卒業生の皆さん、こんばんは。地球のしごと大学教養学部の三期生の角野雅芳です。これから「世界商品により形成された近代世界」(前半)と題して発表をします。
これからお話する16世紀から18世紀の時代は大航海時代と呼ばれています。この時代は、ヨ-ロッパの国々が遥々大西洋やインド洋を横断してアメリカ大陸や東アジアの国々に出かけて活発に貿易をした時代です。「世界商品」とは、世界中で取引された商品のことです。本講義では、近世の世界商品はどのようなものだったかを紹介し、世界商品が今日のグロ-バル経済の発展に重要な役割を果たしたことをお話しします。近代世界は世界商品の開発と争奪戦により形成されたという事もできるでしょう。世界商品を巡る競争は現代社会でも続いています。その結果地球規模の様々な問題が生じています。皆さんには「ヨーロッパの人々はなぜそのような商品を渇望したのか?」を考えて頂きたいと思います。
1.はじめに
・今なぜ歴史を学ぶのか?
歴史の流れや出来事の因果関係を考えることで、
1)今の社会がどのように形成されてきたか?
2)今の社会の問題の原因は何か?
を知ることができます。それによって
1)先人の苦労のおかげで今の私たちがあることに感謝すること
2)先人の過ちを教訓にして、私たちの生活向上に役立てること
3)良い環境と文化を継承し、子孫の生活向上に役立てること
ができるようになると思います。
それではなぜ今なのでしょうか? それにはいくつか理由があります。
1)研究が進み、様々な新情報が手軽に入手できるようになった。
2)大人になって、総合科学として歴史を深く理解できるようになった。
3)今でも過去と同じ問題を抱えているので、歴史から学ぶことは多い。
例えば、疫病、戦争、差別、支配、貧困、恐慌・・・
また化石燃料資源の枯渇により、私たちの子孫は、電気機械やエンジンのない近世と同じような状況に遭遇すると考えられます。私たちは、子孫のことを考え、
1)近世の生活を知り、有用技術を伝承すること
2)子孫自体と子孫の環境を保全すること
をすべきではないかと思います。
・典型的な歴史の流れ
歴史というのは偶然の出来事の集積ではありません。社会変化の仕方にはある種の必然性があります。以下に典型的な歴史の流れを示します。
1)集団で協力した方が、全体の利益が増えることに気づく。
2)集団が大きくなると、全体を取りまとめる人が必要になる。
3)リーダがメンバ-に仕事を与え、得られた収益を分配する。
4)効率が良くなると、社会に富が蓄積し、リーダの権力が増える。
5)大国になると、国王が宗教的指導者として国を統率する。
6)国王が富と権力を使って、官僚や軍隊を整え、農民を守る。
7)王族が近親婚を繰り返し、王位継承に問題が生じ、戦争になる。
8)王室が慢性的に財政難となり、商人は王室を利用して儲ける。
9)国王が戦費を増税でまかない、怒った民衆が国王を倒す。
10)民衆の議会が王権を制限し、効率的な国家運営をめざす。
・5つの時代区分と経済的特徴
通常世界史は、経済的な特徴により、古代、中世、近世、近代、現代の5つの時代に区分されます。古代は農業社会で領土の拡大とともに財政収入が増えたので、軍事国家が栄えました。中世は宗教の支配の下で地方分権的な都市国家が連携して貿易していました。近世は商工業経営者が絶対王政を財政的に支え、海外貿易を促進しました。近代は市民勢力による王権排除、産業革命と植民地獲得競争が激化しました。現代は領土の拡張競争が飽和し、国が勝手に発行した貨幣が増殖する時代だと考えられます。
・16世紀の世界6地域の国家と商品
16世紀の世界は主に、アメリカ植民地、ヨ-ロッパ、西アジア、アフリカ、インド、東アジアの6つの地域の国家から成ってしました。各国は自国の特産物を他国の特産物と交換して貿易をしていました。他国の魅力的な商品は高値で売ることができます。貿易は大変な利益になったので、権力者である国王や国王が認めた商人が貿易に携わっていました。当時の先進国は東アジアの中国とインドでした。西アジアのイスラム商人は、東アジアの茶や絹織物、インドの綿織物や香辛料を輸入し、陸路でヨ-ロッパ世界に運んで交易をしていました。ヨーロッパは地中海貿易でワインやオリ-ブなどを売って利益を上げていました。
アメリカ大陸が発見される以前の16世紀初頭は、ヨーロッパは、西は大西洋、東はイスラム世界に阻まれて孤立していました。ヨーロッパはイスラム商人が運んでくる綿布や香辛料や染料や金銀財宝を見て、東洋に神秘的な憧れを抱いていました。これらの商品は地中海世界にはありませんでした。写真や録音機がない時代に、ヨーロッパ人が東洋を知る方法は綿布や香辛料や染料しかありませんでした。特に香辛料の鮮烈な香りは東洋に対する憧れを掻き立てました。
2.近世の世界商品
・現代の世界商品は情報サービス
現代の主力の世界商品は情報通信サ-ビスです。コンピュ-タ-ゲーム(ソニ-他)、大規模なソーシャルWEBサービス(Facebook)、人工知能サービスや人材マッチング(グーグル)、ホテル予約サ-ビス(トリバゴ)などが情報通信サ-ビスです。マイカ-リ-ス(オリックス他)や携帯情報端末(アップル社)やスマホ自動決済(ペイパル)などもあります。運動不足の人たちには、フィットネスクラブ(コナミスポーツ他)、飲み水を気にする人にはミネラルウオ-タ・サーバ-(コスモウオ-タ-他)があります。商品は大規模な通信販売サ-ビス(アマゾン)によって供給されます。
・近世の世界商品は銀と有用植物
世界商品には、植物系、動物系、無機物系があります。金や銀は歴史を通じで重要な交易品でした。近世の世界商品の特徴は、胡椒、香辛料、砂糖きび、コ-ヒ-、カカオ豆、茶葉、唐辛子、たばこ、綿花、染料、木材などの植物系商品が多いことです。動物系商品には、絹糸や家畜があり、奴隷や傭兵なども含まれます。
・辺境の貧村ギリシャが大国化した理由
紀元前520年にアケメネス朝ペルシャの大王ダレイオス1世はペルセポリス(イラン内陸部)に都を建設しました。アナトリア(トルコ)地方は東西交易の要所であり、リディア王国のエレクトロン貨(BC670年)は世界最古の硬貨(金銀1:1)です。ダレイオス金貨は純度98%の金貨(17g)です。ペルシャの金銀交換費は1:13で、インドは1:8でした。インドの金をペルシャに行って銀と交換して帰るだけで1.6倍(=13/8)になったのです。つまりインドからペルシャに金が流入することで、ペルシャは大国の信用を得ることができました。
当時、隣りのギリシャは貧村でした。しかしギリシアでは銀山が次々と発見され、ペルシャやインドより高い金銀の交換比により、金が流入して、ギリシャは豊かになりました。金は国の信用、銀は貨幣となり経済活動を活発にします。ギリシアは銀と交換に船と漕ぎ手を得、海軍を増強し、サラミスの海戦でペルシャ軍を撃破しました。
ちなみに1858年の日米修好通商条約では日本の低い金銀比によって、日本の金が大量に流出しました。日本は品質の劣る万延小判を発行して対応した経緯があります。
・サラミスの海戦で活躍した軍船
サラミスの海戦(BC480年)はアテナイの将軍アリステイデスとペルシャのクセルクセス1世の戦いです。ギリシア艦隊は380隻(アテナイ180隻)、ペルシャ艦隊は680隻です。ギリシア艦隊である三段櫂船の漕手は170人(無産階級市民)、水夫・戦闘員は30人でした。漕ぐ座席は片側30席で3段でした。最高速度は18km/h程度です。地中海は弱風地帯なので多くの漕ぎ手が必要でした。海戦は敵船に衝突して青銅製の衝角(ram)で敵船の腹に穴を穿って浸水させるものでした。200人乗りの船を建造できる技術は紀元前からあったのです。
