仏陀は弟子たちに心を鍛え清らかにすることで悩み苦しみを超越する生き方を教えました。四諦の2番目の集諦(じったい)とは、怒り苦しみには原因があるという真理です。苦しみの原因を考えてみましょう。どうして怒りが生まれるのでしょうか?それは、私たちが苦しみを善悪で裁いてしまうからです。私たちは「これは悪いことだ」と判断するから、怒るのです。私たちは思考によって、「これは良い」、「これは悪い」と裁いています。つまり怒りの苦しみの原因は執着(固定観念)に起因する反応的な思考なのです。この世はどんなことも起こり得るのです。「これは悪いことだ」「これはあってはならない」という反応的な思考判断は、どんなに正しく見えても、事実ではなく意見であり、酷ければ思い込みに過ぎません。
3番目の滅諦とは、執着がなくなれば、怒り苦しみが消滅するという真理です。どうすれば執着はなくなるのでしょうか?それは瞑想つまりありのままの観察が執着を無くさせると説かれています。例えば「自分は苦しんでいる」と自分の心のあり様をありのままに観察して、善悪の思考判断に囚われなくなれば、怒りの感情は沸きません。大脳による観察がないときには、古い脳の感情的な反応に刺激されて、善悪の思考判断が生じて、怒りが生じます。思考は生じた怒りを正当化し、事態を悪化させます。余程の緊急事態でなければ、怒って当然ということはありません。私たちは大抵、些細なことに腹を立てているのです。怒りに任せた無理な行為が新たな苦しみを引き起こします。
同様に「これは嘘だ」と判断すれば、疑いの心が大きくなり、「私は劣っている」と判断すれば、劣等感が生じます。「これは良い」「これは美味しい」と判断すれば、もっと欲しいという欲望が大きくなってしまいます。「これは素晴らしい」と判断すれば、理想に執着することになります。肯定も否定も価値判断を伴う思考は固定観念となり、執着を生じさせてしまうのです。だから仏教徒は自分の考えを本気にしません。
仏陀の瞑想は有念無想の訓練です。例え思考が生じたとしても。直ちに「価値判断をした」「善悪を裁いた」「正誤を考えた」と気づき、客観的にありのままの心を念じることができれば、思考が断たれ、執着が生じません。食事をしていても、急いで食べて「これは美味しい」と価値判断せずに、よく味わって「味がする」とだけ念じます。仏陀は、いかなる苦しみに出会っても、肯定も否定もせずに思考を超越し、ありのままの心身の変化に気づき、念じることで無用な苦しみを避け、心を安定かつ清浄に保つ瞑想法を完成させたのです。
最後の道諦は、八正道の実践が苦の永遠の消滅に至る道であるという真理です。八正道は正見、正思惟、正語、正行、正業、正精進、正念、正定の8つです。正見というのは、心身は無常かつ無我なる生滅現象であるという仏陀の見解です。「我」「我所有」は最も執着を断ちがたい思考習慣です。仏陀は、無我の真理を知り、一切が現象であり、執着すべきものが無くなったとき、もう無用な苦しみに会うことはないと説かれました。
この世は不条理なことだけでなく、理不尽なことも起きるようにできています。しかしこの世を呪い、他人を憎んで生きることは、自分や家族を不幸にします。自分が幸福に生きるためには、すべての人の幸福を願って生きていくしかありません。自分だけでなく多くの人が理不尽な不幸に耐えて生きていることを知り、理不尽な出来事に感謝して瞑想を実践し、自分の弱い心を鍛え、清浄に保つ努力をするしかありません。よい仲間を持ち、正しい努力ができれば、それで幸福なのです。