカリブ産の砂糖を入れて飲んだ!
5)砂糖入り紅茶がイギリスの都市労働者の朝食に不可欠になった。
・砂糖きびの栽培に必要な条件
砂糖キビ栽培には適度の雨量と温度が必要です。土壌の肥料分が消耗するので移動して栽培しなければなりません。製糖は重労働でした。奴隷による規則正しい集団労働が必要でした。精糖の加熱工程に要する薪を得るため、森林伐採による環境破壊が進みました。砂糖は紅茶に入れて多くの市民に飲まれるようになりました。当時イギリスで一番の金持ちは精糖業者でした。1799年植民地のないプロイセンはビ-ト(砂糖大根)による精糖法を開発します。
・黒人奴隷の輸送方法と価格
植民地での商品作物の栽培と加工を支えたアフリカの黒人奴隷についてお話をします。1452年にローマ教皇ニコラウス5世が、異教徒を永遠の奴隷にする許可を与え、非キリスト教圏の侵略を正当化しました。奴隷貿易は1515年~1865年の350年間継続します。
<アフリカ人が奴隷にされた理由>
・植民地の先住民はヨ-ロッパ人による虐殺と疫病で激減し労働力が不足した。
・ベニン王国等は他部族の黒人を白人に売却し、衣類、ラム酒、武器を購入した
・アフリカ人奴隷は熱帯気候と伝染病に強いと信じられていた。
<黒人奴隷の輸送方法>
・侵略や内戦の捕虜、襲撃や拉致された者を海岸の砦に押し込み、出荷した。
・2週間分の食糧で大西洋を横断。15%~34%は飢えと病気で死んだ。
・1隻当たり250人の奴隷。英国は190隻で年間4.7万人を輸送した(1771年)。
・奴隷の総数は1250万人(毎年5万人の奴隷が250年間供給されたことに相当)
・英国では奴隷積載船の需要が増し、リヴァプールの造船業は急速に成長した。
・アフリカに綿製品を販売して、マンチェスターの綿工業も大いに発展した。
<奴隷の価格>
18世紀当時は1ポンド=10万円でした。1ポンド=20シリング=240ペニーの貨幣制度でした。ある記録では1680年に仕入れ5ポンド(50万円)、販売20ポンド(200万円)ですから、現在でいうと奴隷一人当たり150万円、1隻250人として3.75億円の利益になりました。100年後の1780年では、仕入れ20ポンド(200万円)、販売45ポンド(450万円)ですから、奴隷一人当たり250万円、1隻250人として6.25億円の利益になりました。女奴隷は子供を産むので、金8オンス(240g)で販売されたとあります(1772年)。これは1200万円に相当しますが、現代の生涯賃金は2億円と較べると安いです。奴隷の警ら隊に奴隷を監視させていました。逃亡奴隷は罰を与えられました。女奴隷の子どもは奴隷にされました。奴隷の強姦は日常的なことでした。
・奴隷貿易の利益率は?
奴隷貿易の利益率は60%程度あり、通常の利益率15%を遥かに超えていました。1725年英国のブリストル港を出航した100トンのガレオン船の記録によると、
1)鉄砲、綿織物、鉄の塊、銅の鍋、帽子など1330ポンド分の積み荷をのせ、
西アフリカ海岸まで運び、240人の黒人奴隷と交換した。
2)奴隷をカリブ海沿岸の砂糖農場に運び、1人あたり13.5ポンドで売却した
とあります。従って
・売上高 = 13.5(ポンド/人)×240人= 3240(ポンド)
・粗利益 = 3240-1330 = 1910(ポンド)
・粗利益率= 粗利益/売上高 = 1910÷3240 = 60% >>15%(通常)
となります。18世紀末には、奴隷は1人50ポンドに高騰しました。その理由は
(1)航海での奴隷の死亡率は非常に高かった。
(2)海岸近辺で奴隷を乱獲したため、奴隷の調達コストが上がった。
そのため鉄砲を売って、内陸部から奴隷を調達しました。奴隷を家族単位で所有し、子ども奴隷を産ませました。奴隷を買う必要がなくなるからです。奴隷商人は、解放された黒人の一家を襲い、再び奴隷として売ることもありました。たとえ奴隷であっても、イギリス本国に一歩でも入れば、自由人になれたと言われています。一方イスラム世界にも、スラブ人やゲルマン人の奴隷がいました。しかし奴隷の刑罰は自由人の半分で済みました。7歳未満の奴隷は母親から離して売ることは禁止されていました。
・英国の奴隷船ブル-クス号
奴隷船に積まれた奴隷はガレオン船に丸太のように収納されました。奴隷の男女比は男63%、女37%程度でした。食事はイモ類、ナタマメ、バナナなどを粉状にした家畜の餌でした。35才で商品の価値は半減しました。奴隷船15隻に1隻は反乱がおきました。黒人奴隷に積荷の損害保険をかけ、病死しそうな奴隷は数十名単位で海に投げ込まれました。奴隷要塞間で奴隷の強奪が横行していました。奴隷と船員の船上死亡率は殆ど同じでした。
・奴隷貿易に使われたガレオン船
16世紀の中頃から、スペインではガレオン船という3本~4本マストの大型帆船が使われるようになり、スペインのマニラとメキシコのアカプルコを結ぶガレオン貿易で活躍しました。
・荒廃する西アフリカ諸国
アフリカでは最も儲かる産業が奴隷貿易だったため、伝統的な手工業の発展が廃れてしまいました。住民が連れ去られた後、村落や田畑が荒れ果てました。特に辺境の内陸地方は壊滅し、多くの民族と伝統文化が失われました。売った側と売られた側の民族対立が激しくなり、武力衝突に発展しました。植民地では平和維持のためと称して列強が介入し、支配を強め、キリスト教による完璧な収奪システムを築き上げました。ダホメ-王国では、度重なる奴隷獲得戦争で男性の絶対数が減少し、1.5万人の女性兵士が軍の主力となっていました。彼女らは裸ですが、鉄砲で武装していました。女性兵士は一人当たり50人の奴隷を抱えることが許され、タバコやアルコールが支給されて待遇面は悪くなったようです。1894年にダホメ-王国はフランス軍に敗れて植民地となります。西欧によるアフリカからの奴隷輸出は、ダホメ-のような戦士型小国家を乱立させました。アフリカ原住民は戦争や奴隷狩りから逃れるためにイスラム化していったとも考えられます。
・奴隷が解放された理由
奴隷貿易はイギリスでは1807年、フランスでは1817年、スペインでは1820年に廃止されました。奴隷貿易が廃止された理由は、奴隷が可哀そうだからではなく、奴隷貿易の利益が低下したからです。具体的には
1)奴隷の卸売り価格が上昇した。
2)奴隷が生産する農産物の価格が低下した。
奴隷が解放された理由は、奴隷を解放した方が、資本家が利益を得られるからでした。1769年ワットの蒸気機関が発明され、イギリスで産業革命が起こります。機械化により、やがて生産性が飛躍的に向上しました。しかし商品を買う人がおらず、製品在庫が溜まってしまいました。そこで奴隷を解放して労働者にして、稼いだ金で製品を買わせることにしたのです。
アメリカ南部はイギリスに綿花を輸出していたので、イギリスが標榜する自由貿易を支持していました。北部は工業立国を目指していましたが、ヨーロッパに勝ち目はなかったので、保護貿易を望んでいました。貿易形態の利害の対立からアメリカ南北戦争が始まります。アメリカの工業化のために奴隷は開放されたのです。しかし差別は容易にはなくなりませんでした。
9.コーヒ-ハウスによる市民革命
・絶対王政時代の近代文化
1.科学の大いなる発展
科学的な思考法は、教会の教義を合理的な証明で覆すようになりました。ルネサンス時代は、個人の能力を前面に発揮して活躍する実力社会になりました。1628年にジェームズ1世の侍医ハーヴェ(1578-1657)は血液循環説を提唱します。ハーヴェは心臓は血液のヒータ-ではなくポンプであることを明らかにします。
ボイル(1626-91) 近代科学の父 アイルランド人貴族
ニュ-トン(1642-1727) プリンキピア 万有引力で人は地球から落ちない
リンネ(1707-78) スエ-デン人 植物を統一的に分類した人
ラヴォアジェ(1743-94) 質量保存の法則 税金を横領して研究費に充てる
ジェンナ-(1749-1823) 種痘法を開発 他人に注射するかなり怪しい人
2.近代的世界観の確立
経験主義と合理主義の哲学が発展し、科学的かつ世俗的な近代的世界観が形成されました。
・フランシス・ベ-コン(1561-1626) 「新オルガヌム」 4種類の偏見を紹介
帰納法 観察と実験で得られた個々の事例から、一般的理論を導き出す
・ルネ・デカルト(1596-1650) 「近代哲学の父」 「方法叙説」
演繹法 前提を立て、そこから論理的に結論を導きだす。
人間の理性を認識の基礎にして、世界を論理的に把握する
スピノザ(オランダ人)、ライプニッツ(ドイツ)、パスカル(フランス)
・カンド(1724-1804) ドイツの批判哲学
認識とは、理性が与えた形式で経験を理解すること。理性の限界を考察、批判
・絶対王政を批判する思想
1.市民階級の急成長
・コーヒ-ハウス 店内では各種の新聞や雑誌の閲覧が可能
・サロン(社交場) 貴族・上流階級の女性が主催
・カフェ(フランス) 市民が政治文化を議論
2.新思想の普及
1)自然法(普遍的ル-ル)
・グロティウス(1583-1645) 「近代自然法の父」
三十年戦争の惨禍から国際法の必要性を提案
2)社会契約説
・ホッブズ(1588-1679) 「リバイアサン」(1651)
ル-ルの必要性から絶対王政を養護した。
・ロック(1632-1704) 「統治二論」
政府とは市民の財産や幸福を守るために存在すると主張。
・ルソ-(1712-1778)
人民主権の国家が理想的だ。今のフランスはおかしい。
3)啓蒙思想
・ヴォルテ-ル(1694~1778) 「哲学書簡」 王権神授説を批判
・モンテスキュ-(1689~1755) 「法の精神」 三権分立を主張
・ディドロ、ダランベ-ルら 「百科全書」 世俗的世界観の形成
・コーヒ-ハウスは近代文明の発祥地
アフリカのコーヒ-はアラビアに伝えられ、イスラム教徒は宗教行事の間に居眠りしないためにコーヒ-を飲みました。どこでも宗教行事は眠くなるのですね。元々コーヒ-ハウスはオスマン帝国のイスタンブ-ルで発展しました。当時イスタンブ-ルの街には600件ものコ-ヒ-ハウスがあったと言われています。イスラム教徒はワインなどのアルコ-ル飲料を飲みませんでした。酔ってアッラーの神を忘れることは許されないからです。このイスラム文化が酒浸りのヨ-ロッパ人を正気にしたのです。
1642年にイギリスで清教徒革命がおこり、絶対王政が倒れました。1652年にはロンドンにもコーヒー・ハウスが開店しました。コ-ヒ-の栽培地はイエメンで、ベネチア経由でロンドンに来ました。コ-ヒ-はアルコ-ル飲料に代わる新しいカフェイン飲料でした。カフェイン飲料という世界商品は世界を全く新しい姿に変えたのです。
1660年の王政復古、1666年のロンドン大火を経て、コ-ヒ-ハウスは1000軒以上に増加し、民衆のたまり場となりました。そこではチョコレ-トかコーヒ-1杯でいつまでもいられました。コ-ヒ-ハウスでは身分の区別なく人々が同席して議論をし、情報交換をしました。アダムスミスは国富論をコ-ヒ-ハウス「ブリティッシュ」で書きました。
コ-ヒ-ハウスは同業者が集まるようになり専門化していきました。まさにコ-ヒ-ハウスから王立協会と科学者(科学技術)、新聞社と出版社(ジャーナリズム)、文学(小説)、政党、演説館(民主主義)、株式会社、保険会社、船会社、銀行(金融)、証券会社、採鉱会社などが一斉に生まれたのです。ロンドンは世界金融の中心地となり、植民地戦争への資金を提供しました。カフェインによって市民国家と科学技術を両輪とする近代文明がイギリスで開花したのです。
・カフェから起きたフランス革命
1726年に小説家のフランソワ・ヴォルテ-ルがイギリスに追放されます。彼はニュ-トンとロックの影響を受け、啓蒙思想家となり、他人の人生、健康、自由、平等を尊重する合理的な考え方を啓蒙します。1750年にフランスのカフェは600軒ありました。ロンドンの喫茶店は言論の自由がありましたが、女人禁制でした。パリの喫茶店は誰でも入れましたが、政府の監視下にありました。1772年にヴォルテ-ルらは百科全書28巻を完成させます。宗教界は合理的で世俗的な世界観に反発しました。1789年にカフェ・ド・フォアで、ネッケル罷免に反発して、弁護士カニ-ユ・デムランが革命を宣言します。フランス王室の借金を国民が負担する矛盾が革命を引きおこします。フランス革命はカフェから起きたのです。
<行きつけのカフェの例>
カフェ・パルナス :ルソ-、ディドロ、
カフェ・プロコ-プ :ダランベ-ル、ベンジャミン・フランクリン
カフェ・アングレ :役者
カフェ・アレクサンドル :音楽家
カフェ・デ・ザルム :軍人
カフェ・デ・ザグ-グル :売春宿
・茶は貴重品から日常品に変化
お茶が中国から世界に拡散し、アメリカ独立を促すまでの歴史を以下に簡単に示します。
780年 唐の陸羽が『茶経』で茶の栽培方法と飲み方について紹介する。
茶の塊は通貨として使用された。 茶のタンニン酸には殺菌効果あり
従来中国は米や粟のビ-ルを飲んでいた。モンゴル人は馬乳酒。
1191年 日本の栄西が茶の健康効果を讃えた。
1610年 オランダ船に初めて茶が積まれた。