・有用植物の多くは生活に不要で不味い
有用植物 風味 原産地
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・胡椒 辛い インド南部(マラバル海岸)
・唐辛子 辛い 中南米
・砂糖キビ 甘い 東南アジア(北インドで精糖)
・コーヒ-豆 苦い エチオピア
・カカオ豆 苦い 中南米(西アフリカでも生産)
・茶葉 渋い 中国(インドでも生産)
・タバコ、大麻 煙い 中南米(パレンケ)
・香辛料(丁子) 強香 スパイス諸島など
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胡椒や唐辛子は辛く、コ-ヒ-豆やカカオは苦く、茶葉は渋く、香辛料は強香です。砂糖キビを除けば、これらの有用植物の多くは不味いものです。また生活に必要なものではありませんでした。胡椒の原産地のマラバル海岸(Malabar coast)はインド南西部のアラビア海に面する海岸です。マラバル海岸では紀元前6世紀から胡椒の栽培が行われていました。ここは細長い平野の前面に多くの潟湖を抱えた海岸砂丘が連なり、ココヤシ、コショウ、ゴム、コーヒーなどが栽培されています。
・胡椒の辛み成分はピペリン
唐辛子の辛み成分はカプサイシンCapsaicin(1816年)であることは良く知られています。胡椒の辛み成分はピぺリンPiperine(1819年)といいます。ピペリンが抗菌・防腐・防虫などの効果をもっています。どちらも温度受容体TRPV (=Transient Receptor Potential V)を刺激して辛みを生じます。
エジプトに行くと様々の色の胡椒が大量に売られています。これらの違いを覚えておくと上手に胡椒が買えるでしょう。黒コショウは、熟す前の緑色の胡椒の実を収穫して乾燥させたものです。白コショウは、完熟した赤色の胡椒を乾燥後、水にさらして皮を取り除いて得たものです。ピンクペッパーはウルシ科コショウボクの実で、胡椒とは異なります。これはカルパッチョに風味と彩を添えるのみ用いられます。胡椒の成熟した1本のつるからは、乾燥後で2㎏の実(6,000円相当)が収穫できます。300本で180万円程度になります。但し胡椒栽培には多湿環境が必要です。
・胡椒を得るために大航海時代が開始
胡椒の実用的価値は、1)肉の臭みを取る、2)肉の賞味期限を伸ばす、3)肉に風味つける、といったことです。当時、ヨーロッパには、胡椒に代わる生姜やシナモンなどはありませんでした。西欧では冬季に家畜を殺して、肉を保存しました。気温が低く、塩漬けで保存できたので、胡椒は必ずしも必要ありませんでした。
胡椒には幻想的価値がありました。香辛料は‘東洋の神秘’を体験する唯一の方法だったのです。当時の欧州には東洋の地図や写真や映像がありませんでした。また世界の果て‘東洋’にはエデンの楽園があるとの信仰がありました。エデンの楽園は人間が不道徳に堕落する以前の楽園だと信じられていました。
インドの胡椒は殆ど中国に輸出されており、欧州の胡椒は品薄でした。またイスラム商人が中間利益を得たために、欧州の胡椒は高額でした。当時欧州で、胡椒はどれくらいの値段だったのでしょうか? 値段は時代によって異なります。胡椒は金と同じ値段(6000円/g)だったこともあったでしょう。しかし1枚1000円ステ-キに6000円の胡椒を用いる代わりに、新鮮な牛肉を6枚購入した方が安上がりですね。色々な文献によると、当時のヨーロッパの胡椒の値段は今の20倍~30倍の値段だったと思われます。1本15g入りのテ-ブル・コショウ-は、今は150円ですから、当時は3000円~4500円したことになります。胡椒は高価だったので、ポルトガル商人は胡椒を得るために、危険を冒してインドまで航海したと思われます。
・大航海時代に野菜は世界中に拡大
大航海時代以前にはヨ-ロッパには海外の野菜は殆ど入ってきませんでした。大航海時代にヨーロッパ、アメリカ大陸、東西アジアの野菜は世界中に広まり、その後100年から200年経って、世界の人々の食生活は大きく変わりました。野菜の原産地を知ると、原産地の気候から栽培方法が分かります。ジャガイモとトマトは南アメリカ大陸、キャサバは中央アメリカが原産地です。ブロッコリ-やレタスはヨ-ロッパが原産地です。ナス。ズッキーニ、ピ-マンは南インドが原産地です。ほうれん草、玉ねぎ、大根は中央アジアが原産地です。タケノコ、銀杏、梅、大豆は中国が原産地です。モロヘイヤはアフリカが原産地です。
多くの野菜には毒が含まれています。これは野菜が自分自身を外敵から守るためです。人類は矢先に毒を塗って狩りをしていました。大昔は食中毒と戦死が主な死亡原因でした。昔の人は現代人より毒に関する高い見識を持っていました。
イタリア人がパスタを食べるようになったのは、14~15世紀です。軟質小麦が栽培されていた北イタリアでは生パスタが、デュラムなど硬質性の小麦がとれた南イタリアでは乾燥パスタが作られていました。パスタは粉チ-ズとはちみつをかけて食べられていました。今日のイタリヤ料理で有名なスパゲティ・ポモドーロ(トマト味)はありませんでした。トマトは、アステカ帝国を征服したエルナンコルテスが観賞用に持ち帰ったと言われています。17世紀末にフランスやドイツで品種改良され、18世紀にイタリアにトマトが食材として入り、19世紀になってようやくトマトソースが誕生します。日本にはオランダ人を介してトマトが入ってきました。
トマトはツル科の植物の果実(フル-ツ)ですが、1893年に米国の最高裁が10%の関税対象とするために、トマトを野菜とする判決を下しました。それ以来、トマトは野菜として扱われています。
・野菜に含まれる毒物
トマトの熟した実に毒は含まれていませんが、葉や茎にはトマチンという毒物が含まれています。大根の様に野菜の根と葉がすべて食べられるとは限りません。トマトとじゃがいもは同じナス科の植物なので、これらの毒は類似しており、ステロイド環が含まれています。モロヘイヤの葉は、粘り気があり、栄養価も高いです。しかしモロヘイヤの茎や種子や鞘にはストロファンチジンというステロイド環を有する毒が含まれているので要注意です。銀杏のギンコトキシンはビタミンB6と構造が似ているので、容易に吸収されて中毒を引き起こします。梅やア-モンドの仁に含まれるアミダグリンは青酸を発生させます。タケノコに含まれるタキシフィリン(青酸配糖体)も青酸中毒を引き起こします。タケノコは必ず茹でて食べなければなりません。タケノコのえぐ味はシュウ酸によるものです。シュウ酸は腸内でカルシウムと結合して排泄されます。シュウ酸を摂りすぎると、尿中でカルシウムと結合し、尿路結石の原因となります。
・ジャガイモの歴史
ジャガイモは16世紀に南米アンデスからヨーロッパにもたらされました。最初、ジャガイモは家畜用に用いられ、ヨーロッパの人々は食べませんでした。なぜならジャガイモは聖書に載っておらず、種芋で増えるので、「悪魔の作物」として嫌われていたからです。しかしジャガイモには様々な利点があり、ヨ-ロッパの人口を激増させました。プロイセンの啓蒙専制君主フリードリヒ2世は自ら領地を巡回してジャガイモ普及させました。食は非常に保守的です。トマトもジャガイモも輸入されてから食用になるまで200年くらいかかっています。
<ジャガイモの利点>
1.寒冷な気候に耐え、高地や痩せている土地でも育ち、収量が大きい。
2.戦争で畑が踏み荒らされても収穫できる。
3.農民にジャガイモを食べさせれば、領主は美味しい麦を食べられる。
