堺正章さんが司会を務めているテレビ番組「カラオケバトル」で歌手の木村弓さんが『千と千尋の神隠し』の主題歌「いつでも何度でも」を歌いました。木村弓さんはこの歌の作曲者でもあります。この歌を聞くと心が浄化されるような思いがします。子ども向けの映画ソングにしては、歌詞がとても難解だと思いました。
この歌は木村弓さんが覚和歌子さんに自分が作曲した曲に歌詞をつけてもらって完成したそうです。ところが木村弓さんは歌い出し部分の
「呼んでいる 胸のどこか奥で いつも心踊る 夢を見たい」
「呼んでいる 胸のどこか奥で いつも何度でも 夢を描こう」
だけ自分で作詞して、後の歌詞の作成を覚和歌子さんに依頼したようです。最初の歌詞は、「失敗を乗り越え、いつも何度でも自分の夢に挑戦しようという自分の心の声に気づこう」というメッセ-ジです。後の歌詞は、最初の歌詞のメッセ-ジを引き継ぎながら、内容を深めさせています。
覚さんは、自分の心の声に気づくには、「ゼロになるからだ」が必要だと考えています。「ゼロになるからだ」とは、おそらく「思考がゼロになり、ありのままの感覚を受け入れたいわば瞑想状態の身体」だと考えられます。大きな過ちや悲しみ出会った時には、考え疲れて、あるいは呆然として思考が止まり、ありのままの感覚が受け入れられるようになることがあります。「ゼロになるからだ」によって、人は大きな過ちや悲しみを乗り越えてきたのかもしれません。世界の光がゼロになった自分に差し込むことを体験することで、輝くものは私自身の中にあったと気づいて、外に探し求める過ちをしなくなったと歌詞には書かれています。
「いつでも何度でも」の歌は、元来「煙突描きのリン」の主題歌になるはずだったのですが、宮崎駿監督の裁量で「千と千尋の神隠し」のエンディングの歌になったようです。
「煙突描きのリン」の原案は「霧の向こうの不思議な町」という童話だそうです。リンというのはその童話の20歳の女性主人公です。大阪からやってきたリンが東京の風呂屋に住み込み、煙突に絵を描くという話です。リンは「千と千尋の神隠し」の「油屋」で働く千尋の先輩として登場します。おそらく主人公を低年齢化することで、映画の客層を拡大したかったのでしょう。ちなみに覚さんは山梨県のご出身で、甲府市にある近所の甲斐清和高校の校歌「太陽の旅路」を作詞されています。
「いつでも何度でも」~『千と千尋の神隠し』の主題歌
作曲:木村弓 作詞:覚和歌子
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心踊る 夢を見たい
私の胸のどこか奥で誰かが私に「いつも心踊る夢を見たい」と呼びかけている。
悲しみは 数えきれないけれど
その向こうできっと あなたに会える
悲しみは数えきれないほどあるけれど、悲しみの向こうできっと新しいあなたに会える。
繰り返すあやまちの そのたびひとは
ただ青い空の 青さを知る
過ちを繰り返す度に人はただ青空の青さの様なありのままの姿に気づかされる。
果てしなく 道は続いて見えるけれど
この両手は 光を抱ける
過ちから立ち上がる道は果てしなく続いているように見えるけれど、そんな時でもこの両手はいつでも平安の光を抱ける。
さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる
過ちの人生に別れを告げた静かな心で、思考から自由になった身体が聴覚に目覚めている。
生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ
花も風も街もみんな生きている不思議と死んでいく不思議を感じている。
ラララララララララ・・・・・・・・・
ホホホホルルルル・・・・・・・・
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう
私の胸のどこか奥で、誰かが私に「いつも何度でも夢を描こう」と呼びかける。
悲しみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっとうたおう
悲しみの数を言い尽くすより、同じ唇で自分のためにそっと歌おう。
閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れたくない ささやきを聞く
悲しい思い出を忘れようとする時に、いつも忘れたくない大事な囁きを聞くことができる。
こなごなに砕かれた 鏡の上にも
新しい景色が 映される
それは、粉々に砕かれた鏡の上にも新しい景色が映されるように、どんなに悲しみに打ち砕かれたとしても必ず新しい人生が始まる、という囁きだ。
はじまりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ 充たされてゆけ
新しい景色の始まりの朝に光が差し込む静かな窓のように、思考がゼロになりありのまま感覚を受け入れた身体は平安の光に満たされてゆく。
海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから
輝くものはいつもわたしのなかに見つけられたから、海の彼方に理想の自分を探しにいく必要はもうない。