1635年 サイモン・ポ-リ-医師(独)が「茶を飲むと死期が早まる」と警告。
1641年 オランダ人医師が茶の健康効果に言及。1日10杯以上飲みなさい。
1660年 この時期、茶100gは10万円、コ-ヒ-100gは2万円もした。
1662年 キャサリン王妃がイギリス王室に茶を飲む習慣を導入した。
1699年 茶6トンの輸入量。100年後には1.1万トンに拡大し、価格は下落した。
1717年 ト-マス・トワイニングがコーヒ-ハウスで女性に茶を出す。
1744年 茶5000トン輸入 税収の10%を占める。
1757年 リッチモンドの乞食らが紅茶を飲んでいた。茶は水の次に安い飲み物。
1773年 ボストン茶会事件。
1776年 アメリカ独立宣言
・カフェインの覚醒作用
カフェインの覚醒機構が解明されたのは割と最近のことです。人が覚醒しているのは、脳の結節乳頭核からヒスタミンが大脳全体に拡散されているからです。人が眠くなるのは、アデノシンが脳の腹側外側視索前野を活性化し、結節乳頭核のヒスタミン放出を抑制するからです。カフェインは、アデノシンが腹側外側視索前野を活性化するのを抑制するので、覚醒作用を引き起こすと考えられています。つまりカフェインは、アデノシンの誘眠作用を妨げるので、大脳を覚醒させるということです。
アデノシンはエネルギ通貨であるATP(アデノシン三リン酸)の一部です。ATPは植物にも動物にもあります。動物では筋肉活動により分解されたATPからアデノシンが生産されます。だから運動した後は眠くなるのです。アデノシンはプリン環に糖(リボ-ス)が結合した構造をしています。プリン環を酸化して酸素を2つ付けたのがキサントシン(xanthosine)です。植物はメチル化変換酵素によって、キサントシンから糖を外し、プリン環に3つのメチル基(CH3)を付加させてカフェインを合成しています。カフェインには他の植物を寄せ付けないアレロパシ-作用があります。またカフェインを含んだ蜜を吸ったハチは覚醒して蜜の在処をよく記憶すると言われています。
メチル化したカフェンは大脳脂質を拡散し易くなります。カフェインはアデノシンと類似しているので、神経細胞のアデノシン受容体A2Aを遮蔽します。するとドーパミン受容体D2Aがアデノシンの抑制を受けなくなるので、覚醒が維持されます(2002年)。カフェインは脱メチル化酵素で代謝されて尿酸になり排出されます。ちなみにヒトは尿酸値が極めて高い動物です。尿酸には抗酸化作用があるので、人は長生きするとの学説があります。
カフェインの摂取量は1日400mgが限界です。致死量は2gです。マグカップ1杯250mlのコーヒ-には、80mg程度のカフェインが入っているので、4杯くらいに制限した方がいいです。喫煙者はカフェインの覚醒作用が効きません。
10.イギリスが経済発展した理由
・ペストによる人口減少で毛織物産業が発展
1348年9月に黒死病(ペスト)がイギリスに上陸します。黒海で貿易をしていたジェノバ商人の毛皮の服に付着したノミがペスト菌を媒介したと言われています。翌年にペストはフランスやロシアにも拡散しました。イギリスの毎年の死亡率は3.5%程度でした。ペストのせいでヨ-ロッパの人口の30%~40%が失われました。イギリスでは特に深刻な人手不足が生じ、農民の賃金は2~3倍に上昇しました。農民は農園から逃げると罰せられましたが、お金が溜まれば、都市に逃げるようになりました。1年間逃げ延びれば、自由の身になることができたからです。
1351年には低賃金の農村労働力の確保と物価統制を目的に、労働者規制法が発布されます。これは「60歳以下の無職の者は、領主の元に戻り以前の条件で就労しなければならない」という法令で、従わない者は投獄されました。1377年の人頭税を機として、1381年にはワットタイラ-の農民一揆がおきます。タイラ-らはロンドンを占領し,国王リチャード2世に農奴制廃止などの要求を認めさせましたが、鎮圧されます。
ペスト流行を契機に農業畜産技術が進歩します。人手不足により耕作地が余ったので、地代が安くなり、食料価格や家畜の飼料が安くなりました。余った耕作地にクロ-バやイガマメを撒いて牧草地にして、牛や羊を飼う人が増えました。農地を牧草地にして休ませると小麦の連作障害を防げることが分かってきました。
農業畜産技術の進歩により、イギリスでは羊毛の品質が向上し、梳毛(そもう)織物(worsted fabric)が開発されました。梳毛糸とは羊毛の短い毛を梳 (す) いて除き、2.5cm以上の長い毛のみを並べて紡いだ糸のことです。梳毛糸で織った毛織物は、従来の紡毛糸より表面がなめらかで、薄手でながら緻密で、弾力と張りがあるのが特徴です。梳毛織物はイギリス初の世界商品になりました。
イギリスは金融と貿易産業が活発になっていき、高賃金を求めて都市人口が増加します。自立農民の中には農地を売って、都市に移住する人も出ました。1500年のロンドンの人口は5万人でしたが、200年後には50万人に増加します。ロンドンからの輸出品の74%は毛織物であり、ロンドンの25%の人が輸出産業に従事していました。1500年の時点でイギリスの都市人口は7%、農業人口は74%でしたが、1800年には、イギリスの都市人口は30%に増え、農業人口は35%に減りました。農民は封建君主に搾取されていましたが、都市化によって農村は人手不足となり、農民の待遇は改善されていきました。農奴制は14世紀末から崩れ始め、16世紀末には完全に崩壊しました。
・国家が国民を搾取した南海泡沫事件
イギリスでは株式会社を使って巧妙に王室の借金を国民に負担させます。1711年に大蔵卿ロバート・ハーレーが南海会社を設立します。ハーレ-はイギリス政府の財政危機を救うため、国債の一部を南海会社に引き受けさせ奴隷貿易による利潤でそれを賄おうとしましたが、会社は振いませんでした。1718年に南海会社が発行した富くじが大成功し、投機ブ-ムが起こりました。1719年、巨額の国債引き受けの見返りに、額面等価の南海会社株を発行し、国債保有者の国債を時価等価の株券と交換させました。例えば南海会社は額面200ポンドの国債を額面100ポンドの株(時価200ポンド)と交換します。時価等価の額面200ポンドの株券を時価400ポンドで市民に売って、差額200ポンドの利益を不当に得ていたのです。1720年6月に南海会社の株価が急騰・暴落し、多くの投資家市民が被害を受けました。王立造幣局長官のニュートンは2万ポンド(1億円)の損失を被りました。ニュ-トンは金持ちだから大丈夫だったのでしょう。同月、政府が株式会社を禁止し、会計監査制度が導入されました。イギリスは失敗から学び、ウォルポ-ル首相は、王室ではなく、議会に国債を管理させることにしました。
・ジョン・ロ-のミシッシッピ計画(フランス)
1715年にルイ14世は30億リ-ブルの負債(国家歳入20年分)を残して逝去します。1694年にジョン・ロ-はロンドンで貴族の娘を巡って決闘し、殺人罪で指名手配となり、アムステルダムに逃亡し、銀行家になります。1716年にジョン・ローはルイ16世の経済ブレ-ンになります。彼はフランスの経済不況の原因は通貨不足にあると考え、不換紙幣を発行させます。1718年に王立銀行は1800万リ-ブルの銀行紙幣を発行します。ローは外国為替銀行を説き伏せてネットワークを作り、海外貿易の決済にその紙幣を使えるようにしました。王立銀行の紙幣は納税も可能であるとして、紙幣の信用を高めました。
1719年に王室はミシシッピ会社を設立します。これはフランス領ルイジアナの都市開発用の会社でした。市民投資家は正貨で株券を購入しました。会社は王立銀行の紙幣を正貨で購入し、保有者の国債を株券と交換して、王室の借金を引き受けました。1720年1月に王立銀行は16億リ-ブルの紙幣を発行しました。紙幣は2年で90倍になりました。ミシシッピ会社の株価は10倍に増加し、市民が株を購入しました。しかし1720年5月に王立銀行で取り付け騒ぎが発生し、ミッシシッピ会社の株価は暴落します。市民投資家が大損害を受けてしまいました。ローは財務長官を辞任し、国外逃亡し、9年後にベネチアで死亡しました。ニクソンが金本位制を手放してブレトンウッズ体制が終わるのは1971年です。ジョン・ローはよく言えば250年も時代に先んじていたことになります。
1744年にフランスはイギリスとインドと新大陸を巡って植民地争奪戦を再開します。1763年のパリ条約では、イギリスが勝利し、フランスは戦費を浪費します。イギリスはフランスからカナダとミシシッピ川以東のルイジアナを獲得します。フランスの財政赤字は40億リ-ブルとなり、ブルボン王朝が崩壊します。1775年にはアメリカ独立革命が起こり、1789年にはフランス革命が起こり、急進派が政権を握ります。1793年に急進派政権は債務者ルイ16世と債権者貴族らを処刑して問題を解決します。
・イギリスのウイスキ-が琥珀色になった訳
日本には日本酒、中国には老酒、フランスにはワイン、ドイツにはビール、ロシアにはウォッカ、そしてイギリスにはウィスキーがあります。現在のウイスキーが誕生したのは、1790年代にイギリス政府が、植民地戦争に必要な資金を得るために、ウイスキーの製造に必要な蒸留器の免許に15倍の税を課したことに由来します。スコットランドのウイスキー業者の一部は、山に入り、泥炭で蒸留した密造酒を作るようになりました。シェリーの空き樽に溜めて、少しずつ売ったのです。スコッチ・ウイスキーは、ピートの煙をしみ込ませたモルト(大麦麦芽)を原料にし、樽で熟成して琥珀色になりました。
・イギリスで石炭の価格が低かった理由
中世までのイギリスの一般的な家屋には煙突がなく、背の低い暖炉で薪や木炭を使って炊事をしていました。煙は天井近くの換気窓から逃がしていました。イギリスの石炭は硫黄分が高いため、臭気が強く、煙突が必要でした。石炭は背の高い暖炉でないと効率よく燃焼しませんでした。従来の家屋では石炭が使えなかったのです。
下図に炭田があるミッドランド地方における木炭と石炭の価格推移のグラフを示します。縦軸は同じ熱量を得るのに必要な燃料の価格を示しています。1540年から1640年までイギリスでは石炭は木炭の半額でした。1640年から1700年にかけて、石炭の価格は変わりませんでしたが、木炭の価格は上昇し石炭の7倍になりました。
毛織物産業の成功により、1550年代以降、ロンドンの人口は100年で5万人から20万人に増え、都市圏は広がり、絶えず家屋が新築されるようになりました。ロンドンでは木材の価格が急騰し、石炭の2倍以上になりました。当時のイギリスの林業では、ほぼ15年周期の萌芽更新が行われていましたが、木材の供給が追いつかず、遠方から購入したので価格が上昇したのです。
1666年9月にロンドン大火事件が生じ、1万3200戸の家屋が燃え落ち、教会や市庁舎などの公共建築も多数が崩壊しました。再発防止のため、ロンドンでは木造家屋の建築が禁じられました。木材価格は石炭の3倍以上高くなりました。新築の際には安価な石炭が使える石とレンガと煙突のある家屋が建てられたのです。拡大した石炭の需要に応えて、精力的に炭鉱が開発されたため、19世紀まで石炭の価格は安定していました。
1570年に23万トンだったイギリスの石炭生産量は、1700年には300万トンに、1800年には1500万トンに達しました。2位のベルギ-は200万トンにすぎませんでした。炭鉱のあるミッドランド地域では石炭はもっと安かったので産業革命は炭田付近の田舎町からはじまりました。バーミンガム鉄山とミッドランド炭田を背景に、製鉄工業が発展しました。
・イギリスで産業革命が起こった理由
産業革命には投資が必要です。それには利子を取って投資を行う資本主義が不可欠です。現代では考えられませんが、カトリック教徒やイスラム教徒は利子を取ることを禁じられていました。カトリック教徒は利子を取ると、協会にキリスト教徒として埋葬して貰えなかったのです。しかし利子を認めたプロテスタントの国々の中でどうして最初にイギリスが産業革命に成功したのかは興味深いところです。
イギリスで産業革命が起こった理由をいくつかあげます。その理由としては、宗教的理由、文化的理由、地下資源や科学技術などの理由、金融的理由、経済的理由など様々な理由が考えられます。
<イギリスで産業革命が起こった理由>
1.カフェイン文化の導入(知的議論と工場労働。他の西欧国はアルコ-ル文化)
2.農業に不向きな土地と気候 (農民は高賃金の工場労働者に転職)
3.プロテスタントの労働倫理 (金融活動や工場労働を奨励)
4.世俗的で弱い王権 (宗教的な寛容性、新文化の受容性が大)
5.ジェントリの強い発言権 (労働者の確保、綿織物工場の建設)
6.科学と哲学の伝統 (古典力学、経験哲学、古典派経済学は機械技術を発展)
7.豊富な石炭資源 (反射炉、コークス、パドル法による錬鉄の発明)
8.効率的な運河網 (船による木材や資材の運搬が容易)
9.高炉製鉄による大量の鋳鉄砲生産 (強力な軍事国家)
10.高度な機械式時計の製造技術 (時計技術を綿織機製造に応用)
11.奴隷貿易による資本蓄積 (新興企業への積極的な融資)
12.高い都市労働者の賃金 (農奴制の崩壊による都市労働者の増加)