1728年にスコットランドで、1748年にフランスでジャガイモの栽培が禁止されました。ソラニン中毒が多発したからです。英国でジャガイモの料理本が出版されて、ジャガイモが多く食べられるようになりましたが、皮や芽、皮の緑色の部分を取り除くように指導されていなかったようです。
現代ではソラニンの含有量は100g当たり2g程度ですが、当時は小型のものが多く、皮部70mg、可食部 100 gあたり30〜90 mgのソラニンが含まれていました。4個以上食べると200mgを超え、頻脈、頭痛、嘔吐、胃炎、下痢などの中毒症状が現れたのです。子どもはもっと少量で中毒するので注意が必要です。ソラニンは茹でても分解しません。200℃の油で5分間上げると、ソラニン含有量は元の60%程度に低減します。
1845年、アイルランドでジャガイモが不作で飢饉が発生し、100万人の死者と150万人の難民がでました。ケネディ大統領の祖父様はその時の難民の一人でした。19世紀にはジャガイモは重要な主食となっていたことが分かります。
<ジャガイモの保存方法>
1.低温3℃~10℃で貯蔵し発芽を防ぐ。
2.海外産には発芽防止剤クロロプロファムが用いられる。
3.チューニョに加工すると保存がきく。チューニョは凍結と乾燥、足踏み脱水して乾燥させます。
・キャサバの歴史
キャッサバは中南米原産の多年生植物の芋です。キャッサバは女性に人気のタピオカの澱粉原料です。16世紀にキャッサバは黒人奴隷の船上食料に利用されていました。東南アジアでは家畜飼料として栽培が拡大しています。キャサバの葉を発酵させたものにイモのチップを混ぜ、更にコメや魚粉を混ぜてつくります。キャサバの葉は栄養価が高いですが、青酸毒があるので天日干しをします。
キャサバの収量はサツマイモ(10t)やジャガイモ(12t)の3倍以上あります。キャサバは世界で8億人の食料を支えており、食糧危機を支える植物として期待されています。観葉植物にもなります。茎25cmを地面に刺して苗をつくります。ジャガイモもキャサバも新大陸からヨ-ロッパにもたらされた芋です。
<キャサバの利点>
1.高温、乾燥気候に強い。
2.酸性土壌、痩せ地でも栽培可能(10トン/ha)
3.高収量(11カ月で30~100トン/ha)
3.ヨーロッパが大航海時代を迎えた理由
・西欧には世界商品となる有用植物なし
ヨ-ロッパには、茶、胡椒、綿花などの世界商品になるような有用な植物はありませんでした。当時ヨーロッパでは地中海沿岸のシソやセリ科の香草を煎じて飲んでいました。16世紀初頭のヨ-ロッパは寒冷化が進み、フランスのマルセイユ港付近の海が氷ることもありました。胡椒や生姜や香辛料は気温の低いヨ-ロッパでは育ちませんでした。世界を旅して、有用植物を発見して、どこか南国の無人島で栽培するしかなかったのです。ヨ-ロッパ諸国が世界進出をせざるを得なかった背景には、ヨ-ロッパが地理的に孤立していたこと、有用な植物や鉱物に恵まれなかったこと、人件費も高く特産物が高値で売れなかったことなど不利な条件がいくつもありました。
大航海時代にスペインはアメリカ大陸を発見します。ヨ-ロッパとアメリカ大陸は大きな影響を及ぼし合います。アメリカ大陸からヨーロッパにもたらされた物の多くは、主食となる穀物、嗜好品、野菜でした。これらはスペイン料理やイタリア料理などのヨーロッパ諸国の食文化に大きな影響を与えました。ヨ-ロッパ人はアメリカ大陸で砂糖キビや綿花やたばこなどの有用な植物を栽培することができました。
ヨーロッパからアメリカ大陸にもたらされた物は、キリスト教、車輪、鉄器、銃などの文明の品々、家畜とヨーロッパ人入植者自身と天然痘などの伝染病でした。それによって5000万人以上のアメリカ大陸の先住民族が滅びました。
<アメリカ大陸からヨーロッパにもたらされたもの>
1)メキシコ原産のトウモロコシやサツマイモ、
2)東洋種のカボチャ、トウガラシ、熱帯アメリカ原産のカカオ
3)アンデス高原原産のジャガイモ、カボチャ、トマト
4)タバコや梅毒
<ヨーロッパからアメリカ大陸にもたらされたもの>
1)世界宗教としてのキリスト教
2)コムギ、サトウキビ、コーヒーなどの農産品
3)馬・牛・羊などの家畜
4)車輪、鉄器、銃
5)ヨーロッパ人入植者
6)天然痘、麻疹、インフルエンザなどの伝染病
・オスマン帝国の地中海支配(1299年 - 1922年 )
大航海時代の前に、オスマン帝国が地中海世界を支配していました。1451年から1481年、メフメト2世はバルカン半島の諸国を次々と制圧しました。オスマン帝国は1453年には巨大なウルバン砲を用いてコンスタンティノープルの街を破壊して、ビザンツ帝国を完全に征服しました。オスマン帝国はヨーロッパ人に対して、税金を支払えばイスラム教への改宗を強制しませんでした。オスマン帝国はヨーロッパ人に子どもたちを差し出させ、オスマン帝国の官僚や兵隊に育てました。ヨーロッパ人は自分の子どもを差し出せば、免税されました。オスマン帝国は、アラブ人の腐敗を防ぐためにヨーロッパ人を受け入れ、優れた多民族帝国を作り上げました。
・プレヴェザの海戦でオスマン帝国が勝利
1538年9月28日エ-ゲ海のプレヴェサ沖にてスペインの神聖同盟とオスマン帝国の海戦が行われました。神聖同盟は大小162隻のガレー船と6万人の兵士、オスマン帝国は大小122隻のガレー船と2万人の兵士で戦いました。スペイン船13隻が沈没し、400人あまりが死亡しました。スペイン側はあまり戦わずに逃亡します。大海賊バルバロッサ率いるオスマン艦隊が、スペイン・ヴェネツィア連合艦隊を撃破しました。プレヴェサの海戦以後、イタリア商人は地中海やシリアで香辛料を売買することができなくなりました。
・テンプル騎士団は国家的な修道会
テンプル騎士団は、1118年ユーグ・ド・パイヤン総長が始めた修道会であり、200年間でヨーロッパ全域に広がりました。テンプル騎士団は艦隊を保有しており、十字軍が退却した後の聖地エルサレムの防衛を目的としていましたが、武力を利用して王室の財宝や資産を管理していました。
<業務内容>
1)第1次十字軍が得た聖地エルサレムの防衛(艦隊を保有)
2)王族や貴族から寄付された土地を換金(教会税の免税特権あり)
3)自己保有資産の財務管理(仏王室の財宝・通貨の保管)
4)王室や巡礼者への金融サ-ビス(預金通帳、口座開設)
5)農地の生産物を貨幣化(商業)
6)イタリア商人の海路と陸路の護衛
・1291年にエルサレム王国のアッコンが陥落し、十字軍が衰退します。1306年にフランス王フィリップ4世はテンプル騎士団員を異端審問で殺害し、騎士団の資金を横領してしまいました。テンプル騎士団は1312年の教皇庁による異端裁判で解体されましたが、キリスト騎士団と名前を変えて、銀行業務を継続します。 テンプル騎士団は、国家とは言えませんが、自前の軍隊、通貨、法律、領土を持っていました。クリストファ-・コロンブスの妻はキリスト騎士団長の娘でした。彼は叔父のコネを利用して、スペイン王に西インド諸島への航海を申し出て、資金を得ます。
国家ではないが極めて自治性の高い都市として、ジャマイカのポートロイヤルがあります。そこは賭博場、売春宿、居酒屋が立ち並ぶ悪徳海賊の自治地区でした。1692年、ポートロイヤルは巨大地震で崩壊します。
・地中海貿易で栄えたジェノバとベネチア
16世紀の大航海時代にポルトガルやスペインが巨額の費用をかけて大航海に乗り出せたのは、ジェノバ商人の金融支援があったからでした。13世紀にジェノバは黒海シルクロ-ド経由で東方と絹貿易をしていました。ベネチアはシリアやエジププト経由で香辛料貿易をしていました。1317年にポルトガル王のディニスが、ジェノヴァ商人エマヌエレ・ピサーニョに貿易特権を与え、ポルトガル海軍総督に任命しました。ジェノバはポルトガルに高利子で融資して荒稼ぎをしました。14世紀にジェノバはベネチアに東方交易路を奪われます。1453年にビザンツ帝国滅亡し、オスマン帝国が支配します。1519年にジェノバはスペイン王カルロス1世に神聖ロ-マ帝国の皇帝選挙の資金として金2トン(140億円)を寄付しました。それほどジェノバ商人は蓄財していたのです。イタリア商人は1538年のプレヴェサの海戦でオスマン帝国に地中海貿易権を奪われます。しかしジェノバのサン・ジョルジョ銀行には地中海交易で蓄えた膨大な資産がありました。ジェノバ債は償還5年、年利率3%の人気の債権でした。他の債権の利率としては、イタリヤ諸都市が5%、オランダが10%、フランスが15%でした。ジェノバは低利子で金を集め、高利子でカトリック王国に融資し、資本を蓄積したのです。
・大航海時代の年表
1452年にローマ教皇ニコラウス5世が非キリスト教徒を奴隷にすることを許可します。1474年に天文学者トスカネリが地球球体説を発表します。コペルニクスは1473年生まれです。1488年にバルトロメウ・ディアスが喜望峰(アフリカ最南端)を発見します。1492年にナスル朝のグラナダが陥落し、スペインのレコンキスタ(国土回復運動)が完了します。同年にコロンブスがアメリカを発見(サンサルバトル島、西インド諸島)します。航海には2カ月を要しました。1493年にロ-マ教皇アレクサンドル6世(ス)がスペインとポルトガルの境界線を大西洋に定めます。1494年にジョアン2世(ポ)とフェルディナンド2世(ス)がトルデシラス条約を締結し、ブラジルがポルトガルの領土になりました。1998年にヴァスコ・ダ・ガマ(ポ)がインドのカリカットに到達します。1517年にドイツのマルチン・ルタ-が教会より信仰が大切だと反抗し、プロテスタントの宗教改革を起こします。1519年にマゼラン(ポ)がスペイン船で世界一周に向けて出発し、1521年にフィリピンに到達します。同年にスペインのコルテスがアステカを滅ぼします。1529年にサラゴサ条約が締結され、スペインとポルトガルの太平洋上の境界線が決まります。1533年にスペインのピサロがインカを滅ぼし、大量の金銀がスペインにもたらされます。1543年にポルトガル船が種子島に漂着し、日本に鉄砲が伝来します。1545年にボリビアのポトシで銀山が見つかります。この銀はスペイン絶対王政の財政基盤となります。1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し、イエズス会のカトリック布教が始まります。1571年にレパントの海戦があり、スペインとベネチアがオスマン帝国を撃破します。1580年にスペインがポルトガルを併合します。スペインは多くの植民地を得て「太陽の沈まぬ国」と称されます。同年にオランダがスペインから独立し、フェリペ2世のカトリック強制から解放されます。1588年にスペインがアルマダ戦争でイギリスに敗北し、スペインの海上支配が終焉します。1602年にオランダ東インド会社の設立。オランダがスペインの植民地で海賊行為をします。1621年にオランダ西インド会社の設立。ブラジルを拠点とした三角貿易が開始されます。1623年にアンボイナ事件発生。オランダが、モルッカ諸島でイギリスの商館員を虐殺し、東南アジア貿易を独占します。1648年にウエストファリア条約が締結され、神聖ロ-マ帝国が解体します。
この時代の美術はバロック美術と呼ばれています。宗教的な絵画が次第に肉体的な近代絵画に代わっていきます。ルーベンスのキリスト昇架は両方の特徴を持ちます。イギリスの小説家ウィ-ダによる児童文学『フランダースの犬』では、主人公の少年ネロがルーベンスの『キリスト昇架』の絵と出会う最後のシ-ンがありましたね。
4.大航海を可能にした技術
・大航海時代の帆船
大航海時代には様々な帆船が現れ、大型化していきました。初期のガレ-船は地中海やバルト海などの内海で用いられた帆船で、2本マストと2枚の三角帆が特徴です。内海は風が弱いので漕ぎ手が必要です。キャラベル船(ダウ船)は沿岸航海用60トン級の帆船で、コロンブスのビンタ号に代表されるように、3本のマストに大小3枚の三角帆が特徴です。ナウ船は遠洋航海用85トン級の帆船で、マゼランのビクトリア号に代表されるように、5枚の4角帆が特徴です。キャラック船は外洋航海用200トン級以上の帆船で、コロンブスのサンタマリア号が代表的なキャラック船です。さらにガレオン船という大型帆船があり、スペインやポルトガルの貿易に用いられていました。
・帆船の構造と性能の比較
縦帆は操縦性に優れますが、速度は遅いです。横帆は速度は大きいですが、操縦性に劣ります。縦帆と横帆を組み合わせて、操縦性と速度を両立させていました。外洋は波が高いので重くて大きい方が有利でした。積載量が大きいほど、寄港せずに大洋を横断できたので、時代と共に大型船が建造されました。
・縦帆を用いると風に対して垂直に進める
流体力学のベルヌーイの法則によると、帆が風を受けると、膨らんだ帆の表裏に気圧差が生じるので、帆に揚力がかかります。また船は傾いたときに戻ろうとする復元力(ヒール力)が働きます。このヒール力と揚力の合力が推進力になります。下の図の場合、風に対して帆を15度傾けて張ると、風に対して垂直に進めます。縦帆を制御すれば、風に向かって斜めに進むこともできます。
・大砲は航海の必需品
1453年にイスラム世界にウルバン(ハンガリ人)の青銅大砲が出現しました。ウルバン砲は砲身長が6mもあり、重さ300kg(直径50cm)の石弾を1.6km先に撃ち込めたと言われています。オスマン帝国はビザンティン帝国の強固なテオドシウス城壁をウルバン砲で打ち抜いて勝利しました。オスマン帝国の大砲は、陸上戦用なので大型で、機動性より破壊力が重視されていました。ヨーロッパの大砲は、海戦用なので、破壊力より軽量性が重視されました。標的の木造船を破壊できればいいので、威力より射程距離が長い小砲弾が用いられました。海戦では連続発砲できる方が有利です。小型の大砲の方が早く冷えるので、発射間隔を短かくできます。
芸術と女に目がないイングランド国王ヘンリー8世は自分の離婚を認めないカトリック教会に腹を立てていました。1534年にヘンリー8世は国王至上法を公布してイングランドの教会のトップに君臨し、カトリック教会と決別し、スペインと対立しました。
エリザベス1世はイングランドの海賊船長フランシス・ドレイクが、スペイン船を襲撃するのを看過していました。現代では考えられないことですが、当時、海賊行為は植民地戦争の一環として認められていました。カリブ海では貿易船と海賊船の区別がつきませんでした。フランスではカトリック派に追われた改革派は海賊に落ちぶれ、新大陸の金銀を運ぶスペイン船を襲いました。ヨ-ロッパでは大砲は航海の必需品だったのです。
・遠洋航海を可能にした発明発見
外洋は目標物がないので、自分の船の位置を天測航法により求めていました。天体観測に必要なものはコンパス、高度計(アストロラ-ベ)、時計(クロノメ-タ)と天体位置図表です。天測航法とは、外洋で天体を観測することで船舶の位置を特定する航海術です。ある時刻の月と太陽の地球上の投射位置は天体位置図表に記載されています。太陽高度が40°の場合、太陽の投射位置を中心とする赤円が描けます。月高度が56°の場合、月の投射位置を中心とする青円が描けます。現在地はその2つの円の交点であることが分かります。近世の遠洋航海の経験と技術が、近代の科学的知識を急速に発展させ、産業革命につながります。