資本市場の成熟度でいえば、当時のオランダもイギリスに後れを取っていませんでした。しかしイギリスでは人件費が高かったので、織物などの生産労働を機械に置き換えると生産費用を低く抑えることができました。またイギリスでは石炭が安かったので、燃費の悪い蒸気機関でも何とか利益を出すことができました。その結果、イギリスは革新技術に投資しても利益を出せるようになり、産業革命が始まったと考えられます。明治時代に人件費が低い日本が紡績産業の機械化に成功したのは、驚くべきことだと言えるでしょう。
・高炉による製鉄技術
機械やレ-ルや蒸気機関車は鉄でできています。イギリスには炭田と鉄山が隣接していたので、産業を支える製鉄技術が発展しました。1709年にデ-ビ-父子が石炭を乾留してコ-クスを得ます。多孔質のコークスは通気性が良いため、高い燃焼温度が得られる利点があります。コ-クスと鉄鉱石を交互に高炉の中に入れて点火し、送風機で空気を供給すると、コークスから発生したCOで加熱された鉄鉱石が還元されて、鉄が溶けだします。小規模の製鉄技術は紀元前からありましたが、イギリスではコ-クスを用いて大型高炉で大量に鉄を生産する技術が発達しました。
製鉄は酸化鉄から酸素と炭素を除去する技術です。還元剤にはCOを用います。木炭とCO2からCOが生じる反応をブードア(boudouard)反応といいます。温度が上がるほどCO2に対するCOの平衡濃度は高くなり、酸化鉄を還元する力が増加します。鉄鉱石に含まれる石英は、石灰石CaCO3を加えて液体のCaSiO3に変えて除去します。鉄の融点は1500℃位ありますが、鉄の中に4%以上の炭素が含まれていると融点が1000℃程度に下がり、液化しやすくなります。炭素が4%以上含まれている鉄は銑鉄(せんてつ)といいます。銑鉄は冷えると固くて脆くなるので、建材には適しません。炭素濃度を減らすと融点が高くなるので、炭素不純物が低く均一な鉄材を作ることは難しい課題でした。1784年にヘンリ-コ-トはパドル法でコークスを用いて銑鉄から錬鉄(れんてつ)を作ることに成功しました。炭素の含有量を0.1%に減らすと錬鉄が得られます。錬鉄は粘り強く剛性が高いので機械や建材に用いることができます。
日本には鉄鉱石(赤鉄鋼α-Fe2O3)がないので、砂鉄(磁鉄鉱Fe3O4)を用いて、たたら製鉄が行われました。たたらとは炉に空気を送る鞴(ふいご)のことです。磁鉄鉱は安定なので、砂鉄を製錬するのは高い技術が必要でした。
ちなみに鉄の磁性はフェロ磁性ですが、磁鉄鉱やγ-Fe2O3の磁性はフェリ磁性と呼ばれています。鉄鉱石の鉄原子は反強磁性的な配列をしており、原子磁気を相殺するので全体の磁力は小さいです。磁気テ-プやフェライト磁石はフェリ磁性を有しています。
・イギリスの製鉄の歴史
1666年以降イギリスでは、製鉄に木炭を使うと、森林が喪失するので、禁止されました。1709年にアブラハム・デービー父子が石炭を高温乾留してコークスを得ました。コ-クスは野原に石炭を積み上げて粉コークスで覆い、蒸し焼きにして得ました。多孔質コークスにより通気性が改善し、製鉄温度が上昇し、炭素濃度の低い鉄を溶かし易くなりました。
1735年にデービーが高炉にコークスのみを用いて銑鉄(炭素3~4%)を得ました。1766年にクラネージ兄弟が高炉でできた銑鉄を再溶解する反射炉を発明します。反射炉は、石炭の火炎で銑鉄を溶解するため、鉄と炭素が分離できました。1779年にジェームズ・ワットが蒸気機関を改良しました。
1784年英国ヘンリー・コートがパドル法を発明します。反射炉中でコークスにより銑鉄を加熱して、パドルで攪拌しながら空気で銑鉄中の炭素を燃やし、錬鉄を得ました。錬鉄の炭素は0.1%以下です。錬鉄は軟らかく粘りがあり、鍛造が容易な鉄です。イギリスでは錬鉄が建築用構造材や鉄道レール、ボイラー材、造船材など幅広い分野で使用されました。コークスを燃やすためには蒸気機関による送風機が有効でした。パドル法は蒸気機関によって駆動される圧延法と結合し、牧歌的な水車ハンマーを過去のものとしました。パドル法反射炉は1820 年までに 8200 基建造されました。
銑鉄1tの生産に石炭10tを要したので、炭田に近接して製鉄所が設立されました。主要な製鉄業地帯は,バーミンガムを中心とするミッドランド、南ウェールズ、スコットランド南部などでした。1811年にはロンドンにガス街灯がともりました。燃料ガスはコークス生産時に大気中に廃棄していた可燃性ガスを回収して得ました。
・産業革命時代の労働時間(1750年以降)
産業革命時代のイギリスの都市労働者は、1年間に3,500時間以上も働いていました。1日に13時間〜16時間も働かされ、休日は週に1回という状況が一般的でした。現在の日本人の年間労働時間は1,700時間程度ですから、実に当時のイギリスの労働者は2倍も働いていたのです。機械化によって子女の長時間労働が問題になりました。
イギリスの社会改革家ロバート・オウエンは「Eight hours labour, Eight hours recreation, Eight hours rest」のスローガンを掲げ、8時間労働を求めました。そして1847年の工場法改正で、ようやく若年労働者と女性労働者に対する10時間労働の制限が実現しました。1919年の国際労働機関の第1回総会でようやく「1日8時間・週48時間」が国際的労働基準として確立しました。日本では1947年施行の労働基準法で8時間労働が規定されました。
オウエンは空想的社会主義者と評価されていますが、人類愛に燃えた素晴らしい人であったことは間違いないようです。ロバート・オウエンのお墓にはこう書かれています。「ロバート・オウエンは博愛主義を胸に抱いて、厳正な労務管理を心掛け労働条件の改善に取り組み、児童労働の廃止や児童教育の導入を試み、労働紙幣を発行、協同村を建設して公正な経済秩序の樹立を生涯を賭けて目指した。協同組合と労働組合運動の指導者として勇名を馳せイギリス社会主義の歴史に一時代を築いた英雄は、教育の理念と協同の精神を現代に残した」
・イギリスはアヘンを密輸して茶を得た
1780年代イギリス国内で空前の紅茶ブームが起こり、イギリスは清から大量に茶を輸入するようになりました。アメリカ独立戦争により、イギリスは植民地を失います。イギリスの綿製品は清で売れず大幅な貿易赤字を出していました。イギリスは、清に流出した銀を回収しようと三角貿易を開始したのです。
イギリスは植民地のインドで生産したアヘンを密貿易で清へ輸出しました。清はアヘンの代金としてインドへ銀を支払い、インドはその銀でイギリスの綿織物を買わされました。産業革命でインドは1820年から綿織物の輸入国になりました。1838年にはアヘンの量が清の歳出の38%を占めるようになりました。清はお茶で支払うことができなくなり、清の銀が流出しました。これによって清国の物価は2倍に上昇して民衆の生活が苦しくなりました。林則徐らが無交渉で密輸アヘンを没収廃棄したため、イギリスは大損害を被ります。イギリスは清国に交渉を求めましたが、現地の役人は賄賂を貪るだけで上層部には全く連絡しませんでした。それどころか清国軍はイギリス商人や領事のチャールズ・エリオットの引き渡しを要求、処刑することを示唆します。窮地に陥ったエリオットはイギリス母国に艦隊派遣を要請し、1840年にアヘン戦争が勃発します。ユダヤ人のマセソン商会がロビ-活動をしたために、イギリス議会500議席はたった9票差で宣戦布告を決断します。清は戦費調達や賠償金(2.1億両)支払いのために増税したのを契機に、民衆は反発し、太平天国の乱が起こりました。
・世界のGDPシェアの歴史的推移
1840年のアヘン戦争後、中国のGDPは急落しています。
・日本の一人当たりのGDPの推移
・一人当たりのGDPの歴史的推移
国内総生産量(GDP)の推移を見れば、イタリア→オランダ→英国→米国の順に台頭していることが分かります。
・古典経済学の発展
重商主義 コルベ-ル(1619-1683) ルイ14世の財務総監
国家がお金を投資して、輸出産業を育てよ
重農主義 ケネ-(1694-1774)「経済表」
富の源泉は農業生産にあり。政府は経済に関与するな。
古典派経済学
・アダム・スミス(1723-1790)「経済学の父」「諸国民の富」
景気は全て神の見えざる手で自動調節されている。
・リカ-ド(1772-1823) 古典派経済学を確立
・マルサス「人口論」
・産業革命の影響
1.資本主義体制の確立
工場・機械・道具・材料を持っている産業資本家が台頭し、労働者を雇って商品を生産しました。イギリスは「世界の工場」となりましたが、科学技術は後発国に模倣されて、イギリスの貿易赤字は解消しませんでした。金融と奴隷による鉱山開発と商品作物栽培、三角貿易とアヘン貿易による搾取で赤字を補填しました。王室救済のための株や紙幣による詐欺行為で自国民に被害を与えました。
2.問題の発生
1)資本家と労働者の対立
2)都市への人口集中 (働き場所を求めて) 農村の過疎化
マンテェスタ-(綿工業)、バーミンガム(製鉄、機械)、リバプ-ル(外港)
3)労働問題
女性・子供の労働(機械のSWを押すだけ) 男性労働者の給料が安くなる
機械打ちこわし運動 ラダイト運動(1811) 失業した手工業者の暴動が発生
3.各国の産業革命
・ベルギ-産業革命(1830) 繊維、製鉄
・フランス産業革命(1830) 絹織物、資本の蓄積が遅い
・ドイツ産業革命(1840) 重化学工業
・アメリカ産業革命(1830) 労働力不足 南北戦争で奴隷解放
・ロシア産業革命(1861以降) 資金不足 フランス資本を導入(1890)
・日本産業革命(1870以降) 明治政府の殖産興業政策
日清戦争後に綿織物工業、日露戦争後に重工業が発展
11.まとめ
・大航海時代の欧州の経済発展の過程
1)自国にない高価な希少品を欲しがる。 金銀、香辛料、砂糖、茶など
2)ヨーロッパでは内戦が続いていた。 → 鉄砲や鉄器が発達、慢性的財政難
3)地中海貿易で資金を貯めた。 → 金融力の高いジェノバ商人の育成
4)遠洋航海ができる帆船を造る。← オスマン帝国による地中海からの追出し
5)造船技士と航海士を養い雇う。 コンパス、高度計、時計、世界地図の開発
6)海路を開拓し、植民地に港を建設する。 船の維持修理と水の供給をする港
7)船で出かけ他国を侵略して金銀を略奪し、資本を蓄積する。各地の銀山開発
8)軍事力で奴隷を入手して、植民地に運ぶ。 奴隷狩りと奴隷船
9)宗教力で先住民や奴隷に商品作物を栽培させる。東インド会社の植民地経営
10)他国を攻撃して奪う。自国の船や港や植民地を守る。大砲の開発、傭兵雇用
11)植民地から自国に商品作物を運ぶ。 大型ガリオン船の開発
12)自国の労働者に商品作物を加工させて付加価値をつける。 産業革命
13)加工品を自国の労働者に消費させる。 市場開拓、労働者雇用促進
14)加工品を他国に輸出して、資本を蓄積する。インドへの綿織物やアヘン輸出
15)資本を他国に融資して利益を得る。 金融によるグロ-バル経済支配の確立
・数々の幸運な出来事
・王室が宗教内戦で慢性的財政難にあり、常に金銀を欲していた。
・キリスト教の教皇が異民族への残虐な支配を正当化した。手荒な海賊文化。
侵略者や宣教師は異民族からの略奪を平気でできた。極めて低い人権意識。
・北欧人らの森林資源と高い造船技術を利用できた。
・コロンブスは『東方見聞録』を読んで西方航海を志した。
マルコポ-ロが獄中で話したことを獄友が書き留めたのが『東方見聞録』。 マルコポーロは中国で聞いた黄金の国日本に関する噂話を話しただけ。
・新大陸が見つかり、そこに金銀財宝があった。
・アフリカの民族意識が低く、同胞民族を奴隷にして売った。
・天然痘に助けられて、先住民を征服できた。
・宗教革命が起こり、利子徴収を認めるプロテスタントが台頭した。
・オランダ、イギリスは産業振興に励み、政教分離により近代化を成し遂げた。
・コーヒ-ハウスの新興で、科学技術と近代思想が発達した。
・ペストによる人口減少で自立農民が増え、羊毛産業が発達した。
・イスラム帝国は政教一致の多民族国家で、利子徴収を禁じた。
産業資本が育たず、封建領主が既得権益を独占し、民主化を弾圧した。
・グロ-バル経済社会が実現した理由
グロ-バル経済社会は、
(1)物々交換から貨幣経済への経済革命(資本蓄積)
(2)封建社会から市民社会への社会革命(市民革命)
(3)農商産業から商工産業への技術革命(科学革命)
を経て、実現された。
・封建社会は保守的で広域的な交易を制限ようとする。
・宗教社会は利子で利益を得ることを禁じ、産業を阻害する。
・市民社会は自由かつ進歩的で広域的な交易を発展させる。
・実用性、効率性、安全性を追求しても、グロ-バル経済社会に移行しない。
・自国にはない斬新な体験を与える世界商品への欲求が、グロ-バル経済社会の実現に寄与した。
・今のグロ-バル経済社会は過剰消費社会である。
・過剰消費社会が循環型社会に移行するにはどのような革命が必要だろうか?
・対ウイルス社会(=人同士が接触しない社会)は過剰消費を減らすだろうか?
・ボトルネック効果で人類の好奇心が増強
7.4万年、前スマトラ島トバ湖の火山が大噴火(直径100km)し寒冷化しました。地球の気温は5℃低下し、ホモ・エレクトゥスなど全人類の60%が絶滅したと言われています。南アフリカ南端に追い詰められた人類の中で、好奇心のある人たちは、海岸のム-ル貝を食べて生き延びました。そのとき現世人類は数千人になり、ボトルネック効果で子孫の遺伝子の多様性が激減しました。人類は好奇心が強く、食性や社会の変化に適応できる人が多くを占めるようになったと考えられています。
ボトルネック効果の典型例:アメリカ先住民の血液型が殆どO型なのは、氷期にベーリング地峡を横断したごく少数の家族にO型の者が多かったから。
<好奇心>とは、新しい物をもっとよく知りたいと思う感情
・自動楽器が複雑模様を織る織機に進化
850年イスラムの玩具設計者バヌ・ムーサのからくりの書に「ひとりでに鳴る楽器」があります。歯のついた樽が回転すると、レバ-が動き、オルガンのパイプを開閉して自動演奏するというものです。これは人類初のプログラム可能な自動演奏装置でした。この時、初めてハードウエアとソフトウエアが分離したと言われています。その後、オルガンやオーケストリオンを自動演奏させる様々な楽器が開発されました。1745年ジャック・ド・ヴォーカンソン(仏)が紙に穴を空け情報を記録する織機を発明しました。1801年にジョゼフ・マリー・ジャカールがこれを改良し、パンチカードで複雑な模様を織り込むジャカード織機を発明しました。音楽と産業革命は結びついています。
・古代人の気晴らし
生存には必要ありませんが、芸術や遊戯は古くから存在していました。南西ドイツではハゲワシの骨に穴を開けた骨笛が3.5万年前の地層から発掘されています。人工的な音階は祖先に新しい体験を与えたと思われます。1924年には2.5万年前の陶器の人形「チェコのビ-ナス」が発見されました。陶芸は今でも多くの人を魅了しています。モヘンジョダロの遺跡から現代と同じサイコロが見つかっています。テ-ベでは、20スクエアというボ-ドゲ-ムが行われていました。ボードゲームでは、同じル-ルでも、毎回異なる新しい展開を体験できます。斬新な体験はいつの時代でも私たちを探求に駆り立てる原動力となってきたのです。
・歴史の原動力は無知と好奇心
大航海時代の貴族たちは、香辛料には優れた医薬効果があると信じていました。彼らは東洋の神秘を体験させてくれる香辛料に神秘的な好奇心を抱いていました。近世には合理的精神はありませんでした。無知と好奇心によりヨ-ロッパ人は香辛料を求め、東洋の国々に無謀で残虐な遠征をしたのです。銀や香辛料がもたらした富は貿易を活発化し、世界を一つのシステムにしていきました。
歴史には様々の幸運な偶然がありますが、その反応は経済原則に従って必然的に展開していきました。新たな体験を与える世界商品の渇望と供給活動が世界の国々を結び付け、近代世界を形成してきました。そして私たちが何気なく気晴らしに飲む飲み物が世界商品として、未来の世界を形成していくのです。現代では新たな情報という商品が、現実世界だけでなく電脳世界にも広がり、世界の人々を結び付け、これまでにないグロ-バルな社会を形成しています。そしてグロ-バル世界には解決すべき様々な課題が残されています。
みなさまが新しい体験に恵まれることを祈念し、発表を終わります。長時間のご清聴ありがとうございました。
参考文献
以上
「世界商品により形成された近代世界」(前半)
卒業生の皆さん、こんばんは。地球のしごと大学教養学部の三期生の角野雅芳です。これから「世界商品により形成された近代世界」(前半)と題して発表をします。
これからお話する16世紀から18世紀の時代は大航海時代と呼ばれています。この時代は、ヨ-ロッパの国々が遥々大西洋やインド洋を横断してアメリカ大陸や東アジアの国々に出かけて活発に貿易をした時代です。「世界商品」とは、世界中で取引された商品のことです。本講義では、近世の世界商品はどのようなものだったかを紹介し、世界商品が今日のグロ-バル経済の発展に重要な役割を果たしたことをお話しします。近代世界は世界商品の開発と争奪戦により形成されたという事もできるでしょう。世界商品を巡る競争は現代社会でも続いています。その結果地球規模の様々な問題が生じています。皆さんには「ヨーロッパの人々はなぜそのような商品を渇望したのか?」を考えて頂きたいと思います。
1.はじめに
・今なぜ歴史を学ぶのか?
歴史の流れや出来事の因果関係を考えることで、
1)今の社会がどのように形成されてきたか?
2)今の社会の問題の原因は何か?
を知ることができます。それによって
1)先人の苦労のおかげで今の私たちがあることに感謝すること
2)先人の過ちを教訓にして、私たちの生活向上に役立てること
3)良い環境と文化を継承し、子孫の生活向上に役立てること
ができるようになると思います。
それではなぜ今なのでしょうか? それにはいくつか理由があります。
1)研究が進み、様々な新情報が手軽に入手できるようになった。
2)大人になって、総合科学として歴史を深く理解できるようになった。
3)今でも過去と同じ問題を抱えているので、歴史から学ぶことは多い。
例えば、疫病、戦争、差別、支配、貧困、恐慌・・・
また化石燃料資源の枯渇により、私たちの子孫は、電気機械やエンジンのない近世と同じような状況に遭遇すると考えられます。私たちは、子孫のことを考え、
1)近世の生活を知り、有用技術を伝承すること
2)子孫自体と子孫の環境を保全すること
をすべきではないかと思います。
・典型的な歴史の流れ
歴史というのは偶然の出来事の集積ではありません。社会変化の仕方にはある種の必然性があります。以下に典型的な歴史の流れを示します。
1)集団で協力した方が、全体の利益が増えることに気づく。
2)集団が大きくなると、全体を取りまとめる人が必要になる。
3)リーダがメンバ-に仕事を与え、得られた収益を分配する。
4)効率が良くなると、社会に富が蓄積し、リーダの権力が増える。
5)大国になると、国王が宗教的指導者として国を統率する。
6)国王が富と権力を使って、官僚や軍隊を整え、農民を守る。
7)王族が近親婚を繰り返し、王位継承に問題が生じ、戦争になる。
8)王室が慢性的に財政難となり、商人は王室を利用して儲ける。
9)国王が戦費を増税でまかない、怒った民衆が国王を倒す。
10)民衆の議会が王権を制限し、効率的な国家運営をめざす。
・5つの時代区分と経済的特徴
通常世界史は、経済的な特徴により、古代、中世、近世、近代、現代の5つの時代に区分されます。古代は農業社会で領土の拡大とともに財政収入が増えたので、軍事国家が栄えました。中世は宗教の支配の下で地方分権的な都市国家が連携して貿易していました。近世は商工業経営者が絶対王政を財政的に支え、海外貿易を促進しました。近代は市民勢力による王権排除、産業革命と植民地獲得競争が激化しました。現代は領土の拡張競争が飽和し、国が勝手に発行した貨幣が増殖する時代だと考えられます。
・16世紀の世界6地域の国家と商品
16世紀の世界は主に、アメリカ植民地、ヨ-ロッパ、西アジア、アフリカ、インド、東アジアの6つの地域の国家から成ってしました。各国は自国の特産物を他国の特産物と交換して貿易をしていました。他国の魅力的な商品は高値で売ることができます。貿易は大変な利益になったので、権力者である国王や国王が認めた商人が貿易に携わっていました。当時の先進国は東アジアの中国とインドでした。西アジアのイスラム商人は、東アジアの茶や絹織物、インドの綿織物や香辛料を輸入し、陸路でヨ-ロッパ世界に運んで交易をしていました。ヨーロッパは地中海貿易でワインやオリ-ブなどを売って利益を上げていました。
アメリカ大陸が発見される以前の16世紀初頭は、ヨーロッパは、西は大西洋、東はイスラム世界に阻まれて孤立していました。ヨーロッパはイスラム商人が運んでくる綿布や香辛料や染料や金銀財宝を見て、東洋に神秘的な憧れを抱いていました。これらの商品は地中海世界にはありませんでした。写真や録音機がない時代に、ヨーロッパ人が東洋を知る方法は綿布や香辛料や染料しかありませんでした。特に香辛料の鮮烈な香りは東洋に対する憧れを掻き立てました。
2.近世の世界商品
・現代の世界商品は情報サービス
現代の主力の世界商品は情報通信サ-ビスです。コンピュ-タ-ゲーム(ソニ-他)、大規模なソーシャルWEBサービス(Facebook)、人工知能サービスや人材マッチング(グーグル)、ホテル予約サ-ビス(トリバゴ)などが情報通信サ-ビスです。マイカ-リ-ス(オリックス他)や携帯情報端末(アップル社)やスマホ自動決済(ペイパル)などもあります。運動不足の人たちには、フィットネスクラブ(コナミスポーツ他)、飲み水を気にする人にはミネラルウオ-タ・サーバ-(コスモウオ-タ-他)があります。商品は大規模な通信販売サ-ビス(アマゾン)によって供給されます。
・近世の世界商品は銀と有用植物
世界商品には、植物系、動物系、無機物系があります。金や銀は歴史を通じで重要な交易品でした。近世の世界商品の特徴は、胡椒、香辛料、砂糖きび、コ-ヒ-、カカオ豆、茶葉、唐辛子、たばこ、綿花、染料、木材などの植物系商品が多いことです。動物系商品には、絹糸や家畜があり、奴隷や傭兵なども含まれます。
・辺境の貧村ギリシャが大国化した理由
紀元前520年にアケメネス朝ペルシャの大王ダレイオス1世はペルセポリス(イラン内陸部)に都を建設しました。アナトリア(トルコ)地方は東西交易の要所であり、リディア王国のエレクトロン貨(BC670年)は世界最古の硬貨(金銀1:1)です。ダレイオス金貨は純度98%の金貨(17g)です。ペルシャの金銀交換費は1:13で、インドは1:8でした。インドの金をペルシャに行って銀と交換して帰るだけで1.6倍(=13/8)になったのです。つまりインドからペルシャに金が流入することで、ペルシャは大国の信用を得ることができました。
当時、隣りのギリシャは貧村でした。しかしギリシアでは銀山が次々と発見され、ペルシャやインドより高い金銀の交換比により、金が流入して、ギリシャは豊かになりました。金は国の信用、銀は貨幣となり経済活動を活発にします。ギリシアは銀と交換に船と漕ぎ手を得、海軍を増強し、サラミスの海戦でペルシャ軍を撃破しました。
ちなみに1858年の日米修好通商条約では日本の低い金銀比によって、日本の金が大量に流出しました。日本は品質の劣る万延小判を発行して対応した経緯があります。
・サラミスの海戦で活躍した軍船
サラミスの海戦(BC480年)はアテナイの将軍アリステイデスとペルシャのクセルクセス1世の戦いです。ギリシア艦隊は380隻(アテナイ180隻)、ペルシャ艦隊は680隻です。ギリシア艦隊である三段櫂船の漕手は170人(無産階級市民)、水夫・戦闘員は30人でした。漕ぐ座席は片側30席で3段でした。最高速度は18km/h程度です。地中海は弱風地帯なので多くの漕ぎ手が必要でした。海戦は敵船に衝突して青銅製の衝角(ram)で敵船の腹に穴を穿って浸水させるものでした。200人乗りの船を建造できる技術は紀元前からあったのです。
・有用植物の多くは生活に不要で不味い
有用植物 風味 原産地
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・胡椒 辛い インド南部(マラバル海岸)
・唐辛子 辛い 中南米
・砂糖キビ 甘い 東南アジア(北インドで精糖)
・コーヒ-豆 苦い エチオピア
・カカオ豆 苦い 中南米(西アフリカでも生産)
・茶葉 渋い 中国(インドでも生産)
・タバコ、大麻 煙い 中南米(パレンケ)
・香辛料(丁子) 強香 スパイス諸島など
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胡椒や唐辛子は辛く、コ-ヒ-豆やカカオは苦く、茶葉は渋く、香辛料は強香です。砂糖キビを除けば、これらの有用植物の多くは不味いものです。また生活に必要なものではありませんでした。胡椒の原産地のマラバル海岸(Malabar coast)はインド南西部のアラビア海に面する海岸です。マラバル海岸では紀元前6世紀から胡椒の栽培が行われていました。ここは細長い平野の前面に多くの潟湖を抱えた海岸砂丘が連なり、ココヤシ、コショウ、ゴム、コーヒーなどが栽培されています。
・胡椒の辛み成分はピペリン
唐辛子の辛み成分はカプサイシンCapsaicin(1816年)であることは良く知られています。胡椒の辛み成分はピぺリンPiperine(1819年)といいます。ピペリンが抗菌・防腐・防虫などの効果をもっています。どちらも温度受容体TRPV (=Transient Receptor Potential V)を刺激して辛みを生じます。
エジプトに行くと様々の色の胡椒が大量に売られています。これらの違いを覚えておくと上手に胡椒が買えるでしょう。黒コショウは、熟す前の緑色の胡椒の実を収穫して乾燥させたものです。白コショウは、完熟した赤色の胡椒を乾燥後、水にさらして皮を取り除いて得たものです。ピンクペッパーはウルシ科コショウボクの実で、胡椒とは異なります。これはカルパッチョに風味と彩を添えるのみ用いられます。胡椒の成熟した1本のつるからは、乾燥後で2㎏の実(6,000円相当)が収穫できます。300本で180万円程度になります。但し胡椒栽培には多湿環境が必要です。
・胡椒を得るために大航海時代が開始
胡椒の実用的価値は、1)肉の臭みを取る、2)肉の賞味期限を伸ばす、3)肉に風味つける、といったことです。当時、ヨーロッパには、胡椒に代わる生姜やシナモンなどはありませんでした。西欧では冬季に家畜を殺して、肉を保存しました。気温が低く、塩漬けで保存できたので、胡椒は必ずしも必要ありませんでした。
胡椒には幻想的価値がありました。香辛料は‘東洋の神秘’を体験する唯一の方法だったのです。当時の欧州には東洋の地図や写真や映像がありませんでした。また世界の果て‘東洋’にはエデンの楽園があるとの信仰がありました。エデンの楽園は人間が不道徳に堕落する以前の楽園だと信じられていました。