紀元前、中国では磁針を水にうかべる指南魚がつくられました。1300年頃マルコポ-ロらが中国の方位磁針を持ち帰りました。ヨーロッパで磁針をピボットで支えるように改良されました。1380年に回転する方位牌付きコンパス(羅針盤)が発明されます。コンパスは北半球の場合、針が水平になるように、S極側を重くしています。
1480年にドイツの天文学者マルチン・ベハイムが航海用のアストロラーベ(高度計)を発明します。指方規を回転させて、月や太陽の高度を計測します。海上の強風に耐えるために指方規に風通しの穴があります。
1735年にジョン・ハリソンがゼンマイ式クロノメータを作製します。81日間航行で8.1秒遅れを実証しました。この時計は10日で1秒しか遅れない精度を有していました。1757年にニュートン、ハドリーらが六分儀を発明し、経度計測が可能になりました。経線の精度は2.8kmでした。
1753年にイギリス海軍軍医ジェームズ・リンドは、オレンジの摂取が壊血病に有効であることを著します。これはオレンジに含まれるビタミンCがコラ-ゲンの合成を助けるためです。
脚気はビタミンB1の不足からきます。海の魚を食べていれば脚気を防ぐことができます。当時のヨ-ロッパ人は船上で釣りはしませんでした。それより傷みかけた塩漬け肉の方を好みました。熱帯の魚はあまりおいしくなかったのかもしれません。
・大航海時代の航路と植民地
1519~1522年にマゼランらが世界一周航海に成功します。マゼランはポルトガル人ですが、船はスペインの船でした。スペイン人とポルトガル人の確執もあり、航海は内部の争いで停止することもありました。マゼランの目的は香辛料が採れるモルッカ諸島がスペイン領に属することを確認することでした。スペインとポルトガルは衝突をさけるために、勝手に全世界を2つに分けて自国の領土に決めてしまいました。南北アメリカはスペイン領、アフリカ・南アジアはポルトガル領となっていましたが、太平洋の境界が不明瞭でした。
船員の多くはまだ地球が丸いことを納得しておらず、南方に行くことに不安をもっていました。赤道に行くと海が沸騰すると恐れている船員もいました。赤道を超えさらに南方に行くと絶壁や氷壁が立ちふさがっていると信じている者もいました。航海が遅れると壊血病が生じ、死の恐怖で暴動を起こすこともありました。乗組員全員が病死して幽霊船になる船があったと思われます。
・貿易風と偏西風を利用して大西洋を横断
帆船は大陸沿岸に沿って航海する場合は、海風や陸風を利用して航海できます。しかし外洋に出てしまうと貿易風や偏西風を利用して航海しなければなりません。貿易風や偏西風は地球の自転のコリオリ力の影響を受けて、北半球では北東貿易風と南西偏西風、南半球では南東貿易風と北西貿易風、赤道では東貿易風になります。赤道上は上昇気流が生じ、低気圧となります。緯度30度付近で下降流が生じ高気圧になります。つまり緯度30度付近は無風地帯で帆船が進まなくなるのです。そのときは船に積んだ馬を食べて飢えを凌ぎました。当時は地球の大気循環の知識は限られていたので、初期の航海は失敗を避けきれず、船員が減れば、船隊の一部の船を放棄せざるを得ませんでた。
・赤道の自転速度460m/sと北緯30度の自転速度400m/sに差があるので、上空には60m/sのジェット気流が発生します。ジェット気流は蛇行しており、季節によって変動します。変動を受けた貿易風は季節風とも呼ばれます。ヨ-ロッパからインドに行くには季節風に乗っていかなければなりませんでした。
・マゼラン世界一周航海の困難
ポルトガル人であるマゼランは、スペイン王カルロス1世に「西回りルートは遥かに安く香料を入手できる」と説得しました。1519年8月マゼランはスペイン船5隻270人の艦隊を率いて出発します。4か月後南米のリオ・デ・ジャネイロ地方で裸族トゥピナンパ族と出会います。リオのカ-ニバルは原住民の文化を受けついでいるのかもしれません。
マゼラン艦隊は南米大陸南端のマゼラン海峡を発見しましたが、スペイン人の反乱で艦隊は3隻となってしまいました。1521年3月に餓死寸前のマゼランの艦隊はグアム島に到着します。彼らはそこで島民7人を殺害します。1521年にマゼランは調子に乗ってフィリピンで布教活動をおこないます。しかし中には布教に従わない村もありました。彼は布教に反抗する村を焼き払ったため、村人たちに殺されます。
1521年11月、エルカーノを船長ら60人が2隻でモルッカ諸島に到達しました。そこでトリニダード号は丁子(クロ-ブ)を積み過ぎで浸水します。エルカーノはビクトリア号1隻60人でモルッカ諸島を出発します。スペイン船ビクトリア号は、ポルトガルの勢力圏内で途中の港に立ち寄れないため、壊血病と栄養失調で多くの死者を出しました。1522年9月にセルビアに1隻で帰港し、18人が史上初の世界一周を達成しました。
マゼランは2年分の食料と交易品と武器を積みました。積み荷の内容を示します。主食は堅パンと塩漬け肉です。飲み物はワインでした。交易品は小刀やハサミや釣り針や腕輪や色布などでした。その中には鈴や水銀なども含まれていました。武器も多く積まれていました。
・インド洋を航海した鄭和の超大型船
16世紀の中国の船舶技術はヨ-ロッパを凌ぐものでした。鄭和 (1371~1434年)は雲南出身のイスラム教徒です。鄭和は明朝の永楽帝の宦官になりました。洪武帝は軍人気質で宦官が嫌いでしたが、永楽帝は好きでした。1405~1433年まで鄭和は7回の大艦隊を率いて南海遠征をおこない、東アフリカを含め30か国以上に対し朝貢貿易を促しました。鄭和の主船は、宝船と呼ばれ、全長140m×幅58mの超大型ジャンク船でした。船体には竜骨はなく、水密隔壁を有します。宝船は浅海航行、耐波性、高速性に優れていました。但し復元模型では横帆だけで縦帆が見受けられません。随行する艦船数は200隻で、2.8万人が南海遠征に関わったと言われています。これらは民間船ではなく、官船です。
この時代はインドと中国が世界のGDPの50%を占めており、西欧は15%程度でした。西欧が中国を抜くのは1850年以降です。明の初代皇帝である洪武帝(朱元璋)は農民出身のため、商人の興隆を恐れ、国家が通商を統制管理しました。中国が民間の海洋貿易活動を認めなかったことは、ヨ-ロッパに覇権を奪われる一因となりました。
・世界初の紙幣は中国うまれ
紙幣は中国で生まれ発達しました。紙幣は王朝に潤沢な資金を提供し、商工業が栄えました。1023年に宋が「交子」(兌換紙幣)を発行しました。これは四川で通用しました。元々交子は鉄貨の預り証でした。南宋では会子と呼ばれていました。1127年に金が「交鈔」を発行しました。初期の交鈔は7年の有効期限がありました。1260年に元が期限無しの「交鈔」を発行しました。マルコポ-ロは元の紙幣を見て大変驚きました。元は銀本位制の国でした。元のヤワラチ財政官は関税・通行税を廃止し、3%の売上税を実施しました。耶律楚材は元が華北の中国人を殺して遊牧地にするのを押しとどめ、職業戸籍を作って課税することを進言したと言われています。
1375年に明の洪武帝は「大明宝鈔」を不換紙幣として発行しました。寸法は33×22cmで世界最大です。紙幣を発行したのは、銀が欠乏していたからです。明はマニラに流入したメキシコ銀に救われます。
1616年に清は銅貨と銀貨を使用しました。宋、金、元、明の歴代王朝は紙幣増刷でインフレを起こして滅亡したことを教訓にして、清は紙幣を発行しませんでした。
・歴代中国王朝の衰退原因
国の歴史は経済の発展と密接な関係を持っています。歴代の中国王朝の主産業、経済、市場特性をまとめた表を示します。中国では、唐の農業、宋の商工業、元の貿易業と発達しましたが、明では農本主義政策に逆戻りし、清では手工業が主産業になります。
唐王朝では均田制が徐々に崩れ、大土地所有が進み、経済不況で滅びました。宋王朝では交子紙幣により、潤沢な資金が供給され、商工業が発展しました。元王朝では国際的な貿易業が盛んになりましたが、紙幣増刷により滅びました。明王朝では官制限が厳しく、闇市場が生じ、税収が低下しました。明は税収を補うために紙幣を増刷し過ぎて滅びます。紙幣は、経済を活発化させ、国を豊かにすると同時に国を滅亡させます。現在でも紙幣を巡るジレンマは大きな問題となっています。
清王朝では人頭税を廃止したため、戸籍登録者が増え、土地税収が増えました。清は紙幣を使わず銀貨や銅貨を使いましたが、銀不足に苦しんでいました。満州地域は物流の中心にあり互市貿易で発展してきました。清時代には新大陸のトウモロコシ、サツマイモ、落花生などの新しい農産物が導入され、人口が5千万から4億に増加しました。新しい農作物は世界の歴史に大きな影響を与えます。
中国南部は暖かいので農業生産性が高く、労働コストが極めて低いので、清の綿製品は英国製品より安価でした。中国は生産機械を導入することなく安価な綿製品が作れたので、産業革命が遅れました。
・均田制の限界
道徳的には貧富の差が小さく、生産性が高い国が理想的です。下図に、国の生産力Pと貧富の差ΔXの関係の典型例を示します。均一に土地を配布すると、貧富の差は小さいのですが、生産力は最大になりません。これは人間の能力は不均一だからです。均一に土地を配布すると、農業をやる気のある人には足りず、やる気のない人には多すぎるからです。これが均田制の限界です。農業の動機や能力を高める教育によって是正することは可能ですが、ある程度貧富の差は生じます。多くの場合、能力はやる気のない人が増えて土地を売ると、大土地を所有する地主が増えて、多くの人は地主の下で働くことになります。能力とやる気にあった土地分配になったとき最大の生産力が得られると考えられます。しかし大土地所有が進むと、貧民が増加し、購買力が低下します。それによって投資が低下して経済が不況になり、国力が低下します。
この場合、生産性を上げるには農業以外の産業に従事する人を増やし、多様な能力を活用することが有効です。従って、産業は必然的に農業から商工業、貿易業、金融業と発展かつ多様化していくと考えられます。人民の生活を豊かにするには、教育を施して貧富の差をできるだけ小さくすることと、多様な産業を育成し、全体の生産性を向上させる政策が必要になります。
5.スペイン人の侵略
・コルテスのアステカ帝国の征服
アステカ帝国を征服したスペイン人のコルテスについて紹介します。エルナン・コルテス(1485年生)は法律家を目指しマドリ-ドのサラマンカ大学に通いましたが、中退しました。コルテスは19歳の時にイスパニョ-ラ島(現ドミニカ)に渡り植民者になりました。20歳で島の統治者である叔父さんからエンコミンダ制の権益を与えられました。1506年25歳の時にベラスケスのキュ-バ遠征に参加し、多くの不動産や原住民奴隷を獲得しました。コルテスはキュ-バ総督になったベラスケスに気に入られて、彼の秘書官になりました。キューバでコルテスは鉱山や牧畜業を営んでいました。コルテスはインテリで、コネもあり、野心もあり、若くして指導者の頭角を現しました。
1519年2月に34歳のコルテスはベラスケスに無断で16頭の馬と大砲や小銃で武装した500人の部下を率いてユカタン半島沿岸に向け出航しました。コルテスはタバスコでセントラの戦いに勝利し、女奴隷20人の中からマリンチェという娘を通訳兼愛人として用いました。当時アステカには、白い肌のケツァルコアトル神が1519年ごろに現れるとの予言がありました。こうした現地の伝説は征服者に有利に働きました。アステカ帝国には絵文字があり、数字は20進法でした。
コルテスはウルア島にベラクルスを建設し、センポアラの町を味方に付けました。スペイン人から離脱者が出ないように手持ちの船を全て沈めて退路を断ち、300人で内陸へと進軍したのです。
1519年11月18日、コルテス軍は首都テノチティトランへ(現メキシコシティ)到着し、現地王のモクテスマ2世は抵抗せずに歓待しました。しかしコルテスはクーデターを起こしてモクテスマ2世を支配下におきます。
1520年5月、キュ-バのベラスケス総督はナルバエスにコルテス追討を命じましたが、ナルバエスはコルテスに返り討ちにされます。1520年7月コルテスがテノチティトランに戻ると、部下のアルバラ-ドがアステカ人を虐殺し大規模な反乱が起こっていました。王を失ったメシーカ人がコルテス軍を激しく攻撃したので、コルテスはテノチティトランから脱出しました。
1521年4月28日、コルテスはトラスカラで軍を立て直し、テテスコ湖畔に13隻のベルガンティン船を用意し、3万の同盟軍とともにテノチティトランを包囲しました。1521年8月13日、コルテスは病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモク王を捕らえアステカを滅ぼしました。アステカ王国の宮殿の資材を用いてスペイン風のコロニアルな街並みが築かれました。同時に農業と居住地域の拡大のためテスココ湖の埋め立てが行われました。
・浮遊菜園チナンパ農法
メキシコは降雨が不規則で、標高が2000mと高いため霜害も多く、地力も不足しています。アステカ王国の都テノチティトランでは、テスココ湖の浮島に水路の底に溜まった肥沃な泥(=腐敗した水草)を汲み上げ、トウモロコシの茎や乾いた土を混ぜて培養土として作物を栽培するチナンパ農法が行われていました。
チナンパ農法は高い収穫量をもたらし、テオティワカン文明やアステカ文明の食糧生産の基礎となりました。チナンパは総面積は9,000ヘクタールに及び、20人/haを養ったと推定されています。標高が高く乾燥しているのでマラリアを媒介する蚊が殆ど発生しません。
チナンパの跡地からは豆、カボチャ、サンザシ、ウチワサボテンなど、多くの種類の作物を栽培した痕跡が見つかっています。菜園の周囲には水に強い柳の木を植えていました。年間に3~4回転で作物を生産し、都市が消費する食料の1/2から2/3を生産していました。
・ピサロのインカ帝国の征服
フランシスコ・ピサロは1470年にコルテスと同じスペインの内陸部で生まれました。父は軍人、母は召使いでした、ピサロは教育を受けておらず文盲です。1498年28歳のころピサロはイタリア戦争に参加した後、32歳でエスパニョーラ島へ渡ります。1526年にピサロは探検家のアルマグロらと苦労して南米を探検し、文字がない文明であるインカ帝国(現ペル-)を発見します。インカ人は白人をビラコチャという神様と思い込み厚遇したため、ピサロらは金銀を得ます。1527年にインカ帝国の皇帝ワイナ・カパックが天然痘で死去し、2人の息子の間で内戦が起こります。
1528年にピサロはスペインに戻り、カルロス1世からペルー支配の許可を取り、貴族と総督の位を与えられ、1530年にピサロは4人の兄弟たちと募集した兵士とともにパナマに戻ります。翌年61歳のときにピサロは180人の兵士と37頭の馬を率いてパナマを出港し、ペルーへの侵入を開始します。1532年にピサロら168人は馬、鉄兜、鉄砲12丁を用いて、インカ帝国を侵略します。ピサロは皇帝アタワルパを幽閉し、翌年処刑します。ピサロは大部屋1杯分の金6トンと2杯分の銀を得ます。1933年にピサロはインカ帝国の分裂を巧みに利用しながら進撃し、クスコを征服します。クスコは標高3300mの高山都市です。ピサロは老齢なのに体力がありました。1935年に海岸地帯に植民都市(現リマ)を建設します。