インドの胡椒は殆ど中国に輸出されており、欧州の胡椒は品薄でした。またイスラム商人が中間利益を得たために、欧州の胡椒は高額でした。当時欧州で、胡椒はどれくらいの値段だったのでしょうか? 値段は時代によって異なります。胡椒は金と同じ値段(6000円/g)だったこともあったでしょう。しかし1枚1000円ステ-キに6000円の胡椒を用いる代わりに、新鮮な牛肉を6枚購入した方が安上がりですね。色々な文献によると、当時のヨーロッパの胡椒の値段は今の20倍~30倍の値段だったと思われます。1本15g入りのテ-ブル・コショウ-は、今は150円ですから、当時は3000円~4500円したことになります。胡椒は高価だったので、ポルトガル商人は胡椒を得るために、危険を冒してインドまで航海したと思われます。
・大航海時代に野菜は世界中に拡大
大航海時代以前にはヨ-ロッパには海外の野菜は殆ど入ってきませんでした。大航海時代にヨーロッパ、アメリカ大陸、東西アジアの野菜は世界中に広まり、その後100年から200年経って、世界の人々の食生活は大きく変わりました。野菜の原産地を知ると、原産地の気候から栽培方法が分かります。ジャガイモとトマトは南アメリカ大陸、キャサバは中央アメリカが原産地です。ブロッコリ-やレタスはヨ-ロッパが原産地です。ナス。ズッキーニ、ピ-マンは南インドが原産地です。ほうれん草、玉ねぎ、大根は中央アジアが原産地です。タケノコ、銀杏、梅、大豆は中国が原産地です。モロヘイヤはアフリカが原産地です。
多くの野菜には毒が含まれています。これは野菜が自分自身を外敵から守るためです。人類は矢先に毒を塗って狩りをしていました。大昔は食中毒と戦死が主な死亡原因でした。昔の人は現代人より毒に関する高い見識を持っていました。
イタリア人がパスタを食べるようになったのは、14~15世紀です。軟質小麦が栽培されていた北イタリアでは生パスタが、デュラムなど硬質性の小麦がとれた南イタリアでは乾燥パスタが作られていました。パスタは粉チ-ズとはちみつをかけて食べられていました。今日のイタリヤ料理で有名なスパゲティ・ポモドーロ(トマト味)はありませんでした。トマトは、アステカ帝国を征服したエルナンコルテスが観賞用に持ち帰ったと言われています。17世紀末にフランスやドイツで品種改良され、18世紀にイタリアにトマトが食材として入り、19世紀になってようやくトマトソースが誕生します。日本にはオランダ人を介してトマトが入ってきました。
トマトはツル科の植物の果実(フル-ツ)ですが、1893年に米国の最高裁が10%の関税対象とするために、トマトを野菜とする判決を下しました。それ以来、トマトは野菜として扱われています。
・野菜に含まれる毒物
トマトの熟した実に毒は含まれていませんが、葉や茎にはトマチンという毒物が含まれています。大根の様に野菜の根と葉がすべて食べられるとは限りません。トマトとじゃがいもは同じナス科の植物なので、これらの毒は類似しており、ステロイド環が含まれています。モロヘイヤの葉は、粘り気があり、栄養価も高いです。しかしモロヘイヤの茎や種子や鞘にはストロファンチジンというステロイド環を有する毒が含まれているので要注意です。銀杏のギンコトキシンはビタミンB6と構造が似ているので、容易に吸収されて中毒を引き起こします。梅やア-モンドの仁に含まれるアミダグリンは青酸を発生させます。タケノコに含まれるタキシフィリン(青酸配糖体)も青酸中毒を引き起こします。タケノコは必ず茹でて食べなければなりません。タケノコのえぐ味はシュウ酸によるものです。シュウ酸は腸内でカルシウムと結合して排泄されます。シュウ酸を摂りすぎると、尿中でカルシウムと結合し、尿路結石の原因となります。
・ジャガイモの歴史
ジャガイモは16世紀に南米アンデスからヨーロッパにもたらされました。最初、ジャガイモは家畜用に用いられ、ヨーロッパの人々は食べませんでした。なぜならジャガイモは聖書に載っておらず、種芋で増えるので、「悪魔の作物」として嫌われていたからです。しかしジャガイモには様々な利点があり、ヨ-ロッパの人口を激増させました。プロイセンの啓蒙専制君主フリードリヒ2世は自ら領地を巡回してジャガイモ普及させました。食は非常に保守的です。トマトもジャガイモも輸入されてから食用になるまで200年くらいかかっています。
<ジャガイモの利点>
1.寒冷な気候に耐え、高地や痩せている土地でも育ち、収量が大きい。
2.戦争で畑が踏み荒らされても収穫できる。
3.農民にジャガイモを食べさせれば、領主は美味しい麦を食べられる。
1728年にスコットランドで、1748年にフランスでジャガイモの栽培が禁止されました。ソラニン中毒が多発したからです。英国でジャガイモの料理本が出版されて、ジャガイモが多く食べられるようになりましたが、皮や芽、皮の緑色の部分を取り除くように指導されていなかったようです。
現代ではソラニンの含有量は100g当たり2g程度ですが、当時は小型のものが多く、皮部70mg、可食部 100 gあたり30〜90 mgのソラニンが含まれていました。4個以上食べると200mgを超え、頻脈、頭痛、嘔吐、胃炎、下痢などの中毒症状が現れたのです。子どもはもっと少量で中毒するので注意が必要です。ソラニンは茹でても分解しません。200℃の油で5分間上げると、ソラニン含有量は元の60%程度に低減します。
1845年、アイルランドでジャガイモが不作で飢饉が発生し、100万人の死者と150万人の難民がでました。ケネディ大統領の祖父様はその時の難民の一人でした。19世紀にはジャガイモは重要な主食となっていたことが分かります。
<ジャガイモの保存方法>
1.低温3℃~10℃で貯蔵し発芽を防ぐ。
2.海外産には発芽防止剤クロロプロファムが用いられる。
3.チューニョに加工すると保存がきく。チューニョは凍結と乾燥、足踏み脱水して乾燥させます。
・キャサバの歴史
キャッサバは中南米原産の多年生植物の芋です。キャッサバは女性に人気のタピオカの澱粉原料です。16世紀にキャッサバは黒人奴隷の船上食料に利用されていました。東南アジアでは家畜飼料として栽培が拡大しています。キャサバの葉を発酵させたものにイモのチップを混ぜ、更にコメや魚粉を混ぜてつくります。キャサバの葉は栄養価が高いですが、青酸毒があるので天日干しをします。
キャサバの収量はサツマイモ(10t)やジャガイモ(12t)の3倍以上あります。キャサバは世界で8億人の食料を支えており、食糧危機を支える植物として期待されています。観葉植物にもなります。茎25cmを地面に刺して苗をつくります。ジャガイモもキャサバも新大陸からヨ-ロッパにもたらされた芋です。
<キャサバの利点>
1.高温、乾燥気候に強い。
2.酸性土壌、痩せ地でも栽培可能(10トン/ha)
3.高収量(11カ月で30~100トン/ha)
3.ヨーロッパが大航海時代を迎えた理由
・西欧には世界商品となる有用植物なし
ヨ-ロッパには、茶、胡椒、綿花などの世界商品になるような有用な植物はありませんでした。当時ヨーロッパでは地中海沿岸のシソやセリ科の香草を煎じて飲んでいました。16世紀初頭のヨ-ロッパは寒冷化が進み、フランスのマルセイユ港付近の海が氷ることもありました。胡椒や生姜や香辛料は気温の低いヨ-ロッパでは育ちませんでした。世界を旅して、有用植物を発見して、どこか南国の無人島で栽培するしかなかったのです。ヨ-ロッパ諸国が世界進出をせざるを得なかった背景には、ヨ-ロッパが地理的に孤立していたこと、有用な植物や鉱物に恵まれなかったこと、人件費も高く特産物が高値で売れなかったことなど不利な条件がいくつもありました。
大航海時代にスペインはアメリカ大陸を発見します。ヨ-ロッパとアメリカ大陸は大きな影響を及ぼし合います。アメリカ大陸からヨーロッパにもたらされた物の多くは、主食となる穀物、嗜好品、野菜でした。これらはスペイン料理やイタリア料理などのヨーロッパ諸国の食文化に大きな影響を与えました。ヨ-ロッパ人はアメリカ大陸で砂糖キビや綿花やたばこなどの有用な植物を栽培することができました。
ヨーロッパからアメリカ大陸にもたらされた物は、キリスト教、車輪、鉄器、銃などの文明の品々、家畜とヨーロッパ人入植者自身と天然痘などの伝染病でした。それによって5000万人以上のアメリカ大陸の先住民族が滅びました。
<アメリカ大陸からヨーロッパにもたらされたもの>
1)メキシコ原産のトウモロコシやサツマイモ、
2)東洋種のカボチャ、トウガラシ、熱帯アメリカ原産のカカオ
3)アンデス高原原産のジャガイモ、カボチャ、トマト
4)タバコや梅毒
<ヨーロッパからアメリカ大陸にもたらされたもの>
1)世界宗教としてのキリスト教
2)コムギ、サトウキビ、コーヒーなどの農産品
3)馬・牛・羊などの家畜
4)車輪、鉄器、銃
5)ヨーロッパ人入植者
6)天然痘、麻疹、インフルエンザなどの伝染病
・オスマン帝国の地中海支配(1299年 - 1922年 )
大航海時代の前に、オスマン帝国が地中海世界を支配していました。1451年から1481年、メフメト2世はバルカン半島の諸国を次々と制圧しました。オスマン帝国は1453年には巨大なウルバン砲を用いてコンスタンティノープルの街を破壊して、ビザンツ帝国を完全に征服しました。オスマン帝国はヨーロッパ人に対して、税金を支払えばイスラム教への改宗を強制しませんでした。オスマン帝国はヨーロッパ人に子どもたちを差し出させ、オスマン帝国の官僚や兵隊に育てました。ヨーロッパ人は自分の子どもを差し出せば、免税されました。オスマン帝国は、アラブ人の腐敗を防ぐためにヨーロッパ人を受け入れ、優れた多民族帝国を作り上げました。
・プレヴェザの海戦でオスマン帝国が勝利
1538年9月28日エ-ゲ海のプレヴェサ沖にてスペインの神聖同盟とオスマン帝国の海戦が行われました。神聖同盟は大小162隻のガレー船と6万人の兵士、オスマン帝国は大小122隻のガレー船と2万人の兵士で戦いました。スペイン船13隻が沈没し、400人あまりが死亡しました。スペイン側はあまり戦わずに逃亡します。大海賊バルバロッサ率いるオスマン艦隊が、スペイン・ヴェネツィア連合艦隊を撃破しました。プレヴェサの海戦以後、イタリア商人は地中海やシリアで香辛料を売買することができなくなりました。
・テンプル騎士団は国家的な修道会
テンプル騎士団は、1118年ユーグ・ド・パイヤン総長が始めた修道会であり、200年間でヨーロッパ全域に広がりました。テンプル騎士団は艦隊を保有しており、十字軍が退却した後の聖地エルサレムの防衛を目的としていましたが、武力を利用して王室の財宝や資産を管理していました。
<業務内容>
1)第1次十字軍が得た聖地エルサレムの防衛(艦隊を保有)
2)王族や貴族から寄付された土地を換金(教会税の免税特権あり)
3)自己保有資産の財務管理(仏王室の財宝・通貨の保管)
4)王室や巡礼者への金融サ-ビス(預金通帳、口座開設)
5)農地の生産物を貨幣化(商業)
6)イタリア商人の海路と陸路の護衛
・1291年にエルサレム王国のアッコンが陥落し、十字軍が衰退します。1306年にフランス王フィリップ4世はテンプル騎士団員を異端審問で殺害し、騎士団の資金を横領してしまいました。テンプル騎士団は1312年の教皇庁による異端裁判で解体されましたが、キリスト騎士団と名前を変えて、銀行業務を継続します。 テンプル騎士団は、国家とは言えませんが、自前の軍隊、通貨、法律、領土を持っていました。クリストファ-・コロンブスの妻はキリスト騎士団長の娘でした。彼は叔父のコネを利用して、スペイン王に西インド諸島への航海を申し出て、資金を得ます。
国家ではないが極めて自治性の高い都市として、ジャマイカのポートロイヤルがあります。そこは賭博場、売春宿、居酒屋が立ち並ぶ悪徳海賊の自治地区でした。1692年、ポートロイヤルは巨大地震で崩壊します。
・地中海貿易で栄えたジェノバとベネチア
16世紀の大航海時代にポルトガルやスペインが巨額の費用をかけて大航海に乗り出せたのは、ジェノバ商人の金融支援があったからでした。13世紀にジェノバは黒海シルクロ-ド経由で東方と絹貿易をしていました。ベネチアはシリアやエジププト経由で香辛料貿易をしていました。1317年にポルトガル王のディニスが、ジェノヴァ商人エマヌエレ・ピサーニョに貿易特権を与え、ポルトガル海軍総督に任命しました。ジェノバはポルトガルに高利子で融資して荒稼ぎをしました。14世紀にジェノバはベネチアに東方交易路を奪われます。1453年にビザンツ帝国滅亡し、オスマン帝国が支配します。1519年にジェノバはスペイン王カルロス1世に神聖ロ-マ帝国の皇帝選挙の資金として金2トン(140億円)を寄付しました。それほどジェノバ商人は蓄財していたのです。イタリア商人は1538年のプレヴェサの海戦でオスマン帝国に地中海貿易権を奪われます。しかしジェノバのサン・ジョルジョ銀行には地中海交易で蓄えた膨大な資産がありました。ジェノバ債は償還5年、年利率3%の人気の債権でした。他の債権の利率としては、イタリヤ諸都市が5%、オランダが10%、フランスが15%でした。ジェノバは低利子で金を集め、高利子でカトリック王国に融資し、資本を蓄積したのです。
・大航海時代の年表