1936年にピサロはカルロス1世にアタワルパを無実の罪で処刑したとして死刑を宣告されます。1537年からインカ帝国の首都のクスコの領有権をめぐってアルマグロと対立し、翌年アルマグロを処刑します。結局1541年にピサロはアルマグロの遺族らにリマで暗殺されます。ピサロの遺体はミイラとして現在も保存されています。当時950万人もいたインカ帝国の人口は、スペイン人が持ち込んだ天然痘で100万人に激減しました。
南米の西海岸は、フンボルト寒流のため降雨がなく、砂漠地帯です。だからインカ人たちは高山に都市を建設してきました。インカ帝国の都市のひとつであるマチュピチュは、標高1800mで、優れた灌漑設備が施されています。山頂部にある堅固な花崗岩質の岩塊を削り出して様々な設備を作り出しました。
リマはポトシ銀山からの銀の積出港として栄えます。リマの人種構成は、メスチ-ソと呼ばれる混血人が40%、ケチュア人などの先住民が30%、西欧系が25%、黒人アジア人が5%程度です。
・メキシコの銀の道
スペインの植民地時代、メキシコで銀鉱脈が見つかり、大量の銀がスペイン国王に送られました。1550年から1850年までの約300年間、メキシコシティから北上し、グアナフアト(1550年)、ケレタロ、サカテカス(1546年)などの鉱山を通る道は、採掘した銀やヨーロッパから輸入した水銀を輸送する交易路として利用されていたことから「銀の道」と呼ばれています。サカテカスはAgPbが採れる鉱山で、今は世界遺産になっています。銀の道は趣きあるコロニアルシティを巡る観光ルートになっています。鉛は鉄砲玉の原料に用いられました。
銀の採掘で莫大な富を得た鉱山の所有者は、教会建設に資金を投入しました。そのためバロック調の華麗な装飾を施したコロニアル建築の建物が今も数多く残されています。太平洋貿易が始まり、アカプルコからマニラまで運ばれた銀は清王朝を復活させました。
・ボリビアのポトシ銀山
アンデス山脈のポトシ銀山は標高4067m(平均気温8℃)の高地にある最大の銀山でした。1500-1800年の間、スペインは世界の銀の85%を生産していました。水銀権益と銀利益の20%は王室のものでした。ポトシは人口16万人の大都市でした。労働環境は劣悪で、スペイン植民地時代には800万人が亡くなりました。彼らはコカの葉を噛み、高山病と闘いながら、アルコ-ルを口に含み消毒し、有害物質と隣り合わせで働いていました。現在もポトシでは15000人の過酷な労働が続いています。平均寿命は45歳で、年間30人以上が死亡しています。
・1545年 グアルパが焚火の火床に銀を発見(主にAgClとAg)
・1556年 露天掘りから横穴堀りに移行
・1558年 ガルセスがペルーのワマンガで水銀鉱床を発見
・1566年 ポトシ銀山で高品位鉱が枯渇
・1572年 アマルガム法の採掘開始 他にも灰吹法(Pb)あり
<製法>
・2AgCl + CO = 2Ag + COCl2 (塩化カルボニル有毒ガス)
・2AgCl + 2Hg = 2Ag + Hg2Cl2 (有毒水銀ガスが発生)
銀と水銀からなるアマルガムを加熱して銀を得る。
・なぜ先住民族の大虐殺が起きたのか?
先住民はスペイン人入植者に若い女性を奪われたことや鉱山での奴隷労働に対して抵抗しました。それに対しスペイン人は異教徒である先住民に残酷な拷問を加え、時には皆殺しにしました。
北米大陸の先住民5000万人は、スペイン人の天然痘、麻疹、インフルエンザに感染し1/10に減少したと推定されています。他地域と合計すると約6500万人が死んだことになります。キリスト教徒は牛や豚や羊を飼っていたので、天然痘の免疫がありましたが、新大陸には家畜動物がいなかったので先住民に天然痘の免疫がありませんでした。逆にアメリカ大陸からスペインにもたらされた伝染病もありました。1493年にバルセロナで新大陸の風土病の梅毒が発生しました。1512年に梅毒は日本に渡来しました。
・コロンブス像の頭部破壊 、人種問題で反発強まる
2020年6月に米国では、ミネソタ州ミネアポリスの白人警官が黒人のジョージ・フロイド氏を死亡させた事件を受け、各地で人種差別に抗議する大規模なデモが発生しました。人種差別に関連する植民地時代の指導者や奴隷主の像の撤去を求める声が強まっており、各地でコロンブス像の首が落とされました。
6.太陽の沈まぬ国スペインの没落
・スペインの植民地政策
西インド諸島で新しい領土が獲得されると、スペインは商務省をおいて植民地貿易を王室の独占的支配下におきました。エスパニョーラ(現在のハイチ・ドミニカ)・キューバなどではプランテーション経営(大農場経営)による砂糖生産が始められ、過酷な扱いで人口の激変した先住民にかわり、アフリカから黒人が奴隷として連れてこられました。 メキシコ・ペルーの征服は莫大な金・銀・宝石類をスペインにもたらしました。アステカ帝国やインカ帝国から略奪された金・銀が大西洋を越えて本国に運ばれ、その5分の1は国王に献上されました。1545年、ボリビア高地のポトシで無尽蔵の銀鉱脈が発見され、インディオの強制労働により安価な銀が大量に採掘されました。以来、アメリカ大陸から大量の銀がヨーロッパに流入します。
16世紀末までにヨーロッパに運ばれた銀は、2万トンに達したと見積もられています。通貨としての安い銀がヨーロッパの物価を高騰させ、経済に大きな影響を与えました。南ドイツの銀山を経営していた大富豪や、地中海貿易で活躍していた南ヨーロッパの商業資本は没落を早めました。スペイン本国には国王直属のインディアス評議会がおかれ、アメリカ大陸の植民地の裁判、役人・聖職者の任命もおこないました。植民地ではアウディエンシアと呼ばれる統治機関が行政を担当していました。植民者は、エンコミエンダ制により、征服地の土地・住民の統治を委託され、先住民を強制労働にかりだしました。西インド諸島・アンデス地方・メキシコなど各地において先住民は酷使・虐待され、またヨーロッパ人がもちこんだ疫病などで、急激に人口を減らしました。
・エンコミエンダ制とは
エンコミエンダ制とは、スペイン王室が、スペイン人入植者に北米のインディオをキリスト教徒に改宗させたら、ご褒美にインディオを一定期間働かせて貢納物を受け取る権利を与える制度のことです。エンコミエンダ制はスペインによるメキシコやフィリピンの植民地支配にも用いられました。この時代によく出てくる専門用語を説明します。
コンキスタド-ル(支配者)は裁判権と自治権を掌握していたので 先住民は逆らえませんでした。西インド諸島のインディオはエンコミエンダ制による鉱山での強制労働と鉱毒のため、2年程度で死亡していました。ドミニコ修道会のラス・カサスはスペイン人のあまりに酷い不正行為を告発しました。教皇はインディオ信者から1/10税を徴収し、王は銀を得たので、インディオの悲惨な現状を見て見ぬふりをしました。
死んだ原住民の代わりにアフリカから黒人奴隷を連れてきて、鉱山や農場で働かせました。教皇子午線によってスペインはアフリカ人奴隷を利用できなかったので、スペインはポルトガル商人に契約金と納税と引き換えに自国のアメリカ植民地に黒人奴隷を供給するアシエント(許可状)を与えました。1685年にはオランダがアシエント権を落札しました。1713年のユトレヒト条約で、イギリスはアシエント権を得たのち大西洋で三角貿易を行いました。
17世紀、先住民の数が減少すると、農地が暴落し、貢納が減り農産物が値上がりした。スペイン王から土地を貰った入植者は、都市や鉱山向けの農業、牧畜経営を始めたので、アシエンダ(大土地所有制度)が発達しました。
・なぜポルトガルとスペインは没落したのか?