1452年にローマ教皇ニコラウス5世が非キリスト教徒を奴隷にすることを許可します。1474年に天文学者トスカネリが地球球体説を発表します。コペルニクスは1473年生まれです。1488年にバルトロメウ・ディアスが喜望峰(アフリカ最南端)を発見します。1492年にナスル朝のグラナダが陥落し、スペインのレコンキスタ(国土回復運動)が完了します。同年にコロンブスがアメリカを発見(サンサルバトル島、西インド諸島)します。航海には2カ月を要しました。1493年にロ-マ教皇アレクサンドル6世(ス)がスペインとポルトガルの境界線を大西洋に定めます。1494年にジョアン2世(ポ)とフェルディナンド2世(ス)がトルデシラス条約を締結し、ブラジルがポルトガルの領土になりました。1998年にヴァスコ・ダ・ガマ(ポ)がインドのカリカットに到達します。1517年にドイツのマルチン・ルタ-が教会より信仰が大切だと反抗し、プロテスタントの宗教改革を起こします。1519年にマゼラン(ポ)がスペイン船で世界一周に向けて出発し、1521年にフィリピンに到達します。同年にスペインのコルテスがアステカを滅ぼします。1529年にサラゴサ条約が締結され、スペインとポルトガルの太平洋上の境界線が決まります。1533年にスペインのピサロがインカを滅ぼし、大量の金銀がスペインにもたらされます。1543年にポルトガル船が種子島に漂着し、日本に鉄砲が伝来します。1545年にボリビアのポトシで銀山が見つかります。この銀はスペイン絶対王政の財政基盤となります。1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し、イエズス会のカトリック布教が始まります。1571年にレパントの海戦があり、スペインとベネチアがオスマン帝国を撃破します。1580年にスペインがポルトガルを併合します。スペインは多くの植民地を得て「太陽の沈まぬ国」と称されます。同年にオランダがスペインから独立し、フェリペ2世のカトリック強制から解放されます。1588年にスペインがアルマダ戦争でイギリスに敗北し、スペインの海上支配が終焉します。1602年にオランダ東インド会社の設立。オランダがスペインの植民地で海賊行為をします。1621年にオランダ西インド会社の設立。ブラジルを拠点とした三角貿易が開始されます。1623年にアンボイナ事件発生。オランダが、モルッカ諸島でイギリスの商館員を虐殺し、東南アジア貿易を独占します。1648年にウエストファリア条約が締結され、神聖ロ-マ帝国が解体します。
この時代の美術はバロック美術と呼ばれています。宗教的な絵画が次第に肉体的な近代絵画に代わっていきます。ルーベンスのキリスト昇架は両方の特徴を持ちます。イギリスの小説家ウィ-ダによる児童文学『フランダースの犬』では、主人公の少年ネロがルーベンスの『キリスト昇架』の絵と出会う最後のシ-ンがありましたね。
4.大航海を可能にした技術
・大航海時代の帆船
大航海時代には様々な帆船が現れ、大型化していきました。初期のガレ-船は地中海やバルト海などの内海で用いられた帆船で、2本マストと2枚の三角帆が特徴です。内海は風が弱いので漕ぎ手が必要です。キャラベル船(ダウ船)は沿岸航海用60トン級の帆船で、コロンブスのビンタ号に代表されるように、3本のマストに大小3枚の三角帆が特徴です。ナウ船は遠洋航海用85トン級の帆船で、マゼランのビクトリア号に代表されるように、5枚の4角帆が特徴です。キャラック船は外洋航海用200トン級以上の帆船で、コロンブスのサンタマリア号が代表的なキャラック船です。さらにガレオン船という大型帆船があり、スペインやポルトガルの貿易に用いられていました。
・帆船の構造と性能の比較
縦帆は操縦性に優れますが、速度は遅いです。横帆は速度は大きいですが、操縦性に劣ります。縦帆と横帆を組み合わせて、操縦性と速度を両立させていました。外洋は波が高いので重くて大きい方が有利でした。積載量が大きいほど、寄港せずに大洋を横断できたので、時代と共に大型船が建造されました。
・縦帆を用いると風に対して垂直に進める
流体力学のベルヌーイの法則によると、帆が風を受けると、膨らんだ帆の表裏に気圧差が生じるので、帆に揚力がかかります。また船は傾いたときに戻ろうとする復元力(ヒール力)が働きます。このヒール力と揚力の合力が推進力になります。下の図の場合、風に対して帆を15度傾けて張ると、風に対して垂直に進めます。縦帆を制御すれば、風に向かって斜めに進むこともできます。
・大砲は航海の必需品
1453年にイスラム世界にウルバン(ハンガリ人)の青銅大砲が出現しました。ウルバン砲は砲身長が6mもあり、重さ300kg(直径50cm)の石弾を1.6km先に撃ち込めたと言われています。オスマン帝国はビザンティン帝国の強固なテオドシウス城壁をウルバン砲で打ち抜いて勝利しました。オスマン帝国の大砲は、陸上戦用なので大型で、機動性より破壊力が重視されていました。ヨーロッパの大砲は、海戦用なので、破壊力より軽量性が重視されました。標的の木造船を破壊できればいいので、威力より射程距離が長い小砲弾が用いられました。海戦では連続発砲できる方が有利です。小型の大砲の方が早く冷えるので、発射間隔を短かくできます。
芸術と女に目がないイングランド国王ヘンリー8世は自分の離婚を認めないカトリック教会に腹を立てていました。1534年にヘンリー8世は国王至上法を公布してイングランドの教会のトップに君臨し、カトリック教会と決別し、スペインと対立しました。
エリザベス1世はイングランドの海賊船長フランシス・ドレイクが、スペイン船を襲撃するのを看過していました。現代では考えられないことですが、当時、海賊行為は植民地戦争の一環として認められていました。カリブ海では貿易船と海賊船の区別がつきませんでした。フランスではカトリック派に追われた改革派は海賊に落ちぶれ、新大陸の金銀を運ぶスペイン船を襲いました。ヨ-ロッパでは大砲は航海の必需品だったのです。
・遠洋航海を可能にした発明発見
外洋は目標物がないので、自分の船の位置を天測航法により求めていました。天体観測に必要なものはコンパス、高度計(アストロラ-ベ)、時計(クロノメ-タ)と天体位置図表です。天測航法とは、外洋で天体を観測することで船舶の位置を特定する航海術です。ある時刻の月と太陽の地球上の投射位置は天体位置図表に記載されています。太陽高度が40°の場合、太陽の投射位置を中心とする赤円が描けます。月高度が56°の場合、月の投射位置を中心とする青円が描けます。現在地はその2つの円の交点であることが分かります。近世の遠洋航海の経験と技術が、近代の科学的知識を急速に発展させ、産業革命につながります。
紀元前、中国では磁針を水にうかべる指南魚がつくられました。1300年頃マルコポ-ロらが中国の方位磁針を持ち帰りました。ヨーロッパで磁針をピボットで支えるように改良されました。1380年に回転する方位牌付きコンパス(羅針盤)が発明されます。コンパスは北半球の場合、針が水平になるように、S極側を重くしています。
1480年にドイツの天文学者マルチン・ベハイムが航海用のアストロラーベ(高度計)を発明します。指方規を回転させて、月や太陽の高度を計測します。海上の強風に耐えるために指方規に風通しの穴があります。
1735年にジョン・ハリソンがゼンマイ式クロノメータを作製します。81日間航行で8.1秒遅れを実証しました。この時計は10日で1秒しか遅れない精度を有していました。1757年にニュートン、ハドリーらが六分儀を発明し、経度計測が可能になりました。経線の精度は2.8kmでした。
1753年にイギリス海軍軍医ジェームズ・リンドは、オレンジの摂取が壊血病に有効であることを著します。これはオレンジに含まれるビタミンCがコラ-ゲンの合成を助けるためです。
脚気はビタミンB1の不足からきます。海の魚を食べていれば脚気を防ぐことができます。当時のヨ-ロッパ人は船上で釣りはしませんでした。それより傷みかけた塩漬け肉の方を好みました。熱帯の魚はあまりおいしくなかったのかもしれません。
・大航海時代の航路と植民地
1519~1522年にマゼランらが世界一周航海に成功します。マゼランはポルトガル人ですが、船はスペインの船でした。スペイン人とポルトガル人の確執もあり、航海は内部の争いで停止することもありました。マゼランの目的は香辛料が採れるモルッカ諸島がスペイン領に属することを確認することでした。スペインとポルトガルは衝突をさけるために、勝手に全世界を2つに分けて自国の領土に決めてしまいました。南北アメリカはスペイン領、アフリカ・南アジアはポルトガル領となっていましたが、太平洋の境界が不明瞭でした。
船員の多くはまだ地球が丸いことを納得しておらず、南方に行くことに不安をもっていました。赤道に行くと海が沸騰すると恐れている船員もいました。赤道を超えさらに南方に行くと絶壁や氷壁が立ちふさがっていると信じている者もいました。航海が遅れると壊血病が生じ、死の恐怖で暴動を起こすこともありました。乗組員全員が病死して幽霊船になる船があったと思われます。
・貿易風と偏西風を利用して大西洋を横断
帆船は大陸沿岸に沿って航海する場合は、海風や陸風を利用して航海できます。しかし外洋に出てしまうと貿易風や偏西風を利用して航海しなければなりません。貿易風や偏西風は地球の自転のコリオリ力の影響を受けて、北半球では北東貿易風と南西偏西風、南半球では南東貿易風と北西貿易風、赤道では東貿易風になります。赤道上は上昇気流が生じ、低気圧となります。緯度30度付近で下降流が生じ高気圧になります。つまり緯度30度付近は無風地帯で帆船が進まなくなるのです。そのときは船に積んだ馬を食べて飢えを凌ぎました。当時は地球の大気循環の知識は限られていたので、初期の航海は失敗を避けきれず、船員が減れば、船隊の一部の船を放棄せざるを得ませんでた。
・赤道の自転速度460m/sと北緯30度の自転速度400m/sに差があるので、上空には60m/sのジェット気流が発生します。ジェット気流は蛇行しており、季節によって変動します。変動を受けた貿易風は季節風とも呼ばれます。ヨ-ロッパからインドに行くには季節風に乗っていかなければなりませんでした。
・マゼラン世界一周航海の困難
ポルトガル人であるマゼランは、スペイン王カルロス1世に「西回りルートは遥かに安く香料を入手できる」と説得しました。1519年8月マゼランはスペイン船5隻270人の艦隊を率いて出発します。4か月後南米のリオ・デ・ジャネイロ地方で裸族トゥピナンパ族と出会います。リオのカ-ニバルは原住民の文化を受けついでいるのかもしれません。
マゼラン艦隊は南米大陸南端のマゼラン海峡を発見しましたが、スペイン人の反乱で艦隊は3隻となってしまいました。1521年3月に餓死寸前のマゼランの艦隊はグアム島に到着します。彼らはそこで島民7人を殺害します。1521年にマゼランは調子に乗ってフィリピンで布教活動をおこないます。しかし中には布教に従わない村もありました。彼は布教に反抗する村を焼き払ったため、村人たちに殺されます。
1521年11月、エルカーノを船長ら60人が2隻でモルッカ諸島に到達しました。そこでトリニダード号は丁子(クロ-ブ)を積み過ぎで浸水します。エルカーノはビクトリア号1隻60人でモルッカ諸島を出発します。スペイン船ビクトリア号は、ポルトガルの勢力圏内で途中の港に立ち寄れないため、壊血病と栄養失調で多くの死者を出しました。1522年9月にセルビアに1隻で帰港し、18人が史上初の世界一周を達成しました。
マゼランは2年分の食料と交易品と武器を積みました。積み荷の内容を示します。主食は堅パンと塩漬け肉です。飲み物はワインでした。交易品は小刀やハサミや釣り針や腕輪や色布などでした。その中には鈴や水銀なども含まれていました。武器も多く積まれていました。
・インド洋を航海した鄭和の超大型船
16世紀の中国の船舶技術はヨ-ロッパを凌ぐものでした。鄭和 (1371~1434年)は雲南出身のイスラム教徒です。鄭和は明朝の永楽帝の宦官になりました。洪武帝は軍人気質で宦官が嫌いでしたが、永楽帝は好きでした。1405~1433年まで鄭和は7回の大艦隊を率いて南海遠征をおこない、東アフリカを含め30か国以上に対し朝貢貿易を促しました。鄭和の主船は、宝船と呼ばれ、全長140m×幅58mの超大型ジャンク船でした。船体には竜骨はなく、水密隔壁を有します。宝船は浅海航行、耐波性、高速性に優れていました。但し復元模型では横帆だけで縦帆が見受けられません。随行する艦船数は200隻で、2.8万人が南海遠征に関わったと言われています。これらは民間船ではなく、官船です。
この時代はインドと中国が世界のGDPの50%を占めており、西欧は15%程度でした。西欧が中国を抜くのは1850年以降です。明の初代皇帝である洪武帝(朱元璋)は農民出身のため、商人の興隆を恐れ、国家が通商を統制管理しました。中国が民間の海洋貿易活動を認めなかったことは、ヨ-ロッパに覇権を奪われる一因となりました。
・世界初の紙幣は中国うまれ
紙幣は中国で生まれ発達しました。紙幣は王朝に潤沢な資金を提供し、商工業が栄えました。1023年に宋が「交子」(兌換紙幣)を発行しました。これは四川で通用しました。元々交子は鉄貨の預り証でした。南宋では会子と呼ばれていました。1127年に金が「交鈔」を発行しました。初期の交鈔は7年の有効期限がありました。1260年に元が期限無しの「交鈔」を発行しました。マルコポ-ロは元の紙幣を見て大変驚きました。元は銀本位制の国でした。元のヤワラチ財政官は関税・通行税を廃止し、3%の売上税を実施しました。耶律楚材は元が華北の中国人を殺して遊牧地にするのを押しとどめ、職業戸籍を作って課税することを進言したと言われています。
1375年に明の洪武帝は「大明宝鈔」を不換紙幣として発行しました。寸法は33×22cmで世界最大です。紙幣を発行したのは、銀が欠乏していたからです。明はマニラに流入したメキシコ銀に救われます。
1616年に清は銅貨と銀貨を使用しました。宋、金、元、明の歴代王朝は紙幣増刷でインフレを起こして滅亡したことを教訓にして、清は紙幣を発行しませんでした。
・歴代中国王朝の衰退原因
国の歴史は経済の発展と密接な関係を持っています。歴代の中国王朝の主産業、経済、市場特性をまとめた表を示します。中国では、唐の農業、宋の商工業、元の貿易業と発達しましたが、明では農本主義政策に逆戻りし、清では手工業が主産業になります。
唐王朝では均田制が徐々に崩れ、大土地所有が進み、経済不況で滅びました。宋王朝では交子紙幣により、潤沢な資金が供給され、商工業が発展しました。元王朝では国際的な貿易業が盛んになりましたが、紙幣増刷により滅びました。明王朝では官制限が厳しく、闇市場が生じ、税収が低下しました。明は税収を補うために紙幣を増刷し過ぎて滅びます。紙幣は、経済を活発化させ、国を豊かにすると同時に国を滅亡させます。現在でも紙幣を巡るジレンマは大きな問題となっています。
清王朝では人頭税を廃止したため、戸籍登録者が増え、土地税収が増えました。清は紙幣を使わず銀貨や銅貨を使いましたが、銀不足に苦しんでいました。満州地域は物流の中心にあり互市貿易で発展してきました。清時代には新大陸のトウモロコシ、サツマイモ、落花生などの新しい農産物が導入され、人口が5千万から4億に増加しました。新しい農作物は世界の歴史に大きな影響を与えます。
中国南部は暖かいので農業生産性が高く、労働コストが極めて低いので、清の綿製品は英国製品より安価でした。中国は生産機械を導入することなく安価な綿製品が作れたので、産業革命が遅れました。
・均田制の限界
道徳的には貧富の差が小さく、生産性が高い国が理想的です。下図に、国の生産力Pと貧富の差ΔXの関係の典型例を示します。均一に土地を配布すると、貧富の差は小さいのですが、生産力は最大になりません。これは人間の能力は不均一だからです。均一に土地を配布すると、農業をやる気のある人には足りず、やる気のない人には多すぎるからです。これが均田制の限界です。農業の動機や能力を高める教育によって是正することは可能ですが、ある程度貧富の差は生じます。多くの場合、能力はやる気のない人が増えて土地を売ると、大土地を所有する地主が増えて、多くの人は地主の下で働くことになります。能力とやる気にあった土地分配になったとき最大の生産力が得られると考えられます。しかし大土地所有が進むと、貧民が増加し、購買力が低下します。それによって投資が低下して経済が不況になり、国力が低下します。
この場合、生産性を上げるには農業以外の産業に従事する人を増やし、多様な能力を活用することが有効です。従って、産業は必然的に農業から商工業、貿易業、金融業と発展かつ多様化していくと考えられます。人民の生活を豊かにするには、教育を施して貧富の差をできるだけ小さくすることと、多様な産業を育成し、全体の生産性を向上させる政策が必要になります。
5.スペイン人の侵略
・コルテスのアステカ帝国の征服
アステカ帝国を征服したスペイン人のコルテスについて紹介します。エルナン・コルテス(1485年生)は法律家を目指しマドリ-ドのサラマンカ大学に通いましたが、中退しました。コルテスは19歳の時にイスパニョ-ラ島(現ドミニカ)に渡り植民者になりました。20歳で島の統治者である叔父さんからエンコミンダ制の権益を与えられました。1506年25歳の時にベラスケスのキュ-バ遠征に参加し、多くの不動産や原住民奴隷を獲得しました。コルテスはキュ-バ総督になったベラスケスに気に入られて、彼の秘書官になりました。キューバでコルテスは鉱山や牧畜業を営んでいました。コルテスはインテリで、コネもあり、野心もあり、若くして指導者の頭角を現しました。
1519年2月に34歳のコルテスはベラスケスに無断で16頭の馬と大砲や小銃で武装した500人の部下を率いてユカタン半島沿岸に向け出航しました。コルテスはタバスコでセントラの戦いに勝利し、女奴隷20人の中からマリンチェという娘を通訳兼愛人として用いました。当時アステカには、白い肌のケツァルコアトル神が1519年ごろに現れるとの予言がありました。こうした現地の伝説は征服者に有利に働きました。アステカ帝国には絵文字があり、数字は20進法でした。
コルテスはウルア島にベラクルスを建設し、センポアラの町を味方に付けました。スペイン人から離脱者が出ないように手持ちの船を全て沈めて退路を断ち、300人で内陸へと進軍したのです。
1519年11月18日、コルテス軍は首都テノチティトランへ(現メキシコシティ)到着し、現地王のモクテスマ2世は抵抗せずに歓待しました。しかしコルテスはクーデターを起こしてモクテスマ2世を支配下におきます。
1520年5月、キュ-バのベラスケス総督はナルバエスにコルテス追討を命じましたが、ナルバエスはコルテスに返り討ちにされます。1520年7月コルテスがテノチティトランに戻ると、部下のアルバラ-ドがアステカ人を虐殺し大規模な反乱が起こっていました。王を失ったメシーカ人がコルテス軍を激しく攻撃したので、コルテスはテノチティトランから脱出しました。
1521年4月28日、コルテスはトラスカラで軍を立て直し、テテスコ湖畔に13隻のベルガンティン船を用意し、3万の同盟軍とともにテノチティトランを包囲しました。1521年8月13日、コルテスは病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモク王を捕らえアステカを滅ぼしました。アステカ王国の宮殿の資材を用いてスペイン風のコロニアルな街並みが築かれました。同時に農業と居住地域の拡大のためテスココ湖の埋め立てが行われました。
・浮遊菜園チナンパ農法
メキシコは降雨が不規則で、標高が2000mと高いため霜害も多く、地力も不足しています。アステカ王国の都テノチティトランでは、テスココ湖の浮島に水路の底に溜まった肥沃な泥(=腐敗した水草)を汲み上げ、トウモロコシの茎や乾いた土を混ぜて培養土として作物を栽培するチナンパ農法が行われていました。
チナンパ農法は高い収穫量をもたらし、テオティワカン文明やアステカ文明の食糧生産の基礎となりました。チナンパは総面積は9,000ヘクタールに及び、20人/haを養ったと推定されています。標高が高く乾燥しているのでマラリアを媒介する蚊が殆ど発生しません。
チナンパの跡地からは豆、カボチャ、サンザシ、ウチワサボテンなど、多くの種類の作物を栽培した痕跡が見つかっています。菜園の周囲には水に強い柳の木を植えていました。年間に3~4回転で作物を生産し、都市が消費する食料の1/2から2/3を生産していました。
・ピサロのインカ帝国の征服
フランシスコ・ピサロは1470年にコルテスと同じスペインの内陸部で生まれました。父は軍人、母は召使いでした、ピサロは教育を受けておらず文盲です。1498年28歳のころピサロはイタリア戦争に参加した後、32歳でエスパニョーラ島へ渡ります。1526年にピサロは探検家のアルマグロらと苦労して南米を探検し、文字がない文明であるインカ帝国(現ペル-)を発見します。インカ人は白人をビラコチャという神様と思い込み厚遇したため、ピサロらは金銀を得ます。1527年にインカ帝国の皇帝ワイナ・カパックが天然痘で死去し、2人の息子の間で内戦が起こります。
1528年にピサロはスペインに戻り、カルロス1世からペルー支配の許可を取り、貴族と総督の位を与えられ、1530年にピサロは4人の兄弟たちと募集した兵士とともにパナマに戻ります。翌年61歳のときにピサロは180人の兵士と37頭の馬を率いてパナマを出港し、ペルーへの侵入を開始します。1532年にピサロら168人は馬、鉄兜、鉄砲12丁を用いて、インカ帝国を侵略します。ピサロは皇帝アタワルパを幽閉し、翌年処刑します。ピサロは大部屋1杯分の金6トンと2杯分の銀を得ます。1933年にピサロはインカ帝国の分裂を巧みに利用しながら進撃し、クスコを征服します。クスコは標高3300mの高山都市です。ピサロは老齢なのに体力がありました。1935年に海岸地帯に植民都市(現リマ)を建設します。
1936年にピサロはカルロス1世にアタワルパを無実の罪で処刑したとして死刑を宣告されます。1537年からインカ帝国の首都のクスコの領有権をめぐってアルマグロと対立し、翌年アルマグロを処刑します。結局1541年にピサロはアルマグロの遺族らにリマで暗殺されます。ピサロの遺体はミイラとして現在も保存されています。当時950万人もいたインカ帝国の人口は、スペイン人が持ち込んだ天然痘で100万人に激減しました。
南米の西海岸は、フンボルト寒流のため降雨がなく、砂漠地帯です。だからインカ人たちは高山に都市を建設してきました。インカ帝国の都市のひとつであるマチュピチュは、標高1800mで、優れた灌漑設備が施されています。山頂部にある堅固な花崗岩質の岩塊を削り出して様々な設備を作り出しました。
リマはポトシ銀山からの銀の積出港として栄えます。リマの人種構成は、メスチ-ソと呼ばれる混血人が40%、ケチュア人などの先住民が30%、西欧系が25%、黒人アジア人が5%程度です。
・メキシコの銀の道
スペインの植民地時代、メキシコで銀鉱脈が見つかり、大量の銀がスペイン国王に送られました。1550年から1850年までの約300年間、メキシコシティから北上し、グアナフアト(1550年)、ケレタロ、サカテカス(1546年)などの鉱山を通る道は、採掘した銀やヨーロッパから輸入した水銀を輸送する交易路として利用されていたことから「銀の道」と呼ばれています。サカテカスはAgPbが採れる鉱山で、今は世界遺産になっています。銀の道は趣きあるコロニアルシティを巡る観光ルートになっています。鉛は鉄砲玉の原料に用いられました。
銀の採掘で莫大な富を得た鉱山の所有者は、教会建設に資金を投入しました。そのためバロック調の華麗な装飾を施したコロニアル建築の建物が今も数多く残されています。太平洋貿易が始まり、アカプルコからマニラまで運ばれた銀は清王朝を復活させました。
・ボリビアのポトシ銀山
アンデス山脈のポトシ銀山は標高4067m(平均気温8℃)の高地にある最大の銀山でした。1500-1800年の間、スペインは世界の銀の85%を生産していました。水銀権益と銀利益の20%は王室のものでした。ポトシは人口16万人の大都市でした。労働環境は劣悪で、スペイン植民地時代には800万人が亡くなりました。彼らはコカの葉を噛み、高山病と闘いながら、アルコ-ルを口に含み消毒し、有害物質と隣り合わせで働いていました。現在もポトシでは15000人の過酷な労働が続いています。平均寿命は45歳で、年間30人以上が死亡しています。
・1545年 グアルパが焚火の火床に銀を発見(主にAgClとAg)
・1556年 露天掘りから横穴堀りに移行
・1558年 ガルセスがペルーのワマンガで水銀鉱床を発見
・1566年 ポトシ銀山で高品位鉱が枯渇
・1572年 アマルガム法の採掘開始 他にも灰吹法(Pb)あり
<製法>
・2AgCl + CO = 2Ag + COCl2 (塩化カルボニル有毒ガス)
・2AgCl + 2Hg = 2Ag + Hg2Cl2 (有毒水銀ガスが発生)
銀と水銀からなるアマルガムを加熱して銀を得る。
・なぜ先住民族の大虐殺が起きたのか?
先住民はスペイン人入植者に若い女性を奪われたことや鉱山での奴隷労働に対して抵抗しました。それに対しスペイン人は異教徒である先住民に残酷な拷問を加え、時には皆殺しにしました。
北米大陸の先住民5000万人は、スペイン人の天然痘、麻疹、インフルエンザに感染し1/10に減少したと推定されています。他地域と合計すると約6500万人が死んだことになります。キリスト教徒は牛や豚や羊を飼っていたので、天然痘の免疫がありましたが、新大陸には家畜動物がいなかったので先住民に天然痘の免疫がありませんでした。逆にアメリカ大陸からスペインにもたらされた伝染病もありました。1493年にバルセロナで新大陸の風土病の梅毒が発生しました。1512年に梅毒は日本に渡来しました。
・コロンブス像の頭部破壊 、人種問題で反発強まる
2020年6月に米国では、ミネソタ州ミネアポリスの白人警官が黒人のジョージ・フロイド氏を死亡させた事件を受け、各地で人種差別に抗議する大規模なデモが発生しました。人種差別に関連する植民地時代の指導者や奴隷主の像の撤去を求める声が強まっており、各地でコロンブス像の首が落とされました。
6.太陽の沈まぬ国スペインの没落
・スペインの植民地政策
西インド諸島で新しい領土が獲得されると、スペインは商務省をおいて植民地貿易を王室の独占的支配下におきました。エスパニョーラ(現在のハイチ・ドミニカ)・キューバなどではプランテーション経営(大農場経営)による砂糖生産が始められ、過酷な扱いで人口の激変した先住民にかわり、アフリカから黒人が奴隷として連れてこられました。 メキシコ・ペルーの征服は莫大な金・銀・宝石類をスペインにもたらしました。アステカ帝国やインカ帝国から略奪された金・銀が大西洋を越えて本国に運ばれ、その5分の1は国王に献上されました。1545年、ボリビア高地のポトシで無尽蔵の銀鉱脈が発見され、インディオの強制労働により安価な銀が大量に採掘されました。以来、アメリカ大陸から大量の銀がヨーロッパに流入します。
16世紀末までにヨーロッパに運ばれた銀は、2万トンに達したと見積もられています。通貨としての安い銀がヨーロッパの物価を高騰させ、経済に大きな影響を与えました。南ドイツの銀山を経営していた大富豪や、地中海貿易で活躍していた南ヨーロッパの商業資本は没落を早めました。スペイン本国には国王直属のインディアス評議会がおかれ、アメリカ大陸の植民地の裁判、役人・聖職者の任命もおこないました。植民地ではアウディエンシアと呼ばれる統治機関が行政を担当していました。植民者は、エンコミエンダ制により、征服地の土地・住民の統治を委託され、先住民を強制労働にかりだしました。西インド諸島・アンデス地方・メキシコなど各地において先住民は酷使・虐待され、またヨーロッパ人がもちこんだ疫病などで、急激に人口を減らしました。
・エンコミエンダ制とは
エンコミエンダ制とは、スペイン王室が、スペイン人入植者に北米のインディオをキリスト教徒に改宗させたら、ご褒美にインディオを一定期間働かせて貢納物を受け取る権利を与える制度のことです。エンコミエンダ制はスペインによるメキシコやフィリピンの植民地支配にも用いられました。この時代によく出てくる専門用語を説明します。
コンキスタド-ル(支配者)は裁判権と自治権を掌握していたので 先住民は逆らえませんでした。西インド諸島のインディオはエンコミエンダ制による鉱山での強制労働と鉱毒のため、2年程度で死亡していました。ドミニコ修道会のラス・カサスはスペイン人のあまりに酷い不正行為を告発しました。教皇はインディオ信者から1/10税を徴収し、王は銀を得たので、インディオの悲惨な現状を見て見ぬふりをしました。
死んだ原住民の代わりにアフリカから黒人奴隷を連れてきて、鉱山や農場で働かせました。教皇子午線によってスペインはアフリカ人奴隷を利用できなかったので、スペインはポルトガル商人に契約金と納税と引き換えに自国のアメリカ植民地に黒人奴隷を供給するアシエント(許可状)を与えました。1685年にはオランダがアシエント権を落札しました。1713年のユトレヒト条約で、イギリスはアシエント権を得たのち大西洋で三角貿易を行いました。
17世紀、先住民の数が減少すると、農地が暴落し、貢納が減り農産物が値上がりした。スペイン王から土地を貰った入植者は、都市や鉱山向けの農業、牧畜経営を始めたので、アシエンダ(大土地所有制度)が発達しました。
・なぜポルトガルとスペインは没落したのか?