ポルトガルは香辛料貿易で多額の利益を得たにも拘わらず、16世紀後半に没落します。スペインは新大陸で多額の銀を得たにも拘わらず、17世紀初頭に没落します。その理由は、ポルトガルとスペインは金融技術に疎く、金融技術に長けたジェノバや自国の商人たちに搾取されていたからです。
1500年ポルトガル王イマヌエル1世はパドラン・デ・ジュロ公債を発行しました。ジェノバはポルトガル公債を買い付け、公債の高利子で大儲けしました。ポルトガルが得た香辛料貿易の利益の殆どは公債の利払いに消えてしまいました。ポルトガルは香辛料の輸入量を増やして儲けようとしましたが、香辛料価格が暴落してしまいました。
彼らが金融技術に疎かったのは、彼らはカトリック教徒だったからです。カトリック教徒は、時間は神のものであり、利子を取ることは神への冒涜だと考えていたのです。イスラム教徒も利子を取りません。スペイン国王のフェリペ2世は、書類王を呼ばれ、異常なほど勤勉かつ敬虔なカトリック教徒でした。彼は金銭を汚いものと考え、国庫の窮状に関心を持ちませんでした。臣下から複式簿記を提案されても、拒否しました。
それどころかフェリペ2世は、ネーデルランドの新教徒(カルバン派)を弾圧し、スペインに低利子で融資していたアントワ-プの交易都市(ベルギ-)を自分で潰してしまいました。新教徒は、アムステルダムやロンドンに避難したので、交易の中心地が変化し、オランダとイギリスが台頭しました。1584年にオランダはスペインから独立します。
・ポルトガルに訪れたチャンス
1560~1660年、ヨーロッパは小氷期を迎えていました。1580年にスペインはポルトガルを併合し、ポルトガルの負債を背負いました。1600年代にポルトガルはオランダのせいでインドやアジアの植民地を失います。1640年にポルトガルは独立を回復します。これはスペインが没落したからです。
1693年、ポルトガルはブラジルのミナス・ジェライスで金鉱発見します。リオ・デ・ジャネイロは、1760年まで金の積出港として繁栄しました。1712年に金の産出量は14.5トン、1720年には25トンに達しました。18世紀半にブラジル産の金は世界の金の総生産量の85%を占めていました。
1703年にイギリスとポルトガルがメシュエン条約を締結します。ポルトガルはイギリスにワイン輸出を条件に綿織物の輸入を認めました。その結果ポルトガルは、自国の手工業が壊滅し、イギリス産の綿織物を金で購入するようになりました。販路拡大とポルトガルから流れたミナスの黄金はイギリス産業革命の基盤となりました。
1785年ポルトガル女王のマリア1世(Dona Maria, a Louca)はブラジルでの工業の禁止を命じたため、造船などのブラジル工業は壊滅しました。マリア1世は愚か者のマリアと呼ばれていました。ミナスの黄金でマリア1世の金貨が作られます。1807年11月ナポレオンの大陸封鎖令に反抗したマリア1世は、宮廷の 15,000人と共にイギリス海軍に護衛されてリオデジャネイロに逃亡します。1822年、ブラジルはポルトガルから独立し、ポルトガルは小国に戻ります。
・なぜ小国オランダは世界制覇できたのか?
オランダとイギリス両国ともノルマン人から受けついだ高い造船技術を有していました。実は航海の一番の難所は目の前のドーバ-海峡でした。そこを通れる船はどこでも行くことができました。両国はアジアとの直接貿易で富を蓄積しました。中飛ばしを受けたイスラム帝国はアジア貿易の利益が減少して衰退します。オランダとイギリスは東インド会社を設立し、国の認定を受けた独占貿易を行います。ここで東インドとは現在のインドのことで、西インドとはアメリカ大陸のことです。東インド会社は、国権を担っており、いわば海のテンプル騎士団でした。しかしオランダ東インド会社の株券の方が富裕層の人気を集めたため、オランダの方が高い集金力がありました。富裕層は昔からリスクの低い商品を好みます。オランダはヨ-ロッパの商品を一手に販売していたため、高い販売力もありました。
[1]オランダ方式~ 低リスク・低リタ-ン 低配当株券による資金調達
1)船が沈没しても、一定の配当がでる。
2)株式相場の変動が小さく、リスクが低い
3)株主に経営権がある。
4)株主の損害責任は集金資金の範囲内
[2]イギリス方式~ 高リスク・高リタ-ン 航海毎の株券発行による資金調達
1)船が沈没すると出資金を回収できない。
2)株式相場の変動が大きく、リスクが高い
3)株主に経営権がない。
4)株主が引き受ける損害責任は無限
アンボイナ事件以後、オランダがイギリスを抑え香辛料貿易を独占し、30倍の利益を上げます。しかしその後オランダはイギリスに軍事力で抑え込まれ、最終的にはイギリスが覇権を握ることになりました。
・闇に葬られた植民地抗争
アンボイナ事件とは1623年3月9日にオランダがモルッカ諸島アンボイナ島にあるイギリス東インド会社の商館員30名を拷問にかけ、殺害した事件です。オランダ当局はタワーソンをはじめイギリス人9名、日本人10名(傭兵)、ポルトガル人1名を斬首しました。日本人は世界の覇権争いに絡んでいたのです。江戸時代は内戦が無くなり、失業した武士が海外で傭兵になっていました。
当時オランダはイギリスの毛織物製品を輸出(中継貿易)していたので、イギリスはこの事件を問題にしませんでした。国家にとって経済が最優先だったのです。この事件により、イギリスの香辛料貿易は頓挫し、オランダが香辛料貿易の権益を独占しました。東南アジアから撤退したイギリスは、インド・ムガル帝国での綿栽培へ矛先を向けることとなります。イギリスの産業革命は綿工業から起こります。
・覇権国家に必要な要素
覇権国家になると、世界中のお金が集まり、益々豊かになります。覇権国家になるには、貿易力、生産力、金融力、軍事力、謀略力が必要になります。ポルトガルは貿易力に優れていました。スペインは宗教布教と金銀の生産力と軍事力に優れていました。オランダは貿易力と金融力に優れていました。オランダはスペインから独立を果たしますが、軍事力でイギリスに負けます。フランスは金融資本が足りず、植民地競争に出遅れます。イギリスは貿易力と軍事力でフランスと競い合います。イギリスは、奴隷貿易、麻薬貿易、海賊行為、経済詐欺などの謀略力と金融力に優れており、フランスを破ります。イギリスの綿製品の競争力は、それほど高くなく、貿易収支は赤字でした。当時は特許制度が未熟で、イギリスの新しい工業技術はフランスにコピ-されてしまいました。イギリスは金融業などの貿易外収益で稼いでいたのです。
産業革命以前は、植民地で得られる産物を加工・輸出することで利益を得ることができました。産業革命以後は、鉄鋼業や重化学工業で生産機械や輸送機器を生産する方が利益が出るようになりました。海外に植民地の少ないドイツは、重化学工業を発展させ、欧州に鉄道を敷くなどして収益を上げます。機械による大量生産の発展は、破壊力の強い兵器や多量の軍事物質や兵隊を運搬する輸送機を大量に作り出し、世界的な戦争を引き起こしてしまいます。
これで前半の発表を終わります。皆さん、ご清聴ありがとうございました。