ポルトガルは香辛料貿易で多額の利益を得たにも拘わらず、16世紀後半に没落します。スペインは新大陸で多額の銀を得たにも拘わらず、17世紀初頭に没落します。その理由は、ポルトガルとスペインは金融技術に疎く、金融技術に長けたジェノバや自国の商人たちに搾取されていたからです。
1500年ポルトガル王イマヌエル1世はパドラン・デ・ジュロ公債を発行しました。ジェノバはポルトガル公債を買い付け、公債の高利子で大儲けしました。ポルトガルが得た香辛料貿易の利益の殆どは公債の利払いに消えてしまいました。ポルトガルは香辛料の輸入量を増やして儲けようとしましたが、香辛料価格が暴落してしまいました。
彼らが金融技術に疎かったのは、彼らはカトリック教徒だったからです。カトリック教徒は、時間は神のものであり、利子を取ることは神への冒涜だと考えていたのです。イスラム教徒も利子を取りません。スペイン国王のフェリペ2世は、書類王を呼ばれ、異常なほど勤勉かつ敬虔なカトリック教徒でした。彼は金銭を汚いものと考え、国庫の窮状に関心を持ちませんでした。臣下から複式簿記を提案されても、拒否しました。
それどころかフェリペ2世は、ネーデルランドの新教徒(カルバン派)を弾圧し、スペインに低利子で融資していたアントワ-プの交易都市(ベルギ-)を自分で潰してしまいました。新教徒は、アムステルダムやロンドンに避難したので、交易の中心地が変化し、オランダとイギリスが台頭しました。1584年にオランダはスペインから独立します。
・ポルトガルに訪れたチャンス
1560~1660年、ヨーロッパは小氷期を迎えていました。1580年にスペインはポルトガルを併合し、ポルトガルの負債を背負いました。1600年代にポルトガルはオランダのせいでインドやアジアの植民地を失います。1640年にポルトガルは独立を回復します。これはスペインが没落したからです。
1693年、ポルトガルはブラジルのミナス・ジェライスで金鉱発見します。リオ・デ・ジャネイロは、1760年まで金の積出港として繁栄しました。1712年に金の産出量は14.5トン、1720年には25トンに達しました。18世紀半にブラジル産の金は世界の金の総生産量の85%を占めていました。
1703年にイギリスとポルトガルがメシュエン条約を締結します。ポルトガルはイギリスにワイン輸出を条件に綿織物の輸入を認めました。その結果ポルトガルは、自国の手工業が壊滅し、イギリス産の綿織物を金で購入するようになりました。販路拡大とポルトガルから流れたミナスの黄金はイギリス産業革命の基盤となりました。
1785年ポルトガル女王のマリア1世(Dona Maria, a Louca)はブラジルでの工業の禁止を命じたため、造船などのブラジル工業は壊滅しました。マリア1世は愚か者のマリアと呼ばれていました。ミナスの黄金でマリア1世の金貨が作られます。1807年11月ナポレオンの大陸封鎖令に反抗したマリア1世は、宮廷の 15,000人と共にイギリス海軍に護衛されてリオデジャネイロに逃亡します。1822年、ブラジルはポルトガルから独立し、ポルトガルは小国に戻ります。
・なぜ小国オランダは世界制覇できたのか?
オランダとイギリス両国ともノルマン人から受けついだ高い造船技術を有していました。実は航海の一番の難所は目の前のドーバ-海峡でした。そこを通れる船はどこでも行くことができました。両国はアジアとの直接貿易で富を蓄積しました。中飛ばしを受けたイスラム帝国はアジア貿易の利益が減少して衰退します。オランダとイギリスは東インド会社を設立し、国の認定を受けた独占貿易を行います。ここで東インドとは現在のインドのことで、西インドとはアメリカ大陸のことです。東インド会社は、国権を担っており、いわば海のテンプル騎士団でした。しかしオランダ東インド会社の株券の方が富裕層の人気を集めたため、オランダの方が高い集金力がありました。富裕層は昔からリスクの低い商品を好みます。オランダはヨ-ロッパの商品を一手に販売していたため、高い販売力もありました。
[1]オランダ方式~ 低リスク・低リタ-ン 低配当株券による資金調達
1)船が沈没しても、一定の配当がでる。
2)株式相場の変動が小さく、リスクが低い
3)株主に経営権がある。
4)株主の損害責任は集金資金の範囲内
[2]イギリス方式~ 高リスク・高リタ-ン 航海毎の株券発行による資金調達
1)船が沈没すると出資金を回収できない。
2)株式相場の変動が大きく、リスクが高い
3)株主に経営権がない。
4)株主が引き受ける損害責任は無限
アンボイナ事件以後、オランダがイギリスを抑え香辛料貿易を独占し、30倍の利益を上げます。しかしその後オランダはイギリスに軍事力で抑え込まれ、最終的にはイギリスが覇権を握ることになりました。
・闇に葬られた植民地抗争
アンボイナ事件とは1623年3月9日にオランダがモルッカ諸島アンボイナ島にあるイギリス東インド会社の商館員30名を拷問にかけ、殺害した事件です。オランダ当局はタワーソンをはじめイギリス人9名、日本人10名(傭兵)、ポルトガル人1名を斬首しました。日本人は世界の覇権争いに絡んでいたのです。江戸時代は内戦が無くなり、失業した武士が海外で傭兵になっていました。
当時オランダはイギリスの毛織物製品を輸出(中継貿易)していたので、イギリスはこの事件を問題にしませんでした。国家にとって経済が最優先だったのです。この事件により、イギリスの香辛料貿易は頓挫し、オランダが香辛料貿易の権益を独占しました。東南アジアから撤退したイギリスは、インド・ムガル帝国での綿栽培へ矛先を向けることとなります。イギリスの産業革命は綿工業から起こります。
・覇権国家に必要な要素
覇権国家になると、世界中のお金が集まり、益々豊かになります。覇権国家になるには、貿易力、生産力、金融力、軍事力、謀略力が必要になります。ポルトガルは貿易力に優れていました。スペインは宗教布教と金銀の生産力と軍事力に優れていました。オランダは貿易力と金融力に優れていました。オランダはスペインから独立を果たしますが、軍事力でイギリスに負けます。フランスは金融資本が足りず、植民地競争に出遅れます。イギリスは貿易力と軍事力でフランスと競い合います。イギリスは、奴隷貿易、麻薬貿易、海賊行為、経済詐欺などの謀略力と金融力に優れており、フランスを破ります。イギリスの綿製品の競争力は、それほど高くなく、貿易収支は赤字でした。当時は特許制度が未熟で、イギリスの新しい工業技術はフランスにコピ-されてしまいました。イギリスは金融業などの貿易外収益で稼いでいたのです。
産業革命以前は、植民地で得られる産物を加工・輸出することで利益を得ることができました。産業革命以後は、鉄鋼業や重化学工業で生産機械や輸送機器を生産する方が利益が出るようになりました。海外に植民地の少ないドイツは、重化学工業を発展させ、欧州に鉄道を敷くなどして収益を上げます。機械による大量生産の発展は、破壊力の強い兵器や多量の軍事物質や兵隊を運搬する輸送機を大量に作り出し、世界的な戦争を引き起こしてしまいます。
これで前半の発表を終わります。皆さん、ご清聴ありがとうございました。
世界商品により形成された近代世界
1.はじめに
・今なぜ歴史を学ぶのか?
・典型的な歴史の流れ
・5つの時代区分と経済的特徴
・16世紀の世界6地域の国家と商品
2.近世の世界商品
・現代の世界商品は情報サービス
・近世の世界商品は銀と有用植物
・辺境の貧村ギリシャが大国化した理由
・有用植物の多くは生活に不要で不味い
・胡椒を得るために大航海時代が開始
・大航海時代に野菜は世界中に広まった
・ジャガイモとキャサバの歴史
3.ヨーロッパが大航海時代を迎えた理由
・西欧には世界商品となる有用植物なし
・地中海貿易で栄えたジェノバとベネチア
・オスマン帝国が地中海を支配
・プレヴェザの海戦でオスマン帝国が勝利
・テンプル騎士団は国家的な修道会
・大航海時代の年表
死体粒子が人間を死体に変える
最近、コロナ感染拡大ニュースの影響で手洗いをする事が多くなりました。手洗いと消毒が感染防止に効果的であることを初めて示したのはハンガリー人のゼンメルワイス産科医師(1818ー1865)です。
ゼンメルワイス医師はウィーン総合病院の隣接する第一産科と第二産科の産婦の産褥熱の死亡率が10%と3%と異なる原因に悩んでいました。彼は第一産科は検視解剖を行う医学生、第二産科は解剖をしない助産婦が出産に携わっていることに注目し、死体に付いている微粒子が医師の手によって産婦に付着する事が原因ではないかと考えました。1947年に同僚のコレチュカ医師が検体解剖時にメスで腕を傷つけたことが原因で高熱を出して死亡したことを知り、自説を確信します。
彼は、産科医たちに石鹸とブラシでの手洗いの後に解剖台の臭い消しに使われていたさらし粉(次亜塩素酸カルシウム)で消毒することを義務付けました。これによって、第一産科の死亡率は2%以下に低減し、消毒の効果は実証され、1861年にゼンメルワイスは消毒法の論文を発表しました。
しかしウィーン医師会の重鎮たちは、産婦死亡の原因が自分たちにあった事を受け入れられず、ゼンメルワイスを病院から追い出しました。彼は病理学者ウィルヒョウにも批判されてしまいます。「死体粒子が人間を死体に変える」という考えは、余りに非科学的だと思われたからです。
故郷に帰ったゼンメルワイスは病院の衛生状態を改善し多くの産婦を救い実績を残します。1864年にパスツールが病原菌による感染説を提唱するまで、多くの医師はゼンメルワイスの考えを受け入れられませんでした。
ゼンメルワイスは多くの産婦を死なせてきた罪悪感があり、彼の批判者たちと10年間以上言い争いをして疲れ果ててしまいます。最後は精神病院に入れられて、そこでの怪我が原因で47歳の若さで死亡します。原因がはっきり分からなくても、効果的な予防策を提唱した者には高い評価を与えるべきだという教訓が残りました。
究極のツタンカーメン
5月5日に、NHKの地球ドラマチックで「究極のツタンカーメン」(2013年イギリス)の番組が再放送されました。これはエジプト学者クリス・ノ-トンがツタンカ-メン王に関する様々な謎を科学的に解明する番組です。ツタンカーメンの埋葬には異例な点が多いことが知られています。例えば
・墓はなぜ手つかずの状態だったのか?
・なぜ墓がこんなにも小さいのか?
・ミイラに焦げた跡がある理由は?
・ミイラに心臓がなかった理由は?
さらに、有名な黄金のマスクも、顔と頭巾が別人のものだと判明しています。若きエジプト学者が、最先端の科学技術を駆使して、多角的な観点から少年王の謎解きに挑みました。
ツタンカ-メンの父親アクエンアテンは唯一の太陽神を信仰する宗教改革を行い、首都をテ-ベ(ルクソ-ル)からアマルナに移しました。ツタンカ-メンはアマルナで姉と結婚し9歳で即位しました。しかしアマルナでは疫病が流行したので、彼は宗教を元の多神教に戻し、テ-ベに還りました。彼は自分の名前を「アテン神の生きる姿」ツタンカ-テンから「アメン神の生きる姿」ツタンカ-メンに改めました。
ツタンカ-メンのミイラには心臓がありません。それは彼が外地で参戦した時、戦車の車輪に惹かれて、肋骨と心臓を負傷して死亡したからです。ツタンカ-メンには子供がなく、指定後継者は戦場にいたため、権力の空白が生じました。歴代のファラオの相談役であったアイ(70歳)は、ツタンカ-メンの妻と婚姻し、王位を奪ったのです。アイはツタンカ-メンを急いで自分の小さな墓に埋葬したため、様々な奇妙なことが起こりました。
布に浸した亜麻仁油が十分乾かないままに棺に入れてしまったので、油が発火して、ミイラが焦げてしまったのです。また壁画の乾燥が十分でなかったため、壁画にカビが生えてしまいました。ツタンカ-メンの黄金のマスクは、本人の顔の部分と、耳と頭巾の部分は別のものであり、両者は鋲で留められ溶接された跡があります。耳にはイヤリングの穴を埋めた痕跡があり、それは他の女性の王族のものでした。頭巾の青い縞は色ガラスですが、目の周りはラピスラズリ石が用いられています。これは急いで黄金のマスクを用意したからでしょう。他のファラオの装飾品を無理に入れたので、狭い通路には広くするために削られた跡が残っています。アイがツタンカ-メンに魂を入れる口開けの儀式を行った様子が壁画に描かれていますが、時間がなかったので壁画に書き入れるべき文字が書かれていません。
結局アイの政権は4年しかもちませんでした。アイはツタンカ-メンが埋葬されるはずだった大きな墓に埋葬されました。王位継承者の名前を書いた壁には、ツタンカ-メンとその父の名とアイの名が書き入れられませんでした。そのためツタンカ-メンの名は後の盗掘者から隠されたのです。
ツタンカ-メンが埋葬された紀元前1327年の春でした。その年の夏には、鉄砲水が起こり、王家の谷は深さ1m以上の土砂で覆われ、土砂は強い日差しのため、固い石灰岩となりました。3か月の間ツタンカ-メンの墓の6割は盗掘にあいましたが、大きな黄金のマスクは盗掘がばれるので、盗まれませんでした。ツタンカ-メンの墓は王家の谷の一番低いところにあり、土砂に埋もれたので盗掘から免れたのです。
私もツタンカ-メンの墓を見ましたが、あっけないほど小さなものでした。エジプト人ガイドの同級生は、ルクソ-ルのカルナップ宮殿に住んでいました。宮殿の天井には料理した時についた煙の跡がついています。当時カルナップ宮殿は砂に埋もれていたので、彼はその建物が宮殿だとは知らずに住んでいたそうです。エジプトは空気が乾燥していて、すぐに喉が渇いてしまいます。日本では当たり前に買える牛乳がなくて、ヨ-グルトしか売っていませんでした。